たわ。急に出発するんでしょうか。
男六 おお、ほんとだ! いよいよこの城の囲みを解いて、乃蛮《ナイマン》へ攻め入るものとみえる。
男一 おう! するとわれわれは助かった!
女三 え? ほんとに助かりましたのでございますか。ああありがたい! ありがたい――!
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躍り上る群集。皆みな抱き合って狂喜する。感極まって嬉し泣きに泣く者もある。
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男七 あ! 合爾合《カルカ》姫がやって来られる。おお、あすこに、あの大男に伴れられて帰って来るのは、合爾合《カルカ》姫ではないか。
男二 そうだ。奥方だ。おや! 大男はあそこで別れて、一人で引っ返して行くぞ。うむ、お城の近くまで送って来たのだな。
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避難民ら口々に、「合爾合《カルカ》姫だ!」「われわれの命の恩人だ。」「札荅蘭《ジャダラン》族の根絶やしを救って下すったお方だ!」と叫ぶ時、城門より、城主の弟|台察児《タイチャル》が血相を変えて出て来る。
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台察児《タイチャル》 なに、嫂上がお帰りになったと? 兄上の気持ちも察せずに、賢《さか》しら立てに勝手なことをして、一夜を敵将の陣営に送り、ちぇっ! どんな顔をして戻って来るか。いや、その面がみたいものだ。
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合爾合《カルカ》姫が下手より、夢遊病者のように現れ、群集をも意識しないふうで、そのまま城門へはいろうとする。その、憑きものでもしたような様子に、一同唖然として、無言で道を開く。
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台察児《タイチャル》 (いきなり合爾合《カルカ》の腕を掴んで)嫂上! よくも思いきって、こんな汚らわしいことをなされましたな。どの面下げて帰って来られた。さ、兄上がお待ちかねだ。
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と遮二無二引きずって城中へ拉し去る。避難民の群れは、感謝の心を現すべく、われがちに、手に手に合爾合《カルカ》姫の袖、裳裾などを押し戴きながら続く。入れ違いに城門より、従者に荷物を担がせた金の商人、および、花剌子模《ホラズム》の[#「花剌子模《ホラズム》の」は底本では「花剌子模《ハラズム》の」]回々《ふいふい》教伝道師、転がるように走り出て来る。
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商人 (城内を振り返って)お痛わしいことだ。あの方のお陰で、われわれ一同命拾いをしたのだが、さて、奥方様のお身は、どうなることやら――。
従者 人のことなど構ってはいられませぬ。一月振りに城を出ることができた。早く隣り村まで行って、何か食い物にありつかねばならぬ。ああひどい目に遭った。もう蒙古の旅はこりごりだ。
僧侶 戦いの捲き添いを食って、悪夢のような一月を送りましたなあ。いや、荒天《しけ》をくらった乗合い舟、これも、後で思えば、一生の語り草です。またお眼にかかることがあるかどうか、お達者に――。
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と商人主従に挨拶し、城を振り返りつつ立ち退く。商人主従は会釈をかえすのも忘れ、促し合って、ほうほうの体で逃げ去る。幕。
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   第三幕 第二場

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序幕第二場と同じ、城中本丸の広間。すべて前出の通り。一夜寝もやらず、室内を歩き廻って明かした城主|札木合《ジャムカ》が、髪を掻きむしり、腰の大刀を揺すぶって、物凄い顔で往きつ戻りつしている。侍女二三、隅に集《かた》まって恐怖に震えている。
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台察児《タイチャル》の声 (正面露台の上手より、近づく)こらっ! 貴様らは何しに後について来るのだ。乞食ども! ぶった斬るぞ。
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と避難民を追い散らしつつ、合爾合《カルカ》姫を引っ立てて入って来る。合爾合《カルカ》姫は昂然と面を上げて、良人|札木合《ジャムカ》の前に立つ。侍女ら、「ああ、奥方様!」と走り寄ろうとするが、「彼方へ行け」との台察児《タイチャル》の険しい眼くばせに驚き怖れ、そそくさと室外に去る。
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札木合《ジャムカ》 (合爾合《カルカ》を白睨みながら)台察児《タイチャル》、お前はあっちへ行っておれ。
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台察児《タイチャル》は露台上手へはいる。合爾合《カルカ》は首垂れている。間。
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札木合《ジャムカ》 (後退りしつつ狂的に)何しに帰って来た、合爾合《カルカ》、何しに帰って来たのだ。貴様、よくそうやっておれの前に立てるな。もう貴様は、昨日までの貴様ではない。敵将|成吉思汗《ジンギスカン》に――。(蒼白に顫えつつ)これ、合爾合《カルカ》、おれの心も知らずに、よくもこんな差出がましいことをしてくれたな。貴様は、城の身替りに立ったという喜び、城下の百姓町人どもの犠牲になったという心の慰めがあるだろうが、おれは、こ、このおれは――えいっ! 何とか言え! 何とか言わぬかっ!
