足が進まなかった。彼は何よりも海を見捨て得なかったのである。道の突当りに古びた石造の警察の建物が彼を待っていた。異国的な匂いを有《も》つ潮風が為吉の鼻を掠《かす》めた。左手に青い水が拡がって、その向うに雲の峯が立っていた。
海が彼を呼んでいた。
九歳の時に直江津《なおえつ》の港を出た限《き》り、二十有余年の間、各国の汽船で世界中を乗廻して来た為吉にとって、海は故郷であり、慈母の懐ろであった。
錨を巻く音がした。岩壁の一外国船に黒地に白を四角に抜いた出帆旗が翻《ひるがえ》っていた。一眼でそれが諾威《ノルウェー》PN会社の貨物船《フレイタア》であることを為吉は見て取った。出帆に遅れまいとする船員が三人、買物の包みを抱えて為吉の前を急足《いそぎあし》に通った。濃い咽管《パイプ》煙草の薫《かお》りが彼の嗅覚を突いた。と、遠い外国の港街が幻のように為吉の眼に浮んで消えた。彼は決心した。
「靴擦れで足が痛え――」ひょい[#「ひょい」に傍点]と踞《しゃが》み乍ら力任せに為吉は刑事の脚を浚《さら》った。
夢中だった。呶声《どせい》を背後《うしろ》に聞いたと思った。通行人を二人程投げ飛ばしたようだった。そして縄梯子《ジャコップ》に足を掛けようとしている外国船員のところへ一散に彼は駈付けた。
「乗せて呉れ!」と彼は叫んだ。船員達は呆気《あっけ》に取られて路を開いた。
「乗せて行って呉れ、悪い奴に追っかけられてる。何処《どこ》へでも行く、何でもする。諾威《ノルウェー》船なら二つ三つ歩いてるんだ」船乗仲間にだけ適用する英語を為吉が流暢に話し得るのがこの場合何よりの助けだった。
「ぶらんてん[#「ぶらんてん」に傍点]か、手前は」
船側《サイド》の上から一等運転士《チイフ・メイト》が訊いた。
「ノウ、甲板の二等です」と為吉は答えた。
暫く考えた後、
「宜《よ》し、乗せて行く」
猿《ましら》のように為吉は高い側《サイド》を攀《よ》じ登って、料理場《ギャレイ》の前の倉庫口《ハッチウェイ》から側炭庫《サイドバンカア》へ逃げ込んだ。
「殺人犯だ! 解らんか、此の毛唐奴《けとうめ》、彼奴《あいつ》は人殺しを遣《や》ったんだ!」
遅れ馳《ば》せに駈けつけた刑事は息せき切って斯う言った。
「解らんか、ひ[#「ひ」に傍点]、と[#「と」に傍点]、ご[#「ご」に傍点]、ろ[#「ろ」に傍点]、し[
前へ
次へ
全12ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧 逸馬 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング