若き日の成吉思汗
――市川猿之助氏のために――
林不忘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)成吉思汗《ジンギスカン》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)軍旗等|翩翻《へんぽん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)けち[#「けち」に傍点]な男だ
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三幕六場
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人物
成吉思汗《ジンギスカン》 二十七歳
合撒児《カッサル》 成吉思汗《ジンギスカン》の弟 二十四歳
木華里《ムカリ》 四天王の一人、近衛隊長《このえたいちょう》 三十歳
哲別《ジェベ》 長老、四天王の一人 六十歳
忽必来《クビライ》 参謀長、四天王の一人
速不台《スブタイ》 箭筒士長《せんとうしちょう》、四天王の一人
者勒瑪《ジェルメ》 主馬頭《しゅめのかみ》
巴剌帖木《パラテム》 成吉思汗《ジンギスカン》の小姓 十四歳
汪克児《オングル》 傴僂《せむし》の道化役、成吉思汗《ジンギスカン》の愛玩《ペット》 三十歳位
箭筒士、侍衛、番士、哨兵、その他軍卒多勢、軍楽隊など。
札木合《ジャムカ》 札荅蘭族《ジャダランぞく》藩公《はんこう》 三十歳
合爾合《カルカ》姫 札木合《ジャムカ》の室 二十歳
台察児《タイチャル》 札木合《ジャムカ》の弟 二十八歳
札荅蘭族《ジャダランぞく》の参謀、合爾合《カルカ》姫の侍女、伝令、支那(金の国)の交易商、その従者、花剌子模《ホラズム》国の回々《ふいふい》教伝道師、札荅蘭《ジャダラン》城下の避難民男女、その他城兵多勢。
時代
蒙古のいわゆる鼠《ね》の年。わが土御門天皇《つちみかどてんのう》の元久元年。
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第一幕 第一場
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斡児桓《オルコン》河に沿い、抗愛山脈《こうあいさんみゃく》に分け入らんとする麓。納忽《ナク》の断崖と称する要害の地に築かれたる札荅蘭《ジャダラン》族の山寨《さんさい》。石を積みて、絶壁の上に張り出したる物見台。下手、一段高き石畳の縁には、銃眼のあいた低い堡塁《ほうるい》。堡塁の傍らに、旗竿を立て、黄色の地に、白の半月と赤い星を抱き合わせに染め抜いた、札荅蘭《ジャダラン》族の旗が掲げてある。上手に、城中へ通ずる鉄扉あり。
眼下はるかに塔米児《タミイル》、斡児桓《オルコン》両河の三角洲。川向うの茫洋たる砂漠には、成吉思汗《ジンギスカン》軍の天幕《ユルタ》、椀を伏せたように一面に櫛比《しっぴ》し、白旄《はくぼう》、軍旗等|翩翻《へんぽん》として林立するのが小さく俯瞰《ふかん》される。彼方は蜒々《えんえん》雲に溶け入る抗愛山脈。寄せ手の軍馬の蹄が砂漠の砂を捲き上げ、紅塵万丈として天日昏し。
真っ赤な空の下、揉み合う軍兵の呶号、軍馬の悲鳴、銅鑼《ハランガ》の音、鏑矢《かぶらや》の響き、城寨より撥ね出す石釣瓶《いしつるべ》など、騒然たる合戦の物音にて幕あく。
しばらく舞台無人。城の他の部分で攻防戦の酣《たけなわ》なる模様。下手は断崖につづける望楼《ものみ》の端、一個処、わずかに石を伝わって昇降する口がある。上手の扉から金の国(支那)の商人が従者を伴れて、這うように出て来る。両人とも連日の空腹によろめき、今日の猛襲に恐怖昏迷している。
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商人 おう、おう。ここは大丈夫らしいぞ。ここまではどうやら矢も飛んで来まい。いやどうも、こんな目に遭うくらいなら、死んだほうがましだ。
従者 まったくでございます。あの時、和林《カラコルム》から別の道をとって、まっすぐお故郷《くに》へお帰りになればよかったものを。
商人 いや、お前にそれを言われると、面目次第もない。はるばるわが金の国から、織物、陶器などを持って来て、この蒙古の黒貂《くろてん》、羊皮、砂金などと交易するのは、まるで赤子の手を捻るような掴み取りだ。馬鹿儲けに調子づいて、ついこの奥地まで踏み込んだところが――。