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合爾合《カルカ》の肩を掴んで揺すぶるが、はっと気づいてその手を放す。
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札木合《ジャムカ》 (ヒステリックに)えいっ、汚らわしい! そ、その肩を成吉思汗《ジンギスカン》めが抱いたのか――ああ、おれは――妻の身体で敵に許しを乞うた、こ、このおれの苦しさは、ど、どこへ持って行けばいいのだっ!
合爾合《カルカ》姫 (冷やかに)誤解でございます。いかにも、妾は成吉思汗《ジンギスカン》の陣屋に一夜を明かしはいたしましたけれど、あの人は妾に、指一本触れませんでした。
札木合《ジャムカ》 なに、指一本触れなかった? 指一本ふれなかった? ははははは、だ、誰がそんなことを信じるものか。これ、合爾合《カルカ》! 城も民も何もかも失っても、わしにはお前があると思っていたのに、軍には負け、お前まで辱しめられて――ああ、おれはどうすればいいのだ!
合爾合《カルカ》姫 (必死に)どうぞお聞き下さいまし。妾の申し上げることを、お信じ下さいまし。成吉思汗《ジンギスカン》は妾を、敵将の妻として、厚く礼遇《もてな》してくれましただけで、ほんとうに何事もございませんでした。
札木合《ジャムカ》 (合爾合《カルカ》を突き退けて)姦婦!
合爾合《カルカ》姫 (冷笑)まあ、何をおっしゃいます。たかが女一人のことで、一城の主ともあろう方が、そんなに取り乱されるとは、ちと見苦しくはございませんか。
札木合《ジャムカ》 ええい、言うな、姦婦! おれは貴様に、死に勝る苦しみを味わされたのだぞ。うぬ、そこ動くなっ!
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発作的に、長剣を抜き放つ。
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合爾合《カルカ》姫 あれ、あなた、狂気されましたか。そのようなお心では、こうして成吉思汗《ジンギスカン》のために打ち負かされるのも当り前、ああ情ない――。
札木合《ジャムカ》 ええい、乱心でもよい。狂気でもよい。なに? なに? うむ、わかった! 貴様なんだな、成吉思汗《ジンギスカン》を想っていたな。いや、きゃつを慕っているな。あっ、そうだ! 貴様、前から、昨夜のような機会を待っていたのだろう。(嫉妬に狂って)さあ、言え。成吉思汗《ジンギスカン》を思っているか、成吉思汗《ジンギスカン》を恋しているか、言え! 言え! 言わぬか。おのれ、これでもかっ! (やにわにばっさり斬りつける)
合爾合《カルカ》姫 (深傷を押さえてよろめきながら、夢みるような顔。間)――成吉思汗《ジンギスカン》!
札木合《ジャムカ》 何いっ――!
