女肉を料理する男
牧逸馬
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)人気《にんき》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)四六時中|細民《さいみん》街に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「手へん+宛」、第3水準1−84−81、43−14]
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人気《にんき》が荒いので世界的に有名なロンドンの東端区《イースト・エンド》に、ハンべリイ街という町がある。凸凹《でこぼこ》の激しい、円《まる》い石畳の間を粉のような馬糞《ばふん》の藁屑《わらくず》が埋めて、襤褸《ぼろ》を着た裸足《はだし》の子供たちが朝から晩まで往来で騒いでいる、代表的な貧民窟街景の一部である。両側は、アパアトメントをずっと下等にした、いわゆる貸間長屋《デネメントハウス》というやつで、一様に同じ作りの、汚点《しみ》だらけの古い煉瓦《れんが》建てが、四六時中|細民《さいみん》街に特有な、あの、物の饐《す》えたような、甘酸《あまず》っぱい湿った臭いを発散させて暗く押し黙って並んでいる。No.29 の家もその一つで、円門《ドウム》のような正面の入口を潜《くぐ》ると、すぐ中庭へ出るようにできていた。この中庭から一つ建物に住んでいる多数の家族がめいめいの借部屋へ出入りする。だから、庭の周囲にいくつも戸口があって、直接往来にむかっているおもての扉は夜間も開け放しておくことになっていた。
この界隈《かいわい》は、労働者や各国の下級船員を相手にする、最下層の売春婦の巣窟《そうくつ》だった。といっても、日本のように一地域を限ってそういう女が集まっているわけではなく、女自身が単独ですることだから、一見普通の町筋となんらの変わりもないのだが、いわば辻君《つじぎみ》の多く出没する場所で、女たちは、芝居や寄席《よせ》のはじまる八時半ごろから、この付近の大通りや横町を遊弋《ゆうよく》[#「遊弋」は底本では「遊戈」と誤植]して、街上に男を物色《ぶっしょく》する。そして、相手が見つかると、たいがいそこらの物蔭で即座に取引してしまうのだが、契約次第では自室へもともなう。ハンベリイ街二九番の家には、当時この夜鷹《よたか》がだいぶ間借りしていたので、それらが夜中に客をくわえ込む便宜《べんぎ》のために、おもての戸は夜じゅう鍵をかけずにおくことになっていたのだ。つまり、中庭までだれでも自由に出入りできるわけである。
九月八日の深夜だった。
秋の初めで、ロンドンはよく通り雨が降る。その晩も夜中にばらばらと落ちてきたので、三階に住んでいる一人のおかみさんが、乾《ほ》し忘れたままになっている洗濯物のことを思い出した。洗濯物は、イースト・エンドではどこでもそうやるのだが、窓から窓へ綱を張って、それへ乾《ほ》すのだ。で、おかみさんは、雨の音を聞くとあわてて飛び起きて、中庭に面した窓を開けた。小雨が降っていたくらいだから真闇《まっくら》な晩だったが、庭へはいろうとする石段の上に、二つの人影がなにか争っているのを認めた。それはふざけ半分のものらしかった。女が低声で、笑いながら「いいえ、いけません。いやです」と言うのが聞えた。相手は男で、異様に長い外套《がいとう》を着ているのが見えた。が、前にも言うとおり、この辺は風儀《ふうぎ》の悪いところで、真夜中にこんな光景を見るのは珍らしいことではなかった。また、だれかこの家に部屋を借りている女が男を引っ張ってきて、帰る帰さないで、入口で言い争っているのだろう。こう思って、おかみさんはべつに気に留めなかった。しばらくして争いも止まった様子である。翌早朝、デェヴィスという男が、中庭の隅《すみ》の共同石炭置場へ石炭を取りに行って、あの、二眼《ふため》と見られない惨|屍《し》体を発見したのだった。
