。点呼はまだか。
忽必来《クビライ》 は。もうすむころです。今にも報告がまいりましょう。
哲別《ジェベ》 もうとうに月が上ったに、まだ木華里《ムカリ》が帰らんところを見ると、降伏を拒絶したにきまっておる。合撒児《カッサル》様、殿に、進発の御催促を申し上げては。
汪克児《オングル》 (跳び撥ねながら)月夜に釜を抜くというが、こちとら、月夜に城を抜く。
速不台《スブタイ》 そうだろうと思った。無駄だろうと思った。あの札木合《ジャムカ》の奴が、女房を一晩こっちの陣営へよこすなどと、そんな条件を承知するはずはないのだ。
哲別《ジェベ》 じゃが、殿の御心中をお察しすると、木華里《ムカリ》のやつめ、うまく合爾合《カルカ》姫を引っ張ってくるとよいのじゃがなあ。
合撒児《カッサル》 そうだとも。兄貴ともあろうものが、この小っぽけな城一つを長々と囲んで、今まで思いきって揉み潰してしまわなかったのは、ただ、合爾合《カルカ》姫の身を案じたればこそだ。
汪克児《オングル》 (したり顔に腕組みして、合撒児《カッサル》の仮声《こわいろ》で)するてえと、兄貴の野郎、まだ、合爾合《カルカ》姫のことを想っているのだなあ。
速不台《スブタイ》 馬鹿っ! 殿に聞えたらどうする。
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下手の立樹の間から、侍衛長馳せ来る。
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侍衛長 報告! 点呼を終りました。一同、弓に新しき矢を番《つが》え、馬背に鞍を締め直して、一時も早く総攻撃の命を待っています。
忽必来《クビライ》 よし。箭筒兵《せんとうへい》一千のうち――?
侍衛長 はっ。今日までの攻城戦に、ただ八十人の戦死者あるのみでございます。
忽必来《クビライ》 うむ、宿衛兵一千。
侍衛長 はっ、今日の死者は、わずかに六人。傷つくもの十七名。
忽必来《クビライ》 侍衛兵、一千――。
侍衛長 はっ、死者はございません。
忽必来《クビライ》 よろしい。命令を待て。
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侍衛長走り去る。この間も汪克児《オングル》は、ところ狭しと独りでふざけ廻って、馬の尻っ尾を引っ張ったり、駱駝と白眼《にら》めくらをしたり、自分の鼻の孔へ指を入れて嚏《くさめ》をするやら、もんどりを打つやら、しばらくもじっとしていない。一同は慣れているので誰も注意を払わない。
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江克児《オングル》 (皆の真ん中に立って、おどけた様子で首を傾げ)ふうむ。そういうものかなあ。いや、そうだろうなあ。
合撒児《カッサル》 こら、豚め! 何を感心しているのだ。
汪克児《オングル》 英雄、色を好む。(ちょいと天幕を指さしてウインクする)いかな大王も恋には弱い。意馬心猿《いばしんえん》追えども去らず、あわわわわわ。(あわてて口を押さえる。誰も相手にせず)
者勒瑪《ジェルメ》 (じりじりして、しきりに下手奥へ駈けて行っては、月に霞む遠くの砂漠へ小手をかざす)ちぇっ! 木華里《ムカリ》め! 何をしているのだ。早く降参の献上品を引っ担いで来ればよいに。
速不台《スブタイ》 ほんとだ。その献上品を殿のおん前に捧げて、お慰め申したいものだなあ。
哲別《ジェベ》 まだそんなことを言っておるのか。木華里《ムカリ》は今ごろ、首になっているに決まっておる。木華里《ムカリ》の葬い合戦じゃ。おお、月はもうあんなに高く上りましたぞ。合撒児《カッサル》様、もはや一刻の猶予もならぬ。さ、殿に申し上げて、出陣のお許しを得て下され。
合撒児《カッサル》 (じっと考え込んで、ひとり言)おれはよく知っている。兄の心には、女といっては、あの合爾合《カルカ》姫があるだけだ。だから、ほかの女には眼もくれずに、誰が何とすすめても結婚せず、いまだにずっと独身でいるのだ。それを思うと、畜生――! (一同暗然として、長い間)
汪克児《オングル》 (突然、節をつけて)無理もない、無理もない。札荅蘭《ジャダラン》の合爾合《カルカ》姫は、蒙古一の美人、いや、砂漠の女神。その瞳は翁吉喇土《オンギラアト》の湖のごとく、口唇《くちびる》は土耳古《トルコ》石、吐く息は麝香猫《じゃこうねこ》のそれにも似て――。
