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泣いて取りすがる合爾合《カルカ》姫を振り解いて、札木合《ジャムカ》は決然と露台から奥へ駈け去る。参謀ら続いて走り入る。長い間。
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侍女一 (良人の後を見送ったのち、首垂れて考え込んでいる合爾合《カルカ》姫に近づき)奥方様、あれほどまでにおっしゃる殿様のお胸の中、女子として、奥方さまもさぞ本望でございましょう。もはやわたくしども一同、奥方様のお供をして、戦死の覚悟ができましてございます。
侍女二 (正面の露台へ駈け出て)あれ! どうやら砂漠の地平線が、ぽうっと青白くなってまいりました。月が昇るのではございますまいか。月の出を合図に、あの恐しい成吉思汗《ジンギスカン》軍の荒武者どもが、乗り込んで来るとのこと。ああ、どうしたらよいか――。
侍女三 あれあれ! ほんとうにあの砂丘の果てに、ほのかに青い月の光がさし初めました。ああ、もう何刻《なんとき》の生命《いのち》やら――おお! 中庭で、この軍使を煮る油を沸かしはじめました。ああ、何という恐しい! (と眼を覆う)
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露台の向うから、紫いろの油の煙りが濛々と立ち昇る。合爾合《カルカ》姫と侍女らは、凝然と露台の外を見守る。
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合爾合《カルカ》姫 (ひとり言のように)昔の成吉思汗《ジンギスカン》の恋が、ここへ来て、こんな恐しい仕返しをしようとは――。(泣く)
侍女二 お察し申し上げます。
侍女一 でも、殿様のあのお言葉、ほんとうに女冥利、嬉し涙が溢《こぼ》れてなりませぬ。
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この時、血染れの将校一人、露台上手から走り込んで来て、叫ぶ。
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将校 (妃に敬礼して、木華里《ムカリ》の看視兵へ)おい! 表門に石を積んで、かなわぬまでも備えをするのだ。猫の手も借りたい場合だ。その軍使は縛ってあるのだろう。そいつをそのままにして、お前たち、皆来い。
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看視兵ら、声に応じて将校とともに、露台上手へ駈け去る。舞台ほの暗く、正面の露台から星明りが差し入る。砂漠の外れがかすかに青み、月の出は刻々近い。
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合爾合《カルカ》姫 (ぐっと胸に決して)今の話では、城門へ石を運ぶとのこと、女だとて働かねばなりませぬ。お前たちも、二人で石の一つぐらいは持てるであろう。ここは構わぬから、お手伝いに行くがよい。
侍女一二 でも、この恐しげな男と、奥方様を置きざりにして――。
合爾合《カルカ》姫 いや、大事ない。ここより表門の備えが肝心です。早くあちらへ!
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侍女たちは心を残しつつ、合点《うなず》き合って兵士らの後を追い、露台上手へ馳せ入る。
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合爾合《カルカ》姫 (長い間。じっと木華里《ムカリ》を凝視《みつ》めて)あれ、もう月の出に間がありません。今にも一気に攻め入って来たら――(じっと考え、うむ[#「うむ」に傍点]と決心して、懐剣を取り出してきらりと抜く。足早やに木華里《ムカリ》に近づき、一突き、と見えたが、意外にも、ぱらりと縛めを切って落す)さ、この隙に早く逃げて、追っつけ後から合爾合《カルカ》がまいりますと、成吉思汗《ジンギスカン》さまにお伝え下さい。
木華里《ムカリ》 (驚いて立ち上り)奥方、私を逃がして下さるのですか。
合爾合《カルカ》姫 わたしは決心いたしました。いかに殿様がああおっしゃって下さればとて、あの泣き叫ぶ城下の人々、先の短い老人や愛《あどけな》い女子供を、どうして、城とともに見殺しにすることができましょうか。憎んでもあまりある成吉思汗《ジンギスカン》ですけれど、女の身で役に立つのは、せめてそれくらいのこと――言うなりに後からすぐ城を脱け出て、はい、まいります。あの人の陣屋へ、まいります! あなたは一足先に駈け帰って、どうぞ、そう復命して下さい。そして、総攻撃をお止め下さい。(身も世もなく泣きつつ急き立てる)