被害者はアニイ・チャプマン。二九番の止宿《ししゅく》人ではなかったが、やはりハンべリイ街の売春婦で、ひと思いに咽頸《いんけい》部を掻《か》き斬ってあった。よほどの腕力の熟練を併有《へいゆう》する者の仕業《しわざ》らしく、ほとんど首が離れんばかりになっていて、肉を貫いた斬先の痕《あと》が頸《くび》の下の敷石に残っていた。が、これはたんなる致命傷にすぎない。屍体の下半身は、酸鼻《さんび》とも残虐《ざんぎゃく》ともいいようのない、まるで猛獣が獲物の小動物を食い散らした跡のような、眼も当てられない暴状《ぼうじょう》を呈していた。屍《し》体の下腹部に被害者のスカートが掛けてあった。それを除去してみて、検屍の医師はじめ警官一同は慄然《りつぜん》としたのである。陰部から下腹部へかけて柘榴《ざくろ》のように切り開かれている。のみならず、鋭利な刃物で掬《すく》いとるように陰部を切りとって、陰毛を載《の》せた一片の肉塊が、かたわらの壁の板に落ちていた。そればかりではない。切り開いた陰部から手を挿入《そうにゅう》して臓腑《ぞうふ》を引き出したものとみえて、まるで玩具《おもちゃ》箱をひっくりかえしたように、そこら一面、赤色と紫とその濃淡の諸器官がごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]に転がっていた、がただ一つ、子宮が紛失していた。
当時、自他ともに「斬り裂《さ》くジャック」と呼んで変幻《へんげん》きわまりなく、全ロンドンを恐怖の底に突き落としていた謎の殺人鬼があった。これが彼の、またもう一つの挑戦的犯行であることは、だれの眼にも一瞥《いちべつ》してわかった。最近、つづけさまに三度、この近隣のイースト・エンドに、これと全然同型の惨殺事件があったあとである。被害者は常に街上の売笑婦、現場はいつも戸外、ちょっとした横町のくらやみか、またはこのハンベリイ[#「ハンベリイ」は底本では「ハンベイリ」と誤植]街のような中庭《コウト》で、夜中とはいえ、往来を通る人の靴音も聞えれば、比較的人眼にもかかりやすい場所で平然と行なわれる。致命傷はきまって咽喉《のど》の一|刷《は》き、つづいて、解剖のような暴虐が屍《し》体の下部に加えられて、判で押したように、かならず子宮がなくなっている。同一人の連続的犯行であることは明白だ。人心は戦《おのの》き、新聞はこの記事で充満し、話題はこれで持ちきり、警察を焦《もどか》しとする素人《しろうと》探偵がそこに飛び出し、その筋は加速度にやっきになっている矢先――いうまでもなく九月八日の夜はもちろん、その以前から、イースト・エンド全体にわたって細緻《さいち》な非常線が張られ、櫛《くし》の歯を梳《す》くような大捜査が行なわれていた。その網の真ん中で、人獣《リッパア》「斬裂人のジャック」は級数的に活躍し、またまたこのハンべリイ街のアニイ・チャプマン殺しによって、もう一つその生血の満足を重ねたのである。およそ出没自在をきわめること、これほど玄妙《げんみょう》なやつは前後に比を見ないといわれている。いわゆる無技巧の技巧、なんら策を弄《ろう》さないために、かえって一つの手がかりすら残さなかった。
個々の犯行を列挙《れっきょ》することは、いたずらに繁雑《はんざつ》を招くばかりだから避ける。ただ、そのなかでなんらかの点で有名になった事件のみを摘出《てきしゅつ》しても、いま言った九月八日ハンべリイ街のアニイ・チャプマン殺し、バックス・ロウ街事件、同月三十日にはバアナア街でエリザベス・ストライドを、その四十五分後にミルト広場《スクエア》でキャザリン・エドウスとを一夜に二人殺し、十一月九日にはドルセット街でケリイ一名ワッツを殺している。このほか同じような売春婦殺しがその間に挟《はさ》まっているのだが、子宮の紛失、陰部を斬り取られていること、臓物《ぞうもつ》を弄《もてあそ》んで変態的に耽《ふけ》った証跡《しょうせき》など、屍《し》体の惨状と犯行の手段、残虐性はすべて同一である。
名にし負う|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤアド》は何をしていたか?
