#「し」に傍点]だ! 早くあの男を返せ。あいつを出せ」
船員達は船縁《ふなべり》に集って笑い出した。
「し、し、し、し、し」と一人が真似した。
梯子《ジャコップ》が巻上げられた。
「|皆帰船したか《オウル・アブロウド》?」と舵子長《マスタア》が船橋《ブリッジ》から呶鳴った。「|皆居ます《オウルズ・イン》」と水夫長《ボウシン》が答えた。
がらん、がらん、と機関室への信号が鳴った。船尾に泡を立てて航進機《スクルウ》が舞い始めた。
ちりん[#「ちりん」に傍点]、「|部署へ着け《スカタア・ラウンド》!」、水夫達は縦横に走り廻って綱《ロウプ》を投げたり立棒《ピット》を外したりした。二等運転士《セケン・メイト》が船尾へ立った。
「オウライ」
鎖を巻く起重機《ウインチ》の音と共に諾威《ノルウェー》船ヴィクトル・カレニナ号は岩壁を離れた。
「サヨナラ!」
船員の一人が桟橋で地団駄踏んでいる刑事に言った。甲板上の笑声は折柄青空を衝《つ》いて鳴った出港笛《ホイッスル》のために掻き消された。
※[#ローマ数字2、1−13−22]
船長《キャプテン》の前で一等運転士の作った出鱈目《でたらめ》の契約書に署名《サイン》する時、何ということなしに為吉はシンタロ・サカモトと書いて終《しま》った。
士官食堂《サルウン》の掃除と下級員《クルウ》の食事の世話とが為吉のサカモトの毎日の仕事と決められた。鉄板に炭油《タアル》を塗ったり、短艇甲板《ボウト・デッキ》で庫布《カヴア》を修繕したり甲板積みに針金《ライン》を掛けたりするのにも手伝わなければならなかった。
神戸の街が蜃気楼のように霞み出すと、為吉は始めて解放されたように慣れた仕事に手が付いて来た。舷側に私語《ささや》く海の言葉を聞き乍ら、美しい日輪の下で久し振りにボルトの頭へスパナアを合わせたりするのが此の上なく嬉しかった。自分に対して途方もない嫌疑を持っている日本警察の範囲から脱出しつつあるという安心よりも、自分の属する場所に自分を発見した歓喜の方が遙かに大きかった。
こんな風に自分自身に無責任な態度をとることを、永い間の放浪生活が彼に教えていた。
船員達も彼をサアキイと親しみ呼んで重宝がった。
午後から空模様が変って来たので、為吉は水夫一同と一緒に七個《ななつ》ある大倉口《メイン・ハッチ》の押さえ棒へ
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