、この札荅蘭《ジャダラン》城を併せ従えようとしたのも、その恋のうらみがあればこそだ。だが、おれも蒙古の武士、古い恋を根に持って、大軍を率いて攻め来った成吉思汗《ジンギスカン》に、おめおめこの城を渡されようか。おい、皆見ろ! この、飛んでくる矢の一本一本に、恋に敗れた成吉思汗《ジンギスカン》の怨みがかかっているのだ。彼奴《きゃつ》の口惜しさが罩もっているのだ。ははははは、笑ってやれ。おい、皆、笑ってやれ! ははははは。(ふとおのれの興奮に気づき、強《し》いて冷静に)この札荅蘭《ジャダラン》の旗、星月《ほしづき》の旗は、祖先以来、抗愛山脈と高さを競って、城頭高く砂漠の風に吹かれて来たのだ。この星月の旗が下ろせるか。意地だよ台察児《タイチャル》、意地ずくだ。合爾合《カルカ》姫を守って、城を枕に討死にするまで――恋に強い者は、軍に弱いというが、この札荅蘭《ジャダラン》の札木合《ジャムカ》は、恋にも強く、軍にも強いことを見せてやるのだ。
台察児《タイチャル》 そうです、兄上! 嫂上|合爾合《カルカ》姫のために、この星月の旗の下で、最後の一兵となるまで城を守りましょう。(と涙を拭う)
札木合《ジャムカ》 (突然哄笑して)ははははは、目下旭の昇る勢いの成吉思汗《ジンギスカン》だ。人物才幹、この蒙古はおろか、東は遠く金の国、西は花剌子模《ホラズム》の果てまで、並ぶ者ない名将と聞いているが、古い恋の意趣遺恨を根に、この孤立無援の山寨を包囲して、あくまで陥さねば気が済まぬとは、噂ほどにもない成吉思汗《ジンギスカン》だ。いや、箔の剥げた成吉思汗《ジンギスカン》だ。小さな男だ、けち[#「けち」に傍点]な男だ! おれはあいつの面へ、この罵りを浴びせながら、笑って死にたいのだよ、はっはっは。
台察児《タイチャル》 兄上!
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刻々殖えた避難民の群集は、片隅に飢のために倒れ、呻きつつ聞き入る。一矢飛来するごとに、悲鳴を揚げる。
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札木合《ジャムカ》 今日は一気に揉み落そうとかかっているらしいな。城兵はひっそりしている。もう戦う気力も失せたのか。
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暗然と城寨の端へ歩み寄って、堡塁から下を覗き、
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札木合《ジャムカ》 ううむ、さすがは名にし負う成吉思汗《ジンギスカン》の大軍。お! もう斡児桓《オルコン》河を渡ったな。
参謀一 あれあれ、先陣はすでに、塔米児《タミイル》の川岸まで進んでおります。
札木合《ジャムカ》 (小手をかざして)あの、成吉思汗《ジンギスカン》軍の先頭に立って進んで来る、あの四人の者は誰だ。
参謀二 あれこそは、成吉思汗《ジンギスカン》の配下にその人ありと聞えた、砂漠の四匹の猛犬、哲別《ジェベ》、木華里《ムカリ》、忽必来《クビライ》、速不台《スブタイ》の四天王にござります。黒豚の胴を輪切りにして、その生血を啜り合い、生死を誓った四人組の将軍です。
札木合《ジャムカ》 (どきっとして)して、あの第二陣に駒を進めて来るのは?
参謀三 あれは、亦魯該《イルガイ》、蒙力克《モンリク》の二将軍の率いる、進むを知って、退くを知らぬ荒鷲と称する騎兵軍団でござります。
札木合《ジャムカ》 (募り来る不安を隠し)なに、荒鷲だと?――それから、あの、それそれ、第三陣に、灰色の狼のごとく、砂煙りを上げて馬を駆って来るのは?