正直にいえば、まさに手も足も出なかった。そうとう手がかりがあるようで、じつは、なにひとつ信拠《しんきょ》するにたる手がかりがないのだ。バアナア街の場合など、運送屋の下|請《う》けのようなことをしている男が小馬車を自宅の裏庭へ乗り入れて、そこに、血の池の中に仆《たお》れているエリザベス・ストライド――縛名《あだな》を「のっぽのリック」といって背が高かった。あとから出てくるが、この女の死の直前に無意識に一つの重大な役割を演じている――の屍骸を発見したのだが、その時は犯行のすぐあとほんの数秒後のことで、屍体はまだ生血を噴《ふ》いて、その血の流域がみるみるひろがりつつあったくらいだから、発見者の到着がいま一足早かったら彼はまちがいなく「解剖」の現場と犯人を目撃したことだろう。事実、ジャックが、近づく馬車の音にあわてて、屍《し》体を離れ、最寄《もよ》りの暗い壁へでも身を貼《は》りつけたとたんに、発見者の馬車がはいってきたものに相違ない。異臭《いしゅう》に驚いて急止した馬は、もう一歩で屍骸を踏みつけるところまで接近していた。この発見の光景を、犯人はかたわらで見ていたのである。そして、騒ぎになろうとするところで、闇黒《あんこく》にまぎれて静かに立ち去ったのだろうが、現場はバアナア街社会党支部の窓の直下で、兇行《きょうこう》時刻には、支部には三、四十人の党員が集っていたにもかかわらず、だれ一人物音を聞いた者はなかった。これは無理もない。たださえ喧々囂々《けんけんごうごう》たる政党員のなかでも、ことに議論好きで声の大きい社会党員が三、四十人も寄りあっていたんだから耳のかたわらで爆弾が破裂しても、聞えるはずがない。あとでみんな悪口を言った。とにかく、こうして屍《し》体にばかり気を取られていた発見者の横を、影のようにするりと抜け出たであろう「斬り裂くジャック」は、すぐその足でアルドゲイトのミルト広場《スクエア》へ立ちまわり、四十五分後には、また一人キャザリン・エドウスという辻君《つじぎみ》を殺害し、やはり陰部から下腹を斬り裂いて、子宮を取っている。このキャザリン・エドウスをはじめ多くの被害者が、いかに哀れに貧困な、下層の売春婦であったかは、キャザリン・エドウスが、炊事に汚《よご》れたエプロン姿で男――犯人――と他人の家の軒下で性行為を行ない、そのまま殺されていた一事でもわかる。犯人はこの前掛けの端をむしり取ってそれで手とナイフを拭「た。拭《ふ》きながら歩いたものとみえる。さして遠くないグルストン街の角に、その、血を吸って重くなったエプロンの切布《きれ》が落ちていた。そして、このグルストン街の角で、犯人はあの、有名な「殺人鬼ジャックの宣言《メッセイジ》」をそこの璧へ白墨《はくぼく》で書いたのである。
The Jews are not the men to be blamed for nothing.
これは、考えようによって二様にとれる文句である。「ユダヤ人はただわけもなく糺弾《きゅうだん》される人間ではない」――糺弾されるには、糺弾されるだけの理由がある。とも、解釈すればできないことはないが、もちろんそうではない。「ただわけもなく糺弾されて引っ込んでいるもんか。このとおりだ」の意味で、味わえば味わうほど不気味な、変に堂々たる捨て科白《ぜりふ》である。
この楽書《らくがき》はじつに惜しいことをした。書いてまもなく、密行《みっこう》の巡査が発見して、驚いて拭き消してしまったのだ。付近にはユダヤ人が多い。反ユダヤの各国人も、英国人をはじめもちろん少なくない。この文句が公衆の眼に触れれば、場合が場合だけに群集が殺到してたちまち人種的市街戦がはじまる。実際そういう騒動は珍らしくないので、それを避けるために独断で消したのだという。気をきかしたつもりで莫迦《ばか》なことをしたもので、あとから種々の点を綜合してみると、この壁の文字こそは、それこそ千載一遇《せんざいいちぐう》の好材料だったのだ。これさえ消さずに科学的に
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