合撒児《カッサル》 やかましい! ああ、止むを得ない。兄貴を喜ばせようとしたお前たち一同の苦心も、とうとう水の泡か。(決然と天幕へはいって行こうとするが、ためらって)弱ったなあ。また雷か。機嫌の悪い時の兄貴は、苦手だからなあ。おい、者勒瑪《ジェルメ》、お前行って起して来い。
者勒瑪《ジェルメ》 と、とんでもない! あんなに合爾合《カルカ》姫を待っておられる殿様のところへ、姫が来ないので総攻撃だとは、とても――こればっかりはお許し下さい。(手を合わせる)おい速不台《スブタイ》、貴公行け。
速不台《スブタイ》 獅子の檻へならはいって行くが、殿の御不興《ごふきょう》だけは――それに、おれは、先刻から、急に腹が痛み出して、ううむ、これはやりきれん。あ痛たたた、忽必来《クビライ》君、頼む。君行って、お起し申してくれ。
忽必来《クビライ》 冗談でしょう。吾輩はにわかに頭痛がして――。
合撒児《カッサル》 頭痛がしたって歩けるだろう。
忽必来《クビライ》 いや、その、実は足が痛いので――おお痛い。こいつはたまらん。哲別《ジェベ》どの、これはどう考えても年寄り役だ。長老、一つ――。
哲別《ジェベ》 それが、その、なんだ、私の行きたいのは山々だが、年齢《とし》のせいか鳥眼《とりめ》の気味でな、夜になると何も見えん――。
合撒児《カッサル》 はっはっは、大切な乃蛮《ナイマン》征伐を前にして、軍の大幹部がみんな急病とは大変だな。よし、じゃ、みんなではいって行こう。
汪克児《オングル》 (しゃしゃり出て)お待ちを。しばらくお待ちを。その役目は、どうぞ拙者めにお任せ下さい。たとえ成吉思汗《ジンギスカン》様が辛子《からし》をお舐めになった時でも、かく言うそれがしさえお傍にいれば、ああ辛いとおっしゃるかわりに、わっはっはと笑わせてお眼にかける。えへん、大王さま第一のお気に入りの汪克児《オングル》様々じゃ。万事、な、万事この胸に――者ども騒ぐな。おほん! (そっくり返って天幕へはいってく)
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一同は天幕の入口に集まり、心配そうに聞き耳を立てる。
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成吉思汗《ジンギスカン》の声 (天幕の中から、睡そうに)ううう、うるさい芋虫だな。なに、木華里《ムカリ》がまだ帰らないから、もう総攻撃開始だと? (叱咤する)ええい、やかましい! 勝手にしろ!
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とたんに、天幕のなかで、主人の怒りに刺激された物凄い虎の咆哮が、一声大きく聞える。同時に、天幕の入口から汪克児《オングル》が、俵を投げ出すように、ごろごろと勢いよく転げ出して来る。それを追っかけて、巨大な猛虎が一頭、唸りながら躍り出る。続いて成吉思汗《ジンギスカン》が、少年のような快活さで、出入口の垂れをはぐって現れる。何の屈託もなさそう、にこにこして大股に駈け出て来る。小姓|巴剌帖木《パラテム》、朱の袱紗の上に金の兜を捧持して、急いで後に従う。一同、威儀を正して最敬礼。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (愉快そうに)太陽汗《タヤンカン》! (虎を鎮める)
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武将達の間を昂奮してのそのそ[#「のそのそ」に傍点]歩き廻っていた虎は、猫のごとく従順に、成吉思汗《ジンギスカン》の側へ帰ってぴたりと坐る。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (その虎の頭を撫でて、大笑する)ははははは、お前たちに話したかな。おれは、此虎《こいつ》に、太陽汗《タヤンカン》という名を命《つ》けたよ。太陽汗《タヤンカン》というのは、これからおれたちが攻めて行こうとしている、あの乃蛮《ナイマン》国王の名さ。虎のような乃蛮《ナイマン》王|太陽汗《タヤンカン》も、こら、見ろ、この成吉思汗《ジンギスカン》にかかっては、もうすっかり奴隷になって傍に仕えているというわけさ。はっはっは、愉快じゃねえか。なあおい!
