足が進まなかった。彼は何よりも海を見捨て得なかったのである。道の突当りに古びた石造の警察の建物が彼を待っていた。異国的な匂いを有《も》つ潮風が為吉の鼻を掠《かす》めた。左手に青い水が拡がって、その向うに雲の峯が立っていた。
海が彼を呼んでいた。
九歳の時に直江津《なおえつ》の港を出た限《き》り、二十有余年の間、各国の汽船で世界中を乗廻して来た為吉にとって、海は故郷であり、慈母の懐ろであった。
錨を巻く音がした。岩壁の一外国船に黒地に白を四角に抜いた出帆旗が翻《ひるがえ》っていた。一眼でそれが諾威《ノルウェー》PN会社の貨物船《フレイタア》であることを為吉は見て取った。出帆に遅れまいとする船員が三人、買物の包みを抱えて為吉の前を急足《いそぎあし》に通った。濃い咽管《パイプ》煙草の薫《かお》りが彼の嗅覚を突いた。と、遠い外国の港街が幻のように為吉の眼に浮んで消えた。彼は決心した。
「靴擦れで足が痛え――」ひょい[#「ひょい」に傍点]と踞《しゃが》み乍ら力任せに為吉は刑事の脚を浚《さら》った。
夢中だった。呶声《どせい》を背後《うしろ》に聞いたと思った。通行人を二人程投げ飛ばしたよう
前へ
次へ
全23ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧 逸馬 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング