が、その結末に待っているものは、いつもかならず違算と失望だった。この怪異な狂鬼《モンスター》が住んでいるかもしれないと思われる町は、片っ端から戸別に家宅捜索した。こうしていつしか、人狩りの網は自然と縮まっていた。事実、一度ジャックは現実に目撃され、会話を交《かわ》し、しかも多分の疑惑をもって仔細《しさい》に観察されている――が、悪運はつねに彼の上にあった。苦心|惨澹《さんたん》して集めた手がかりと報道の上に立っても、ついに彼の正体と所在へは法の手が届かなかったのだ。それもけっして広い区域ではない。この一町内の住民の一人がたしかにそれであるとまでわかっていても、ようするにそこで、神秘の壁が犯人を庇《かば》って、すべての探偵を嘲笑しているのだった。迷信的な人々のあいだには、早くもジャックに超自然的属性を与えて説明し去るものさえ出てきた。曰《いわ》く、この犯人は喰屍鬼《ゴウル》か吸血鳥か、とにかく、人間の眼を触れずに自在に往来す驕A他界の変怪《へんげ》であろうと。この中世紀めいた物語説は、いまでこそだれでも一笑に付するが、あの恐怖と秘異《ひい》感の最中には、冗談どころか、一部の人々によって大真面目に唱道《しょうどう》されたものである。これでみても、いかに全事件が怪奇をきわめ、犯人「斬裂人《リッパア》のジャック」の行動がまったく探偵小説的に神出鬼没《しんしゅつきぼつ》そのものであったかが推測されよう。
 狭い区域内で、連続的に街上で辻君《つじぎみ》を虐殺《ぎゃくさつ》という言葉は足《た》らない。その屍《し》体の状態は、いちいち重要な犯行とともにあとで説明するが、検屍の医師が正視に耐えないくらいじつに酸鼻《さんび》をきわめたもので、とうてい普通の神経機能所有者の所業《しょぎょう》とは思考されない。その、いわば常人でない犯人が、これほどたくみに尻尾をつかませないのである。精神病者はもちろん、すこしでも特異性の見える人間なら、この際すくなくとも近所の評判に上って、とうに密偵の耳にはいっていなければならないはずだ。ことに細民《さいみん》街の特徴として、隣近所はすべて開放的に交渉しあっている。そのどこかに一つでも「見慣れぬ顔」が潜在しているとしたら、それは早晩だれかの好奇眼にふれてなんらかの形でせめて居酒屋《コウナア・バア》会議――日本なら井戸端会議というところだが、英国では、ことにこのロンドンのイースト・エンドあたりでは、山の神連が白昼居酒屋へ集まって、一杯やりながら亭主をこき[#「こき」に傍点]おろして怪気|焔《えん》をあげているのは、珍らしい図ではない――その居酒屋会議の噂の一つくらいには、まさにのぼりそうなものである。しかるに、そういう聞込みの絶えてないことが、警察の第一に不審を置いたところだった。といって、この、人の形を採《と》っている妖鬼《ようき》は、格別犯跡の隠滅《いんめつ》とか足跡の韜晦《とうかい》を計って、ことさらに屍《し》体の発見を遅らしたりして捜査を困難ならしめているわけではない。否、それどころか、ほとんど意識的にとしか思われないほど、彼はおおいに不注意であり、時としては、挑戦的態度をすら示しているのだ。例としては、先に記したごとく、そのうちの一つ、バアナア街事件の場合、発見された女の身体は、斬り開かれた腹部から中庭の石に臓腑《ぞうふ》がつかみ出されていたにかかわらず、どくっどくっと、死直後の惰力《だりょく》的|動悸《どうき》を打って、あたたかい血を奔出《ほんしゅつ》させていた。最後の一刃を加えてからまだ数秒しかたっていないのである。数秒[#「秒」に傍点]である。最初の発見者が駈けつけた刹那《せつな》に、ジャックは屍《し》体を離れて、その時は静かに、そこらの暗い一隅に立って人々の驚愕《きょうがく》を見ていたに相違ない。
 私は、個々の犯行を最初に報告して、それによって読者にまず探偵小説的興味を与えるような平凡事はしたくない。止むを得ない場合以外は、ただ忠実に記録を辿《たど》って、はじめに大体の事件をめぐる内外の情況に諸君を完全に親しましておきたいと企図《きと》しているのである。