参謀四 はっ。あれぞ総大将|成吉思汗《ジンギスカン》の弟、合撒児《カッサル》でござります。武芸並ぶ者なく、ことに、強弓衆に優れ、矢面に立つもの必ず額を射抜かれると申すこと。人々彼を怖れて、蟒《うわばみ》と綽名《あだな》いたす強《ごう》の者です。
札木合《ジャムカ》 (遂に恐怖を押さえきれず)大海の捨て小舟のようなこの山寨だ。逃げようにも逃げられぬ。
台察児《タイチャル》 (足摺りして)ええい! 皆がみな敵を賞めくさりおって! 揃いも揃って臆病神に取り憑《つ》かれたか。兄上! もはやこれまでです。城を出て、塔米児《タミイル》の河畔に決戦いたしましょう。どうぞこの台察児《タイチャル》に、三百でも五百でも、ありったけの城兵をお貸し下さい。
札木合《ジャムカ》 (すっかり怖毛《おじけ》立って)いや、貪る鷹のような成吉思汗《ジンギスカン》軍のいきおいだ。成吉思汗《ジンギスカン》は、総身|銅《あかがね》のように鍛えられ、土踏まずや腋の下にさえ、針も通らぬというではないか。一睨みで、虎をさえ居竦《いすく》ませると言うではないか。(と恐怖に眼を覆い、たじろく)
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砦の下から伝令一人、石垣をつたわって上ってくる。
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伝令 申し上げます。成吉思汗《ジンギスカン》の包囲軍は、急遽行動を起しまして、一挙に城を陥れんとするもののごとく、挺身隊はすでに三本松の辻を過ぎ、銀砂の河原に現れました。
札木合《ジャムカ》 (蒼白になって)なに、もう銀砂の河原に――誰か城を駈け出て一騎打ちを挑み、巧名を立てる者はないか。
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このころから、空に紺いろが流れ、暮色が漂ってくる。
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伝令二 (あわただしく上って来て堡塁に顔を出し、下の戦場を指さして)我軍の斥候は、すっかり城門へ追い込まれてしまいました。あれあれ! 一の堀、二の堀もすでに敵の手に――。
札木合《ジャムカ》 (こわごわ覗いて)吊り橋を早く、三の吊橋を上げろ。
参謀一 もはやその暇もありませぬ。
台察児《タイチャル》 誰か行って、綱を切って橋を落してしまえ。
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一本の矢飛び来って、札木合《ジャムカ》の鎧の袖を縫う。その矢には、白い馬の尾が結びつけてある。一同騒然と駈け寄る。
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札木合《ジャムカ》 (よろめきつつ矢を抜き取って)いや、傷つきはせぬ、おお! この矢には、白い馬の尾が結んであるぞ。これは何の意味だ。
台察児《タイチャル》 成吉思汗《ジンギスカン》の旗印しは、あれ、あのとおり、白馬の尾を竿の先に結びつけたものを、九本立てております。九は、成吉思汗《ジンギスカン》の陣中において、幸運の数とか。(考えて)ううむ、兄上! その矢は、降伏の勧告に相違ない。
札木合《ジャムカ》 なに、降伏の勧告? 誰が!――ええい――。
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と矢を二つに折り、足許に投げつけて粉々に踏み砕く。片側の避難民一同、「負け軍に頑張るのは無意味だ。」「早く城を開け渡して、城下の私どもをお助け下さりませ。」などと狂乱して口々に喚き立てる。
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台察児《タイチャル》 (避難民を睥睨し)騒ぐな、蛆虫《うじむし》ども! 兄上! 夜まで持ちこたえれば、なんとか計略も浮かびましょう。おい、誰か三の吊橋を落して来る者はないか。
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これより先、伝令一は裸体になり、急ぎ軍服を引き裂き、その布切れで、肩、肘、手首、股のつけ根、膝、足首など、両の手足の関節を伝令二に緊縛してもらって、抜刀を口にくわえ、素早く砦を下りかける。
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伝令一 私が行って来ます。
札木合《ジャムカ》 うむ、勇ましいぞ。だがそち、身体のところどころを縛って行くのは、どうしたわけだ。
伝令一 はっ、血止めであります。こうして行けば、腕や足に矢が当り、または敵と引っ組んで斬られましたところで、血の出るのは、縛ってある布と布との間だけです。全身の血さえ流れ出ねば、どのような働きもできようと思いまして――。
札木合《ジャムカ》 うむ、行けっ!
