森為吉は始めて慄然《ぞっ》とした。隠しの中で坂本の小刀《ナイフ》を握ってみた。冷い触感が彼の神経を脅した。彼は何うする事も出来なかった。何時《いつ》からともなく自分自身が自分の犯行を確信するといったような変態的《へんたいてき》な心理に落ちて行った。こうした弱い瞬間に、根も葉もない夢みたいな告白をした許《ばか》りに、幾多の「手の白い」人間が法治の名に依って簡単にそうして事務的に葬り去られたことであろう。
 が、この場合為吉は自分の無罪――よし彼が無罪であったにしろ――を主張する意地も張りも持合わせていなかった。その証拠さえないように思われた。それよりも海へ出たことの喜びで一杯だった。それでも彼は再び事件の内容を熟考してみようと努めた。が、無駄だった。考えれば考える程、果して自分が坂本を殺したのか、殺さなかったのか其辺が頗《すこぶ》る曖昧になって来た。
 要するに、そんな事は何うでも宜《よ》かった。今は既《も》う日本の土地を離れ切った。そして坂本新太郎は死んだのである。其の犯人として日本警察に狩立てられている森為吉も既に存在しないのである。新生の坂本新太郎を名乗って自分は当分此の諾威《ノル
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