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また一刀を浴びせる。合爾合《カルカ》はにっこり笑って落入る。札木合《ジャムカ》は呆然と妻の屍を見下ろして立つ時、遠く進軍|喇叭《らっぱ》の音が起り、開城を喜ぶ部落民のどよめきが湧く。露台のはるか向うの山間に、白い旗が小さく揺れながら、長くつづいて登って行くのが望見される。札木合《ジャムカ》は魂を落したように、ふらふらと立っている。台察児《タイチャル》駈け入って来る。
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台察児《タイチャル》 兄上! ただいま成吉思汗《ジンギスカン》が、不敵にも、単身城へ乗り込んでまいりました。(合爾合《カルカ》の死骸に気づき)おお! 兄上! 嫂上をお手討ちに――!
札木合《ジャムカ》 なに? 成吉思汗《ジンギスカン》が? (と勢い込んで)この上おれを嘲弄しようというのか。よし!
台察児《タイチャル》 兄上、嫂上の仇です。畜生! 膾《なます》に刻んでやる!
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と台察児《タイチャル》、露台の上手へ向って剣を振り、合図する。槍、抜刀を携えたる城兵五、六人、そっと出て来て、露台の中仕切りの陰に潜み、伏兵となる。札木合《ジャムカ》と台察児《タイチャル》は、あわただしく眼で相談し合い、その中仕切りに懸けてある旗を取って、合爾合《カルカ》の死体を覆い、またその上に王座の後ろの丈高き二枚折りの刺繍屏風を持ち来って横ざまに被せ、屍骸を隠す。そうして、両人気を配って待つところへ、下手の扉より、総大将の武装美々しき成吉思汗《ジンギスカン》、微笑を含んで足早やにはいって来る。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (快活に)やあ、札木合《ジャムカ》。長い間|虐《いじ》めてすまなかったな、ははははは。おれは君に、どうしても告白しなければならないことがあって、途中から単騎、馬を飛ばして引き返して来たのだ。
札木合《ジャムカ》 ううむ、こんなにおれを踏み潰しても、なお飽きたらず、まだこの上に、おれの顔へ唾を吐きかけようというのか。面と向って嗤おうというのか。さ、嗤え! さ、笑ってくれ! (詰め寄る)
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台察児《タイチャル》は刀の鯉口を切り、隙あらば斬りつけんと身構える。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (平然と)おれこそ君に、嗤ってもらおうと思って来たのだ。この顔に、唾を吐きかけてもらおうと思って来たのだ。おれの話を一通り聞いてから、どんなにでも笑ってくれ――まあ、聞け。この一と月の間、守る君も苦しかったろうが、攻めるおれも辛かったぞ。城中の窮乏ぶりが伝わってくるにつけて、おれは、身を切られるような思いをした。この城を囲むのは、初めから、おれの真意ではなかったのだ。まっすぐ乃蛮《ナイマン》へ攻め入りたかったのだが、四天王をはじめ部下のやつらは、きっとこのおれが、昔の合爾合《カルカ》姫のことを根に持って、君に恨みを懐いているだろうと思い、まず、この札荅蘭《ジャダラン》城を屠ろうと言って肯《き》かないのだ。おれも神様じゃあなかった。その家来たちの忠義立てを利用して、何年かの長い間、おれの胸の底に灼きついていた合爾合《カルカ》への恋を果そうとした。それが昨夜の、あの降伏の勧告だ。(自分を責め、蔑むように、強く)敵将の妻を、一夜貸せという――。(ぴたりと札木合《ジャムカ》の前に坐って、男らしく両手を突く)札木合《ジャムカ》っ! 悪かった! 許してくれ! おれは昨夜、月の洩る天幕の中で、良人のため、民のため、身を捨てて氷のように冷たくなっている、あの合爾合《カルカ》の――あの合爾合《カルカ》の眼を見た時、おれという人間が、この成吉思汗《ジンギスカン》という男が、泥草鞋《どろわらじ》のように汚く見えたのだ。毛虫のように醜く見えたのだ。(心からの声)神のように崇高《けだか》い合爾合《カルカ》の心と身体に、どうしてこの
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