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伝令一は、城寨を伝わって断崖の下へ下りて行く。後は、飛来する矢いっそう繁く、札木合《ジャムカ》、台察児《タイチャル》をはじめ一同無言のうちに弓を引き絞り、銃眼より射落して必死に戦う。避難民らは叫び声を揚げて逃げ惑う。しばらく物音のみ激しき防戦の場。
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衛兵 (今下りて行った伝令の裸体を担いで、堡塁を上って来る)惜しい勇者でしたが、三の濠へ行き着かぬうちに、たちまち敵の矢を浴びてこの有様です。
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裸かの全身に矢の突き刺さった死体を、札木合《ジャムカ》の前に下ろす。みな暗然として屍骸に見入る。城兵一人、上手の扉より駈け入る。
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城兵 城主様。ただいま、成吉思汗《ジンギスカン》の軍使と称する大男が、ただひとり乗り込んでまいりましたが、いかが取り計らいましょう。
台察児《タイチャル》 (剣の柄《つか》を叩いて気負い)なに、成吉思汗《ジンギスカン》から使いが来た? 兄上、そいつの首を斬り落して、敵中へ投げ込んでやろうではありませんか。
札木合《ジャムカ》 (はっ[#「はっ」に傍点]としたが)まあ、待て! どんな条件を持ち込んで来たのかもしれぬ。よし、会おう。本丸の大広間へ通しておけ。危害を加えてはならぬぞ。
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兵卒は一礼して駈け入る。札木合《ジャムカ》は、台察児《タイチャル》、参謀らを促して、上手の扉より城内へはいろうとする。避難民等、城主の一行に途をひらきながら、一斉に平れ伏して、「おお神様、どうぞ助かりますように。」と必死に祈る。その中の回々《ふいふい》教の伝道師は、ひときわ声高く、「天に在《まし》ますアラアの神よ! どうぞこの、罪なき部落の民を助け給え。」と、狂人のように天を礼拝し、泣くがごとく祈祷する。その陰惨な声々に、札木合《ジャムカ》はつ[#「つ」に傍点]と立ち停まり、振り返って、不安と恐怖に駆られる思入れ――暗転。
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第一幕 第二場
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同じく城内、本丸の大広間。石で畳みたる荒廃した部屋。舞台正面に大きく露台を取り、断崖の下に、広く砂漠と川、および、夕色に煙る抗愛山脈が遠く望見される。露台の前に、太き石の円柱五六本立つ。その円柱の根に、高さ三尺ほどの石で築きたる囲いをめぐらし、室内より仕切りたる体《てい》。この中仕切りに、前場の望楼にありたると同じ、ただし、もっとずっと大きな札荅蘭《ジャダラン》族の旗、黄色地に白と赤の星月の旗が、壁掛けのごとく懸けてある。
舞台上手寄りに、そこだけ二三段高く、王座あり。かたわらの飾り台の上に、大いなる青銅の香炉《こうろ》ありて、香煙立ち昇る。傍に、唐獅子《からじし》の陶器の香盒《こうごう》を置く。王座のうしろに、丈高き二枚折りの刺繍屏風。札木合《ジャムカ》がその王座に掛け、左右に台察児《タイチャル》、参謀、官人ら居並び、背後に軍卒多勢、抜剣を引っ提げて立つ。
露台より真赤な砂漠の夕陽がさしこみ、室内は明るく、人々の顔は血のごとく映える。上手と下手に、扉《ドア》一つずつ。
幕開くと同時に、下手の入口より、成吉思汗《ジンギスカン》の軍使、近衛隊長|木華里《ムカリ》(六尺余の巨漢、隆々たる筋骨)が、城兵四五人に囲まれ、両手を後ろに縛されて出て来る。
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木華里《ムカリ》 (札木合《ジャムカ》の前に胡座《あぐら》をかき)これは札木合《ジャムカ》王ですか。私は成吉思汗《ジンギスカン》の軍使、木華里《ムカリ》という者です。長の籠城、想像に絶する疲弊困憊《ひへいこんぱい》の有様、お察し申し上げます。
台察児《タイチャル》 (剣を掴んで)皮肉かそれは! 城中の物資いかに欠乏し、たとい石を噛み、土を囓ろうとも、わが札荅蘭《ジャダラン》族の士気は衰えぬぞ。余計な口を叩かずと、軍使なら、
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