速かに使いの趣きを言え。
木華里《ムカリ》 (縛された手を振り、怒って)いいや! 軍使を扱う途を知らぬから、肝心の使いの趣きがこの口から出ないのだ。まずこの縛《いまし》めを解いて、相当の礼をもって対するがよい。
台察児《タイチャル》 兄上、繩を解いてやりましょうか。
札木合《ジャムカ》 (怯えて突っ立つ)何を言う! こやつの繩をといてたまるものか。不敵な面魂、何をするかわからぬ。もっと高手小手に、がんじがらめに縛り上げてしまえ。
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城兵二三人、木華里《ムカリ》の肩から腹へかけてぎりぎりに縛り上げる。
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台察児《タイチャル》 (抜刀を振りかぶってその後ろに立ち)気をつけて口をきけ。一太刀だぞ!
木華里《ムカリ》 (争わず。平然と縛るに任せながら)ははははは、このおれ一人が、そんなに恐しいか。わが成吉思汗《ジンギスカン》様の軍中には、おれくらいの大男はざらにいるのだ。では、このままで結構だ。(ぐっと起ち上がって、王座を睨む)札荅蘭《ジャダラン》の札木合《ジャムカ》王に申す。食糧もなき城中に、罪なき城下の民を取り込み、この苦しみを与えてどうするつもりだ。わが成吉思汗《ジンギスカン》軍は、明朝砂漠の太陽が、塔米児《タミイル》の川波を真っ赤に彩る前に、この札荅蘭《ジャダラン》城を一揉みに押し潰すは、それこそ、この両腕で仔羊の口を引き裂くよりも易々たることだ。失礼ながら城の運命は、すでに定まりましたぞ、札木合《ジャムカ》様。我軍は、三万の大軍をもって、今この粟粒のごとき山寨一つを、三重、いや、四重五重に取り囲んでいるのだ。もはやいたずらに大言を弄している場合ではござるまい。札木合《ジャムカ》殿、木華里《ムカリ》は、わが成吉思汗《ジンギスカン》大王の命を含んで、降伏を勧告にまいったのです。
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この以前より、避難民の群れがそっと露台へはいって来て、中仕切りの陰に蹲《うずくま》り、成往きを気遣っていたが、降伏勧告と聞いてざわめきはじめる。
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木華里《ムカリ》 (その声のほうを見て)あれなる城下の者どもをみなごろしにするのは、賢明なる札木合《ジャムカ》王の本意ではありますまい。だが、もしこの申出を拒絶なされば、遺憾ながら、暁を待たずに城内へ殺到し、嬰児《あかご》の果てにいたるまで、一人残らず殺して廻るだけだ。札荅蘭《ジャダラン》族を種子切《たねぎ》れにしてやるのだ。
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中仕切りの陰に、避難民の悲鳴、子供を抱きすくめる気配などする。室内は薄暗くなり、正面露台の外の夕空に、星が瞬き、はるか下の成吉思汗《ジンギスカン》軍の天幕《テント》には灯が入り、砂漠一面に点々として明滅する焚火。戦いは一時中止されて、無気味な静寂。
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札木合《ジャムカ》 (黙考の後)出世に焦って、血も涙もない成吉思汗《ジンギスカン》だ。ことには、仔細あって、われに含むところのあるきゃつのことだ。いや、それくらいのことはするであろう。赤児まで敵の片割れとばかり斬り虐《さいな》んで、札荅蘭《ジャダラン》族は一人あまさず、かの砂漠の虎、成吉思汗《ジンギスカン》めの餌食となるのか――。
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避難民達、中仕切りの陰から口々に叫んで、札木合《ジャムカ》に降伏をすすめる。兵士ら叱りつけて制する。
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木華里《ムカリ》 我軍の条件を入れて、即刻開城とあらば、あれなる七つの星の消えぬ先に、すぐさま囲みを解いて、眼ざす乃蛮《ナイマン》国へと進軍を開始するであろう。その場合は、札木合《ジャムカ》一家をはじめ、札荅蘭《ジャダラン》族の一人にも刃を加えませぬ。この儀は、大王|成吉思汗《ジンギスカン》、真白き駱駝《らくだ》にかけて誓います。
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避難民ら歓声を揚げて喜ぶ。この時、札木合《ジャムカ》の妃|合爾合《カルカ》姫が、二三の侍女を従え、そっと出て来て、誰にも気づかれず露台の円柱の陰に隠れ、ひそかに立ち聴いている。
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札木合《ジャムカ》 ううむ、降参すれば城も助かり、罪なき部落の者どもも、これ以上の苦しみから救われ、成吉思汗《ジンギスカン》はそのままこの城を後に、抗愛山脈へ向って進発する――(独語のように)ふうむ、降伏を拒絶すれば、わが札荅蘭《ジャダラン》族は根絶やし――だが、その降伏勧告にも、定めし条件があろう。条件を言え。
木華里《ムカリ》 (膝を進めて)さらばです。降伏の貢物として、妃の合爾合《カルカ》姫を、今宵一夜、単身|成吉思汗《ジンギスカン》の陣屋へお遣しなさるよう。条件というのは、ただこの一つだ。
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円柱の陰で合爾合《カルカ》姫はひそかに驚く。
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札木合《ジャムカ》 (愕然と顔色を変えて)なに、奥を、合爾合《カルカ》姫を、今宵一夜、ただひとり成吉思汗《ジンギスカン》の許へよこせと?