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皆笑い崩れる。
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汪克児《オングル》 (虎へ)太陽汗《タヤンカン》さま、あなた様は私を見るとすぐ、眼の仇敵《かたき》にして跳びかかってくる。この(と自分の背中を指して)瘤を進上しやすから、それで一つ仲直りを、へへへへへへへへへ。
成吉思汗《ジンギスカン》 (伝法に)そんな物を貰っても食えねえからいらねえや、なあ太陽汗《タヤンカン》。(大きな欠伸《あくび》をする)木華里《ムカリ》がどうしたと?
忽必来《クビライ》 まだ木華里《ムカリ》が帰ってまいりませぬ。
成吉思汗《ジンギスカン》 (淋しさを隠して)心配するな。あの木華里《ムカリ》の身体に刃を当てることのできる奴が、札荅蘭《ジャダラン》の城中に一人でもいるなら、おれたちあこんな面白くもねえ戦争をしなくってもよかったんだ。
哲別《ジェベ》 (思いきって)殿、降伏の条件は拒絶したものと見えます。合爾合《カルカ》姫はお見えになりません。
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皆心苦しそうに眼を外らす。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (ふっと沈鬱に)お前たちの心尽しをいいことに、おれは、女一匹にこだわって――。(急に朗かに)あははははは、何を言ってるんだ。おれの女房は戦争だ。おれは戦争と結婚しているんだ。この成吉思汗《ジンギスカン》の恋人は、軍馬だ、弓矢だ、此剣《こいつ》だ! 敵の血だ! 砂漠の風だあ――! あははははは。
哲別《ジェベ》 殿!
成吉思汗《ジンギスカン》 相手にして面白いのは、乃蛮《ナイマン》の太陽汗《タヤンカン》だ。合撒児《カッサル》! あれを見ろあれを! 抗愛山脈の上で、月が招いているじゃあねえか。哲別《ジェベ》、忽必来《クビライ》、進軍だ、進軍だ! ああ愉快愉快! 者勒瑪《ジェルメ》、馬を引いて来いっ!
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一同はいろめき立って出陣の支度にかかる。
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汪克児《オングル》 (成吉思汗《ジンギスカン》の口真似)おれの女房は、この背中の瘤だ。おれは瘤と結婚しているんだ。この汪克児《オングル》の恋人は、瘤だ、踊りだ、踊りだ、瘤だ――あっはっはっは! (成吉思汗《ジンギスカン》の気を引き立てようと、滑稽に踊り廻る)
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成吉思汗《ジンギスカン》は寂しそうに、ぼんやり立って考え込んでいる。小姓|巴剌帖木《パラテム》の捧げる兜を、無意識にかぶりながら、
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成吉思汗《ジンギスカン》 巴剌帖木《パラテム》。
巴剌帖木《パラテム》 (前に片膝ついて)はっ。
成吉思汗《ジンギスカン》 お前は、十四だったな。
巴剌帖木《パラテム》 (不思議そうに)は?
成吉思汗《ジンギスカン》 (優しく)いや、年齢《とし》は十四だったなと言うんだ。
巴剌帖木《パラテム》 はい。
成吉思汗《ジンギスカン》 (夢みるように)恋の花は、まだまだ固い蕾《つぼみ》だな。だが、初恋の女ができたら、すぐおれに言うんだぞ。必ず一緒にしてやるからなあ。初恋に敗れると、生涯砂漠の風が身に沁《し》みるぞ。(突然、叱りつける)馬鹿っ! 貴様、何を聞いているんだ!
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巴剌帖木《パラテム》はびっくりして後ろに退る。忽必来《クビライ》は銅鑼を持って下手に進み、まさに一打ち打とうとする時、
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木華里《ムカリ
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