従者 (主人を助け歩かせて、こわごわ下手の堡塁のほうへ近づき)思いがけなく和林《カラコルム》の成吉思汗《ジンギスカン》様が、あの、(と、はるかなる抗愛山脈を指さし)山の向うの乃蛮《ナイマン》国をお攻めになることになって、その進路に当るこの札荅蘭《ジャダラン》域を併せ従えようと、いや、えらい戦争になりましたもので。
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下の砂漠からこの望楼へも、一二本矢が飛んで来る。二人はあわてふためいて、石畳に身を伏せる。同じく上手の扉から、花剌子模《ホラズム》国より蒙古教化に派遣されている回々《ふいふい》教僧侶、よろぼいいず。
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僧侶 おお、ここも矢が来るのか。こうなってはいよいよこの城も、今日が落城に相違ない。おう、金の商人殿、お互いとんだ災難に捲き込まれたものですなあ。
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雄叫びの音、弓矢の唸りいっそう迫る。
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商人 (生きた心もなく)今もそれを話し合っていたところです。成吉思汗《ジンギスカン》さまが、乃蛮《ナイマン》征伐の途中、この札荅蘭《ジャダラン》城を攻めて、札荅蘭《ジャダラン》の札木合《ジャムカ》様が此城《ここ》へ籠城してから、もうこれで、一と月あまりだ。私どもも、ここへ逃げ込んだばかりに、この傍杖を食ったのだ。よほど前から、城内には食い物ひとつありません。鹿の肉一きれ口にしなくなってから、はや何日かわからない。
従者 御主人様、食いものの話は止して下さい。私はこのごろ、夜も昼もうつらうつらとして、炒米《チャウミイ》の夢を見るありさまです。
僧侶 城中の生き物は、すべて食ってしまった。犬も食った、猫も食った。鼠も食った。ああ、もう鼠一匹おらぬ。
商人 なにしろ、食糧の用意もないこの狭い城へ、部落中の札荅蘭《ジャダラン》人が一度にどっと逃げ込んで、ひと月あまりも立て籠っているのですからなあ――ああ、早く故郷の中都へ帰って、腹一ぱい粟の粥が食いたい。
従者 大きな声では言えませんが、兵隊どもは戦死した仲間の肉を食っておるそうでござりますな。
商人 あっ、また軍が激しくなった。
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阿鼻叫喚の声、一時に起る。商人、従者は耳を掩うて突っ伏し、僧侶は天を仰ぎ、「アラ」を唱え、礼拝して無事を祈る。上手の鉄扉を蹴開き、城主|札木合《ジャムカ》の弟|台察児《タイチャル》、半弓を引っ提げて、出て来る。武士三四人つき従う。すべて城方の参謀、兵士らは、空腹と疲労に生色なく、軍衣は破れ、あるいは頭部《あたま》に、あるいは腕に繃帯し、血が滲んでいるなど、悪戦苦闘の跡著し。
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台察児《タイチャル》 何だ、成吉思汗《ジンギスカン》の小童め! 乃蛮《ナイマン》を攻める血祭りに、わが札荅蘭《ジャダラン》城を屠ろうとしても、札荅蘭《ジャダラン》に藩主|札木合《ジャムカ》、その弟、この台察児《タイチャル》のあるかぎりは、めったにこの城を渡しはしないぞ。(頭上の種族旗を振り仰いで)この名誉ある札荅蘭《ジャダラン》族の旗に対しても、誰が、誰が成吉思汗《ジンギスカン》などに降参するものか。おい、どうしたのだ、ここは備えが手薄ではないか。
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下手、要塞の端れへ走り行く時、僧侶ら三人を認めて、
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台察児《タイチャル》 こらっ、邪魔だっ! 一人でも口を減らしたい籠城に、何の役にも立たぬ他国の坊主や町人が逃げ込んで――うむ、そうだ、貴様らを殺して肉を食えば、もう二三日城を持ちこたえることができよう。愚民を騙《たぶら》かして坐食しておる坊主と商人、どっちも肉の柔いことだろう。臆病者め、そこ退けっ!