 猫一匹、犬一匹殺しても、殺した人にはそうとうの血が付着する。いわんやこの犯人は、女を殺害したうえ、ほとんど解剖のごとき行為をその死|屍《し》に施《ほどこ》しているのである。犯行ごとに手足といわず着衣といわず、全身血だるまのように生血を浴びていなければならないことは、第一にだれでも考えるところだ。まず屍体をずたずた[#「ずたずた」に傍点]に斬ったのち、彼はどこへ行って手や兇器《きょうき》を洗うか。いかにしてその血だらけの着衣を始末するか。何人《なんぴと》が彼を庇護《ひご》してそれらの便宜《べんぎ》を提供しているか。そもどんな家にこの殺人鬼は善良な市民のような顔をして住んでいるのか。これらが、当時謎の中心であったごとく、今日なお謎の中心である。実際の殺人は、たびたび言うようだが、その狂暴残虐なこと言語に絶し屍体はすべて野獣的に切断され、支離滅裂をきわめていた。しかも、犯行が重なるにつれてその度を増し、ついにいかなる鋼鉄製心臓の持主をも一瞥驚倒《いちべつきょうとう》せしむるに十分であるにいたった。そのことごとくを詳述することは印刷物の性質上許されないが、各犯行をつうじて、その方法経過は大同小異だった。ことにそれが、ある超特恐怖の状態において終っていることは、すべて一致していた。いうまでもなく一特定人――リッパア・ゼ・ジャック――の所業《しょぎょう》である。そして彼が左手|利《き》きであることも、種々な場合の刀痕《とうこん》を総括して、動かぬところと専門家の間に断定されていた。被害者は、夜の巷《ちまた》をさまよう売春婦にかぎられ[#「かぎられ」に傍点]ているのである。それも、そういう階層のなかでももっとも低い、もっとも貧困な、もっとも不幸な女たちに排他的[#「排他的」に傍点]にきまっているのである。その一つ一つの屍《し》体のまぎれもない「恐怖の専売商標《トレイド・マアク》」がほどこしてあるのである。いずれもその生殖器が斬り割《さ》かれ、刳《えぐ》り出され、そこから手を挿入《そうにゅう》して大腸、内部生殖器官、その他の臓物《ぞうもつ》が引き出されてあって、まことに正視に耐えない光景を呈《てい》しているのである。ドルセット街の場合など、検|屍《し》に立ち会った警官をはじめ、警察医まで、いきなりこの凄絶な場面に直面したためみな室の片隅に走って嘔吐《おうと》したといわれている。この、被害者の生殖器にかかる残虐を加える一事こそヘ、「斬り裂くジャック」の全犯行を貫く共通な大特徴で、また一世を怖慄《ふりつ》せしめたセンセイションの真因《しんいん》でもあった。彼は、街路の売春婦であるかぎり、犠牲者を選びはしなかった。夜の町で女に話しかける。あるいは、女のほうから話しかける。交渉はただちに成立する。この界隈《かいわい》のことだから代価はしごく低廉《ていれん》である。あわれな女はその僅少な金を獲《え》るために、自分の意志で、男と同伴して行く。そして、多くはただちにそこらの暗い横丁《よこちょう》などで、みずから石畳に仰臥《ぎょうが》して男の下に両脚をひろげる。この男が馬乗りになって、女の咽喉《のど》を一|刷《は》きするのになりよりもつごうのいい、まるで兇刃《きょうじん》を招待するような姿態である。下部の切開がそれにつづいた。だから、被害者は、性行為の以前に殺されたのか以後に刃を受けたものか、いずれも下半身がめちゃめちやになっているので判断のくだしようがなかった。が、行為の直後に行なわれたと見るべきが至当《しとう》であることに、専門家の意見は一致していた。
 連続殺人のうち、その多くは戸外で行なわれた。あの迷園のようなイースト・エンドを構成する暗い四つ角、年中じめじめ[#「じめじめ」に傍点]と悪臭に湿っている小路《アレイ》、黒い低い建物に取りまかれた中庭、それらが惨劇の舞台だった。バックス・ロウ街の時には、屍《し》体はある一軒の家の表階段に倚《よ》りかかっていた。一つの例外は、惨劇中の惨劇といわれた、スピタルフィイルド区、ドルセット街ミラア・コウトの納屋《なや》のような見る影もない自室におけるケリイはまたワッツの惨屍体であった。