木華里《ムカリ》 それでは、合爾合《カルカ》姫、たしかにわが大将の陣営へ、一人でおいでになるのですな。うむ、お待ち申しておりますぞ。
合爾合《カルカ》姫 念には及びませぬ。わたしはもう覚悟を――そう言う間も気が急きます。あの台察児《タイチャル》さまが上って来ないうちに、早く! 早くお逃げ下さい。
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と薄暗い中に木華里《ムカリ》をさし招き、下手の小さな戸口《ドア》から出しやる。
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合爾合《カルカ》姫 この石段をまっすぐ下りて、突き当りの廊下を左へ出れば、城の横手の草原へ抜けられます。そこらは城兵も尠いはず、さ、一刻も早く――。
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木華里《ムカリ》は一礼して走り下りる。合爾合《カルカ》姫は独り頷首いて、おのが居間に通ずる上手の扉へ駈け入る。しばらく舞台空く。油の煮える煙り一度に上がる。群集の悲鳴凄まじく響く。すぐにその同じ上手の戸口から、妃の盛装の上に大きな鹿の皮を被った合爾合《カルカ》姫が、そっと一人忍び出て来る。舞台中央に立ち停まり、ひそかにふところから懐剣を取り出して引き抜き、じっと見入る。
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合爾合《カルカ》姫 (独語)この札荅蘭《ジャダラン》族へ輿入れする時、父の瑣児肝失喇《ソルカンシラ》から渡されたこの守り刀が、こんな役に立とうとは思わなかった。もし成吉思汗《ジンギスカン》が無礼を働いたら、いっそ一思いにこの胸を――。(と自分の胸へ突き刺す仕草《しぐさ》)
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うなずきながら、鹿の皮を頭からかぶり、木華里《ムカリ》の去った下手の石段を駈け下りる。とたんに、露台上手より侍女二人、あわただしく走り出て、
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侍女一 おや! 奥方様はどこに? あら、あの軍使もいない――奥方さま、奥方様!
侍女二 ああ、奥方様のお身に、変り事がなければよいが――。
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二人そそくさと室内を捜し廻る。舞台刻々暗くなり、露台の外、月の出はいよいよ迫る。
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札木合《ジャムカ》の声 (近づいて来る)合爾合《カルカ》、合爾合《カルカ》! 合爾合《カルカ》はおらぬか。(幕)
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   第二幕 第一場

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城外。塔米児《タミイル》、斡児桓《オルコン》の両河の合する三角洲に設けられた、成吉思汗《ジンギスカン》の大|天幕《テント》の前。砂漠の広場。前の場と同じ時刻。
正面すこしく上手寄りに、成吉思汗《ジンギスカン》の天幕《ユルタ》、垂れを掛けたる出入口あり。哨兵二名、その左右に立ち、一人はたえずその前を往復して警護す。下手奥は、夜眼にも白き大河、彼岸は模糊《もこ》として砂漠につづき、果ては遠く連山につながる。その砂漠に、軍兵の天幕の灯、かがり火など、閃々《せんせん》としてはるかに散らばる。降るような星空の下。月はまだ上らない。
舞台上手に、立樹五六本、その一つに、真白な成吉思汗《ジンギスカン》の乗馬を継ぐ。下手にも立樹二三、その前に駱駝《らくだ》一二頭、置き物のごとく坐る。この下手の立樹の間より、軍団の大屯営へ通ずるこころ。正面|成吉思汗《ジンギスカン》の天幕《ユルタ》の外に、竿頭に白馬の尾を結びつけたる旗印を九本立て、その他三角形の小旗、槍、鼓、銅鑼《どら》、楯などを飾る。上手下手、及び中央と、舞台三個処におおいなる篝火を焚く。燃料として、牛糞を乾し固めたる物を、傍らにほどよく積む。この篝火の映《うつ》ろいにて、舞台全面に物凄き明暗交錯する。
