《ボウシン》が這入《はい》って来た。
「サアキイ、お前は殺人犯《ひとごろし》だと言うじゃないか」水夫長《ボウシン》が呶鳴った。
「大きな声を出すな」
 と為吉は答えた。手は隠しの中に小刀《ナイフ》を探しつつ、がたがた[#「がたがた」に傍点]と震えていた。海への執着が彼を臆病にしていた。
「はっはっは――」と一運《チイフ》が笑い出した。「水上警察と傭船会社《エイジェント》からの無電《ワイヤレス》で船が呼戻されたのだぞ。警察へ護送される途中だったってえじゃないか、はっはっは」
 何が何だか解らなくなった為吉の頭には、絞首台を取巻いて指の傷と小刀《ナイフ》が渦を巻いた。そして一方には其処に展《ひら》けかけた自由な海の生活があった。
「今水上警察の小艇《ランチ》が橋を離れたから、もうおっつけ役人が来るだろう」
 真蒼になって為吉は寝台《パアス》の上に俯伏した。一運《チイフ》と水夫長《ボウシン》とが何か小声で話し合っていた。
「何うする?」と水夫長《ボウシン》の声がした。
「隠れるか」と一等運転士《チイフ・メイト》が言った。弾機《ばね》のように為吉は其の胸へ噛り付いた。声が出なかった。
「宜《よ》し、じゃ逃げるだけ逃げて見ろ。何とかなる」と一運《チイフ》は又哄笑した。
「機関部の奴に預けましょうか」と水夫長《ボウシン》が尋ねた。
「そうだ、ボストンを呼べ、ボストンを」
 水夫長《ボウシン》は毯のように飛び出して行って直ぐ前の機関室の汽※[#「竹かんむり/甬」、第4水準2−83−48]《セリンダア》の上から呶鳴った。
「ボストン! 真夜中《ミド・ナイト》ボストウン!」
 間もなく七尺に近い黒人が油布《ウエイス》を持った儘のそっ[#「のそっ」に傍点]と這入って来た。
「此奴を隠すんだ、早く連れて行け」
 一運《チイフ》は頤《あご》で為吉を指した。ボストンはちらっ[#「ちらっ」に傍点]と彼を見遣って黙って先に立った。為吉は一歩|室外《そと》へ踏み出そうとすると、
「一等運転士《チイフ・メイツ》、警察が来ました」とボウイが走込んで来た。右舷《スタボウド》の甲板に当って多勢の日本語の人声がして居た。ボストンの腕の下を駈抜けて為吉は機関室の鉄階段《タラップ》を転がり落ちた。この騒ぎで機関室にも釜前にも誰もいなかった。|水漉し《フィルタア》へ逃込もうとした彼は、油に滑って其儘ワイヤア氏|蒸
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