 この人妖「斬り裂くジャック」は前後をつうじて、たった一度一人の人間に顔を見られて話をしている。
 当時――いまでもあるが――バアナア街四四番地に、ささやかな果物屋があった。マシュウ・パッカアという男が細君《さいくん》相手に小さく経営している。狭い土間に果実が山のように積んであるので、店へ客がはいってくると邪魔《じゃま》になる。売る方も買うほうも身動きが取れなくなってしまう。そこで一策を案出して、表の戸を締めきり、それに小窓を開けて、ちょうど停車場か劇場の切符売場のような特別の設備をし、自分は内部におさまって、この窓からそとを覗《のぞ》いている。客には窓をつうじて応対し、品物も窓から出してやろうという一風変わった人物だ。
 九月三十日、土曜日の午後十一時半ごろだった。
 このパッカアが、もうそろそろ店を閉めようとして仕度《したく》しているところへ、窓のむこうに男女二人|伴《づ》れの客が立った。男は、見たことがなかったが、女は、パッカアもよく知っていた。のっぽのリッツ――エリザベス・ストライド――で、この付近で名うての不良少女だった。
 パッカアは妙にこのリッツの同伴者が気になったとみえて、それとも、人物それ自身が印象的な風貌を備えていたのか、じつに詳しくその人相服装を覚えて、後日|逐《ちく》一申し立てている。
 年齢三十歳前後、身長約五フィート七インチ、肩幅広く、身件全体が四角い感じを与える。浅黒い皮膚。綺麗《きれい》に鬚《ひげ》を剃って、敏捷《びんしょう》な顔つきをしていた。長い黒の外套《がいとう》に、焦茶色《こげちゃいろ》フェルト帽、きびきびした早口だった。
 そのきびきび[#「きびきび」に傍点]した横柄《おうへい》な早口で、エリザベスの同伴者は、窓のむこうから言った。
「おい。そこの葡萄《ぶどう》を半ポンドくれ。三ペンスだな。」
 物価の安かったころである。

        3

 半ポンドの葡萄《ぶどう》を紙袋に入れて、パッカアが差し出すと、のっぽのリッツ――エリザベス・ストライド――が、受け取った。夫婦か恋人のように、男がエリザベスの腕を取って、二人は付近の社会党|倶楽部《くらぶ》の方角へ歩き去った。この界隈《かいわい》で有名な、そして自分もよく知っている売春婦が、こうしてどこからか見慣れぬ男を引っ張ってきて、これからそこらの露地《ろじ》の暗い隅へでも隠れようとしているのだから、パッカアがいくぶん下品な興味をもってこの二人の背後を見送ったであろうことは想像し得る。この辺の下層売春婦の客は、多く隣接工業地帯からの若い労働者か、テムズの諸|船渠《ドック》に停泊中の船員なのだが、パッカアはその男を、そういう部類の筋肉労働者のいずれとも釈《と》らなかった。カマアシャル街《ロウド》あたりの店員か下級事務員どころと踏んだ。彼らがパッカア果物店前のバアナア街をまっすぐに進んで、社会党|倶楽部《くらぶ》――正式には、同党イースト・エンド支部会館の看板をあげていた――の在る一構内に消えてから、二十分たつかたたないうちに、その会館の窓下の中庭で、このエリザベスが惨|屍《し》体となって発見されたのである。酸鼻《さんび》惨虐をきわめた屍体のかたわらに、パッカアが葡萄《ぶどう》を入れて売った紙袋と、葡萄の種と皮とが散乱していた。被害者は葡萄《ぶどう》を食べながら犯人と談笑して、その商取引を終るやいなや、ただちに「斬り裂くジャック」の狂刃の下に、名の示すごとく、両脚の間を腹部まで「斬り裂」かれたものであることが容易に推測される。この屍体も、他のすべてのリッパア事件の被害者と同じく、股間に加えられた加害状態とその暴虐は、文明人の思及《しきゅう》だも許さ
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