台察児《タイチャル》 (気色ばんで)うむ! 嫂上《あねうえ》合爾合《カルカ》姫の、一夜の身体《からだ》が所望だというのだな。
木華里《ムカリ》 さようです。合爾合《カルカ》姫が、日没と同時にただ一人、成吉思汗《ジンギスカン》の陣営へ来ればよし、さもなければ、城も人も、木っ葉微塵に踏み躙るまでのことだ。札木合《ジャムカ》! 返答はどうだっ!
札木合《ジャムカ》 言うな、汚らわしい! かの成吉思汗《ジンギスカン》め、数年前に失った恋を、いま力ずくで遂げようというのだな。あれ以来、胸の底に燃えておった、わが妃合爾合《カルカ》への妄念を、この機会に霽らそうと言うのだな。
台察児《タイチャル》 成吉思汗《ジンギスカン》のやつ、蒙古第一の英雄との評判は、真っ赤な嘘だ。降伏の引出物に、敵将の妻を一夜貸せなどと、見下げ果てた犬侍だ。いや、女の肉に飢えた野獣《けだもの》だ! 兄上! もはやこの軍使と言葉を交す要はござりませぬ。札荅蘭《ジャダラン》族の運命は決まった。ひとり残らず、この地球の表面《おもて》から抹殺されるだけのことだ。
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避難民ら号叫する。合爾合《カルカ》は茫然と円柱のかげに立ったまま沈思する。
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札木合《ジャムカ》 弟! よく言ってくれた。ほかのことで部落民が助かるなら、おれは、武士の誇りも捨てて、開城しようかとも思ったが、あまりと言えばあまりの条件だ。これは余のこととは違う。(突然起ち上って、木華里《ムカリ》を白眼《にら》みつける)こらっ! 妻の身を犠牲に、一命一族を助けようなどと思う札木合《ジャムカ》ではないぞ。この札荅蘭《ジャダラン》の城中、おのが命と妃の操を交換しようなどと、さような心掛けの者は一人もおらぬ。馬鹿者めが! (と手許の飾り台の上の、唐獅子の香盒を引っ掴み、王座の下の床に叩きつけて微塵に砕く)
台察児《タイチャル》 畜生! こ、この軍使の奴、どうしてくれよう! そうだ。この牛のような首を撥ねて、砦から投げ下ろしてやれ。身体《からだ》は油炒《あぶらい》りにしてやるのだ。おい! 皆来い。中庭へ釜を持ち出して、油を煮る支度をするのだ。
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と軍卒らを促し、露台から上手へ駈け入る。札木合《ジャムカ》付きの参謀四五人と木華里《ムカリ》の看視兵二三を残して兵士一同、および官人ら続いて走り去る。避難民も驚いて、皆あとを追って露台から上手へはいる。
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木華里《ムカリ》 (泰然と)それならば、悪いことは言わぬ。早く油を沸かさぬと、今にも我軍この城中へ押し入って来るぞ、ははははは。あの砂漠の地平に、東の海の真珠のような月が昇るまでに、合爾合《カルカ》姫が城を抜け出ぬ場合には、条件を受け入れぬものと見て、一刻の猶予もなく攻め込む手筈になっているのだ。
札木合《ジャムカ》 (静かに)わしは成吉思汗《ジンギスカン》のために惜しむ。あれほどの豪傑も、恋のためには、市井《しせい》の匹夫のごとき手段をも辞せぬものか。憐れな迷執の虜だ。この合戦は、数年前の恋のたたかいの続きであったのだ。恋に勝って合爾合《カルカ》を得たわしは、この戦いにも勝ち抜くのだ。なんの! 合爾合《カルカ》を成吉思汗《ジンギスカン》の自由にさせてたまるものか。(木華里《ムカリ》へ)飛んで火に入る夏の虫とは、貴様のことだ。地獄の迎えを待て!