おびただしき軍馬のいななき断続して、幕あく。
四天王の三人、長老|哲別《ジェベ》、参謀長|忽必来《クビライ》、箭筒士長|速不台《スブタイ》、及び主馬頭|者勒瑪《ジェルメ》ほか参謀侍衛ら多勢、それぞれ焚火のまわりに陣取り、弓、矢、鎗、長刀、太刀など、思い思いに武器の手入れをしている。傴僂《せむし》の道化者|汪克児《オングル》は、葉のついた木の枝を剣に見立てて、身振りおかしく独りで戯《ふざ》け廻っている。
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汪克児《オングル》 敵にお尻を見せたことのない、成吉思汗《ジンギスカン》様のお馬さま、ちょいとこの汪克児《オングル》様に、お尻を拝ませては下さらぬか。(と抜き足さし足、滑稽な様子で成吉思汗《ジンギスカン》の白馬のうしろに廻り)ても見事な眺めじゃなあ。アラアの神さま、アラアの神様――。
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馬は後脚を上げて汪克児《オングル》を蹴る。
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汪克児《オングル》 (大袈裟に仰天し、引っくり返って)うわあっ! あ痛たたた! 兄弟分の汪克児《オングル》めをお蹴りなさるとは、ちぇいっ、はてさて情ないお心じゃなあ。聞えませぬ、聞えませぬわいのう。(泣き声を装《つく》る)
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一同はどっと笑う。
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哲別《ジェベ》 うるさいっ! 殿はお眠みなのに、止め度もなく戯けおって。控えろ、汪克児《オングル》!
汪克児《オングル》 と、叱りつければ、汪克児《オングル》は――。(と辷るように下手へ走って、坐っている駱駝の背へちょこんと股がり、走らせる真似)はいはい、どうどう! 進めや進め、成吉思汗《ジンギスカン》! やあやあ、遠からん者は音にも聞け。近くは寄って眼にも見よ。われこそは、大王|成吉思汗《ジンギスカン》の陣中にその人ありと知られたる、滑稽ちゃらっぽこの一手販売、山椒は粒でもぴりりと辛い、汪克児《オングル》大公爵さまだ。成吉思汗《ジンギスカン》様第一のお気に入り――ねえ、君、駱駝《らくだ》君。
合撒児《カッサル》 (成吉思汗《ジンギスカン》の弟、下手よりつかつかと現る。通りすがりに、駱駝の背から汪克児《オングル》を突き落して)お! これは大公爵閣下、とんだ失礼を。(天幕の垂れをはぐり、はいろうとする)
忽必来《クビライ》 合撒児《カッサル》さま、殿はまだお昼寝のつづきです。
合撒児《カッサル》 うう、(振り返る)まだ寝てる? 相変らず呑気な兄貴だなあ。(ふと下手を見やり)おお、月が出た、月が出た! あれ見ろ、砂漠の上に、大きな月が出たぞ。
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明るい月が地平を離れ、河の漣《さざなみ》を銀に彩っている。一同は口々に、「月だ、月だ、月が出た。」「さあ、出陣だ! 進軍だ!」と勢い込んでざわざわと起ち上り、月に向って立ち並ぶ。忽必来《クビライ》は長靴を穿き直し、武装を凝らして、速不台《スブタイ》とともにしゃがみ、剣の先で地面に地図を描き、しきりに軍議を練りはじめる。
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合撒児《カッサル》 木華里《ムカリ》はまだ帰らぬな。者勒瑪《ジェルメ》、軍馬の様子はどうだ。これからただちに札荅蘭《ジャダラン》城を屠り、長駆、抗愛山脈を衝くのだから、稗《ひえ》でも藁でも、充分に食わせておくがよいぞ。
者勒瑪《ジェルメ》 (主馬頭《しゅめのかみ》)仰せまでもございません。馬という馬は、栗毛も葦毛も、気負い立って、あれ、あのように、早く矢を浴びたいと催促しております。
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遠く近く、屯ろする軍馬のいななき。
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合撒児《カッサル》 忽必来《クビライ》、進撃の前だ
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