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城寨に駈け寄り、堡塁の陰に身を潜めて、銃眼よりしきりに矢を射落す。武士三四人もそれぞれ銃眼から射る。合戦の物音寸時も止まず。僧侶ら三人城中へ逃げ込もうとすると、同じく城内から城下の避難民多勢、農夫、牧民、老若男女、雪崩を打って逃げ出て来る。赤子を抱いた女、孫の手を引く老人など。同時に、包囲軍からの矢、おびただしくこの望楼に飛来して、避難民ら口々に絶叫し、一隅に集《かた》まって顫え戦《おのの》く。
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台察児《タイチャル》 畜生、集中射撃だな。(振り返って)またここまで騒ぎ立てて来たか。手兵は足らず、食糧は乏しい城に、城下の者まで逃げこんで、この上の足手纏いはない。
避難民中の女 (嬰児を庇いながら狂的に)御城主の弟様、軍はどうなるでございましょう。私どもはもう、好皮子《ナイビイズ》一つ口にせず、敵に殺されるより先に、飢え死にしそうでございます。
同じく老人 (半狂乱に手を合わせて)台察児《タイチャル》さま、どうか部落民を助けると思召して、城をお開き下さりませ。悪魔のような成吉思汗《ジンギスカン》の軍勢とて、よもや老人子供に害は加えますまい。
台察児《タイチャル》 ええい、言うな! 穀潰しめ! 言うに事を欠いて、この台察児《タイチャル》に向って降伏をすすめるとは何ごとだ。どうせ食い物の足らぬ折柄、貴様らを射殺して――。
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と避難民の群れへ弓をさし向けて、威嚇のために空弦《からつる》を放つ。城中から軍卒一人走り出て叫ぶ。
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軍卒 札木合《ジャムカ》の殿様が、ただいまこれへおいでになります。
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四五名の参謀を従え、長刀を抜き放った城主|札木合《ジャムカ》が、急ぎはいって来る。
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札木合《ジャムカ》 (部落民を射ようとしている弟を見て)台察児《タイチャル》! 長の籠城、しかも、今日明日という負け軍に、貴様、気でも狂ったのか。城下の民へ弓を向けるとは何事だ。
台察児《タイチャル》 だが、兄上。城を開いて、自分たちが助かりたいなどと、けしからんことを言う者がありますので。
札木合《ジャムカ》 それも無理ではない。この籠城は、単なる合戦ではないことが、城下の者どもに解らんのは当り前ではないか。蒙古戦国の世だ。軍馬のいななき、弓矢の唸りはいつものことだが、この戦争には、裏に、根深い気持ちが罩《こ》もっているのだ。
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雨と降る矢の中を、台察児《タイチャル》は駈け寄って、兄|札木合《ジャムカ》の手を握る。
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台察児《タイチャル》 兄上! それを言って下さるな。それを言われると、私は、成吉思汗《ジンギスカン》に対する憎悪が、火に油を注いだように燃え上がります。嫂上のことをまだ根に持って、この執念深い城攻めだ。私は、台察児《タイチャル》は、あの、雲と群がる敵中へ斬り入って、き、斬り死にしたくなります。
札木合《ジャムカ》 (独語のように)攻める成吉思汗《ジンギスカン》にも、深い意味があり、守るわしにも、深い意味があるのだ。おれは昔、あの成吉思汗《ジンギスカン》と、一人の女を争った。それは、瑣児肝失喇《ソルカンシラ》の娘で合爾合《カルカ》姫――その恋にはおれが勝って、合爾合《カルカ》姫は今、わしの妃となっているが、成吉思汗《ジンギスカン》の身になってみれば、失恋の恨みが、そのままこのおれへの敵意となって、長い間、あの、狼のような胸の奥に燻《くすぶ》っていたに相違ない。今度、抗愛山脈中の乃蛮《ナイマン》国を攻略するに当たり、途中
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