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言い捨てて、露台へ出ようとすると、合爾合《カルカ》姫が侍女二三を従えて円柱の陰から現れる。
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合爾合《カルカ》姫 殿――! (泣き崩れる)
札木合《ジャムカ》 (支えて)おお、お前はそこにいたのか。して、今の話を聞いたのか。
合爾合《カルカ》姫 はい。残らず聞きましてございます。憎いのは、あの成吉思汗《ジンギスカン》です。大方あの時、あなた様と、妾を争いましてから、ずっとこの機会を狙っていたのでございましょう。偉い大将に出世したと聞きましたが、やっぱり、昔のがむしゃらな成吉思汗《ジンギスカン》! ああ、妾はいったいどうしたら――。(泣き入る)
札木合《ジャムカ》 (片手に抱いて)これ、なにもそんなに悲しむことはない。わしは、全種族の潰滅を期しても、お前をきゃつの手に渡そうなどとは思わないのだ。
合爾合《カルカ》姫 はい。そのお言葉で、妾はもう、死んでも思い残りはございません。ついては。――
札木合《ジャムカ》 (突然回顧的に)なあ合爾合《カルカ》、お前がまだ瑣児肝失喇《ソルカンシラ》家の娘で、余も成吉思汗《ジンギスカン》も、名もなき遊牧の若者だったころ、二人でお前の愛を争った。おれが勝ってお前を得たことが、成吉思汗《ジンギスカン》の心にこの針を植え、きゃつを、かかる惨虐無道の悪魔にしてしまったのだ。たとい戦いには敗れ、星月の旗の名誉は失っても、おれにはまだお前があるぞ。ははははは、こ、これ、この合爾合《カルカ》があるぞ。
合爾合《カルカ》姫 そんなにおっしゃって下すって、ほんとうに、もったいのうございます。つきましては、妾の心一つで、この札荅蘭《ジャダラン》族の人たちが助かり、またあなた様もこのお城も、事無きを得ますならば、あなた、妾は決心いたしました。どうぞこの合爾合《カルカ》を成吉思汗《ジンギスカン》の陣営へお遣し下さいませ。
札木合《ジャムカ》 (急き込んで)な、なに? お前は何を言う。この上おれを、札荅蘭《ジャダラン》の札木合《ジャムカ》は、妻の操で一身の安全を買った腰抜け武士だと、後世までの笑い草にしたいのか。軍には敗れたが恋には勝った、それがこの札木合《ジャムカ》の、死際の唯一の慰めだということが、合爾合《カルカ》! お前には解らないのか。
合爾合《カルカ》姫 (必死に)いいえ、ただ妾は、あなた様と、城下の人たちをお助けしたいばっかりに、あの蛇のような執念ぶかい成吉思汗《ジンギスカン》に、この身を――。
札木合《ジャムカ》 いや! 聞きたくない。お前、気でも違ったのか。そんなことを考えるだけで、このおれの胸は張り裂けんばかりだ。お前の身を守るためには、わしの命はおろか、城も惜しくはない。城下の民など、砂漠の鬼と消えるがいい。
合爾合《カルカ》姫 (追い縋って)いえ、あの、わたくしにも考えがございますから、どうぞ、一人で城を出ることをお許し下さいまし。
札木合《ジャムカ》 ええいっ、くどい! お前には、かほどまでに言うおれの心がわからないのか。(参謀へ)最後の一戦だ。みな来い!
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