きゃつ[#「きゃつ」に傍点]がここへ出て来たところをみると、同類が他地《ほか》でなにか遣《や》っているに相違ないと白眼《にら》んだのだ。思いあたるところがあるから、エリク・ヘンダスンは、その夜のうちにアフガニスタンへ飛ぶ。
このアフガニスタンでのヘンダスンの劇的活躍こそは、ドイツ特務機関をして切歯扼腕《せっしやくわん》させたもので、この事件があってから、ヘンダスンの身辺はたびたび危険を伝えられた。それほど、ドイツ自慢の智能部が、ここではこの砂色の頭髪をした一英国人のためにあっさり鼻を空《あ》かされている。
ドイツ政府は、アフガニスタンの族王《エミア》に秘密条約を申し込んでいた。幾|折衝《せっしょう》を重ねたあげく、ようやく仮条約締結の段まで漕《こ》ぎつける。外務首脳部のほかだれも知らない密約である。カイゼルの批准《ひじゅん》を得た草稿を帯びて、厳秘《げんぴ》のうちに、独立特務機関の有数な一細胞が、ベルリンを出発する。
外交の秘密文書を逓送《ていそう》する。いわゆる外交郵便夫として本格的な場合である。なるだけ眼立たないように、特務室などは取らない。わざと一般乗客にまぎれこんで乗車する。ドイツ文の原文に添《そ》えて、族王《エミア》が読めるようにというのでアフガニスタン語の翻訳を携《たずさ》えて行く。問題はこの訳文だった。
厳密に調べると、どうも誤訳が多いというのである。それも原文にあるよりも、アフガニスタンに有利にとれる間違い方だった。そんなこととは夢にも知らない族王《エミア》が、その曲筆《きょくひつ》の訳文を見て、そうか、これならいいだろうというんでにこにこ署名をしようもんなら、ドイツはたちまち儲《もう》け物だ。こっそり舌を出そうという寸法。人が悪いようだが、どうせ帝国主義下の国力伸長のからくりなぞ、みんなこんなようなもので、ドイツが格別不正なわけではない。ことに小国にたいする場合、どこの国も平気でかなりひどいことをしてきている。これを称して国際道徳という。
で、莫迦莫迦《ばかばか》しいようだが、ドイツは、盲人《めくら》に、よいように手紙を読んでやる長屋の悪書生みたいな遣《や》り方で、アフガニスタンを誤魔化《ごまか》してなにかせしめようとした。それがなんであったか、ハッキリ判明していない。戦時における鉄道沿線警備に関する申し合わせ、そんなような問題だったらしい。
原訳二通の条約草稿を茶色の革袋へ密封して、特別仕かけの錠をおろす。腕っこきの特務員が、大きな眼を開けて、片時も放さず袋を握っていくのだ。万善《ばんぜん》を期するため、たがいに識《し》らない密偵部員が二人、めいめい自分だけと思って、見え隠れについていく。郵便夫の男も、二人の顔を知らないのだから、スパイがスパイを尾《つ》けている形で、二重三重の固めだった。実際、この時分のドイツには、密偵密偵機関《カウンタ・エスピイネイチ・グランチ》といって、もっとも鋭い、老練家のスパイが選ばれて、しじゅうスパイをスパイして警戒眼を放さない制度になっていた。スパイをやるくらいの奴だからいつ寝返りを打たないともかぎらないというので、皮肉な話だ。そこで、スパイをスパイするスパイだけではまだ不安だとあって、そのスパイをスパイするスパイ、つまり、初めからいうと、スパイをスパイするスパイをスパイするスパイを置いて、そのまた上に、スパイをスパイするスパイ――とにかく識《し》らない同士の三人旅である。途中なにごともなくアフガニスタンへ着いて、密書入りの革袋は、ただちにドイツ領事館内の金庫へ保管される。領事館で初めて顔の合った三人、スパイの鉢《はち》あわせで、驚いた。
「やあ、君もか。」
「なんだ、君もそうだったのか。どうも眼つきのよくない奴が尾《つ》けて来ると思ったよ。」
「しかし吾輩は、君がそうとは気がつかなかったぞ。しょっちゅう[#「しょっちゅう」は底本では「しょっしゅう」]眠ってたじゃないか。」
「うん。心眼をあけてね。」
「どうだか。怪しいもんだぜ。隙《すき》だらけだった。」
「馬鹿言いたまえ。虚実の間を往《ゆ》くのがスパイの要諦《ようてい》なんだ。はっはっは。」
なんかと、館員も加わって豪傑ぞろいのドイツ人のことだから、呵々《かか》大笑、がやがややっているところへ、ノックもなしに扉《ドア》が開いて、のそりとはいって来た人物を見ると、長身、筋肉的、砂色の毛髪、手筈《てはず》によれば、ソフィアで、同志H21に現《うつつ》をぬかしているはずの英少佐エリク・ヘンダスンだから、一同おやっと呆気《あっけ》に取られている。
ひとりで舞台を攫《さら》ったヘンダスンは、得意時の人間の商人的馬鹿ていねいさで卓子《いす》へ近づいて、いきなりポケットから二通の書類を取り出して叩きつけた。
「紳士諸君」ち
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