アバス・ヌリ殿下が、予定を変更して、急拠《きゅうきょ》パリーへ引っ返したのである。
 大戦当時のフランスの密偵局に、ドイツのスパイ団をむこうにまわして智慧競《ちえくら》べを演じ、さんざん悩ました辣腕《らつわん》家に「第二号」と称する覆面《ふくめん》の士のあったことはあまりに有名だ。それがだれであったかは、当時もいまもよくわかっていないが、アバス・ヌリ殿下の行動に危険を看取《かんしゅ》してにわかに呼び返したのは、この「第二号」だったと言われている。また殿下自身、じつはフランス密偵部の同志で、自発的にああしてドロテイン街の家を探検したのだという、穿《うが》ったような説もある。あのロシアの外交郵便夫ルオフ・メリコフ事件をはじめ、この邸《やしき》で奇怪な出来事が連発してきたので、すくなくとも仏露両国のスパイは、とうからこのベルリン・ドロテイン街の大邸宅とその美しい女主人、伯爵のいない伯爵夫人フォン・リンデンとに眼をつけていたのだ。
 このことがあってからまもなく、ドロテイン街の家は急に閉鎖された。これからのマタ・アリは、縦横に国境を出入して諸国に放浪する、スパイらしいスパイである。
 ほんとに活動にはいる。

 ジャワなどとは嘘の皮で、一八七六年八月七日、オランダの Leenwarder 町に生まれた。家はささやかな書籍商。父は Adam Zell、母親の名は Autje van der Maclen といった。「|朝の眼《マタ・アリ》」も夜の眼もない。本名は Marguerite Zelle。インド内地の神殿というが、じつは首府へイグ市近郊の宗教学校、尼さんになるつもりでここで教育を受けた。が、早くも少女時代に飛び出して結婚している。もちろん、相手は貴族でもなんでもない。強《し》いていえば、兵営の貴族だった。オランダに遊びに来ていた若い英国士官マクリイの軍服は、後年の「|朝の眼《マタ・アリ》」には、十分貴族的に見えたかもしれない。一緒になるとすぐ、マクリイはインド駐屯《ちゅうとん》軍付きを命じられた。のちのマタ・アリことマルガリット・ツェルもくっついて行く。
 だから、インドへ行ったことは行ったのだ。が、南国に住むと、特質が強調されて、潜《ひそ》んでいた個性が現われるといわれている。青年将校マクリイがそれだった。人が変わったように、飲む。買う。打つ。手に負えない。おまけに、給料だけではたらないから、マルガリットは、良人《おっと》の命令で、同僚の所へ金を借りにゆかなければならない。それも、どんなことでもいいから、先方の言うとおりにして、ともかく借りてこいと言うのだからひどい。植民地の若い軍人だ。独身者が多い。周囲は黒い女ばかりの所へ、マルガリットは白い中でも美人である。要求と媚態《びたい》に、みな争って金を借すようになった。まもなくマクリイ夫人は人妻なのか、連隊付きの売笑婦なのかわからなくなってしまう。そんな生活が続いた。マルガリットもだんだん慣れて平気になる。後年マタ・アリとしての活躍の素地は、このインド時代に築かれたものだ。自伝では、ここのところをちょっと浪漫《ろうまん》化して、神前に巫女《みこ》を勤めたなどと言っている。
 この間に、舞踊をすこし習った。もちろん祭殿で踊ったわけではなく、ヨーロッパへ帰っても、寄席《よせ》ぐらいへ出て食えるようにしておくつもりだったのだろう。Mata Hari という名は、いうまでもなく自選自称だ。
 四年ののちヨーロッパへ帰ると同時に、離婚して、初めて踊り子マタ・アリとして巡業して歩く。舞踊そのものは、どうせ彼女一流のでたらめに近いものだったに相違ないが、裸体なので評判になった。ことに東洋人というふれこみだからいたるところで珍しがられて、瞬《またた》く間にいい贔屓《ひいき》がつく。われ来り、われ見たり、われ勝てりで、本国のオランダでは、当の首相、ベルリンでは例のお洒落《しゃれ》な皇太子を筆頭《ひっとう》に政府のお歴々、フランスでは陸軍大臣が、それぞれ彼女の愛を求めて、そして当分に得ている。その他知名無名の狼連にいたっては、彼女自身記憶できないほどだった。
 ドロテイン街の家に落ち着いたのはよほどのちのことだが、この家はマタ・アリの活動とともに、ドイツ人はいまだにだれも忘れていない。近所では、とてつもない金持の女が住んでいるのだとばかり思っていた。家具、室内装飾等、贅《ぜい》を尽《つく》したものであったことはもちろんだが、各室いたるところに、あらゆる角度に大鏡が置かれてあって、屈折を利用して思いがけない場所から覗《のぞ》き見できるようになっていた。室内に一人でいても、この鏡の関係と、天井の通風口の格子《こうし》とに気がつけば、上下左右に無数の見えない視線を意識したはずだ。素晴らしい床ランプのコウド
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