》の声 (下手遠くより)しばらく、しばらくお待ちを――。
忽必来《クビライ》 おお、木華里《ムカリ》だ、木華里《ムカリ》が帰って来た――!
木華里《ムカリ》 (一同驚喜する中を駈け込んで来て)殿! およろこび下さい。ほどなくこれへ、合爾合《カルカ》様がお見えになります。
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みな歓声を揚げる。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (嬉しさと悲しさが交錯して)そうか。合爾合《カルカ》が来る。そうか、合爾合《カルカ》が来るのか。(せせら笑って)手前《てめえ》が助かりたいばっかりに、大事な女房を捧げて命乞いする。ふふん、可哀そうに合爾合《カルカ》も、下らねえ男と一しょになったものだ。(哄笑)おい、皆聞いたか。数年越しのおれの恋を叶えに、いま合爾合《カルカ》が独りでここへやって来るそうだ。進発は見合せだ。どうでえ! 喧嘩に強い奴あ恋にも強いぞ。長の思いの霽《は》れる夕べだ。哲別《ジェベ》、速不台《スブタイ》、酒宴《さかもり》の支度をしろ。花嫁花婿のために、祝言《しゅうげん》の席を設けろ、あっはっはっは。
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一同は右往左往して準備にかかる。篝火《かがりび》は一度に燃え盛る。
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汪克児《オングル》 (成吉思汗《ジンギスカン》の前に進んで、妙な手つきをして月を仰ぐ)曇り、後晴れ。ああ、好い月じゃなあ。(自分へ)これ、外道、口が軽いぞ。(おのが口を抓《つね》って、蜻蛉返《とんぼがえ》りを打つ)
成吉思汗《ジンギスカン》 (独り言のように)長年想いを懸《か》けた女が来る晩に、軍《いくさ》などと、そ、そんな殺風景なことができるか。こんな、鎗だの、楯だの、(とそこらに組み合わせて立ててある武器、馬具などを蹴散らす)今夜あ、こんな物あ眼触《めざわ》りだ。婚礼の席には邪魔ものだ。早く片づけてしまえ。
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皆浮きうきしながら、焚火のまわりに獣皮を敷き、酒宴《さかもり》の座を設ける。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (焦いらして)兵卒一同にも、今宵は振舞い酒だ。たんまり飲ましてやれ。
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消魂《けたたま》しい野犬の吠え声起る。歩哨一人、鹿の皮を被った合爾合《カルカ》姫の前に立ち、二名の兵士、姫の左右から抜身の槍を突きつけて、下手からはいって来る。
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歩哨 ただいま、かような怪しの者が、御陣屋近く忍び寄るところを、発見いたしました。こいつ! (と鹿の皮を引き剥ぎ、姫を前へ押しやる)
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合爾合《カルカ》と成吉思汗《ジンギスカン》は、凝然《ぎょうぜん》と眼を見詰め合う。長い間。一同無言。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (侮蔑を罩《こ》めた合爾合《カルカ》姫の視線に負けて、眼を外らしつつ)よく、よく来られた。しばらくぶりだねえ、合爾合《カルカ》。
速不台《スブタイ》 やあ、来た、来た。合爾合《カルカ》様、成吉思汗《ジンギスカン》さまは、今夜という今夜をどんなにかお待ちなされたことか。
汪克児《オングル》 (合爾合《カルカ》姫の手を取る)さ、さ、花嫁さまは、こちらへ、こちらへ――。
合爾合《カルカ》姫 (その手を振り放って、成吉思汗《ジンギスカン》の前へ進む。憎悪に顫えて)お久しぶりでございます、成吉思汗《ジンギスカン》様。今あなたさまのお名前は、砂漠よりも広く、抗愛《こうあい》山脈よりも高い勢い、砂漠を徘徊《はいかい》する虎と申せば、あなた様のことと伺いましたが、偉い大将におなり遊ばしたものでございます。(皮肉を罩めて)昔の合爾合《カルカ》は、こうして今、敗軍の将の妻として、軍門に引かれてまいりました。(感きわまって膝を突き、心を絞って)その代り、どうぞ良人をはじめ、札荅蘭《ジャダラン》族一同をお助け下さいますよう。
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成吉思汗《ジンギスカン》は打たれて、黙して頷首《うなず》く。一同席に就く。兵卒ら、酒肴など運び来《きた》る。
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汪克児《オングル》 (姫を押しやって成吉思汗《ジンギスカン》の隣りへ坐らせる)さ、花嫁さまはここへ。なにもそう恥かしがることはない。ようよう、似合いの御夫婦、内裏雛《だいりびな》! (手を拍つ)
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みな笑い崩れる。成吉思汗《ジンギスカン》と合爾合《カルカ》姫は中央の篝火の正面に、並んで床几《しょうぎ》に掛ける。猛虎|太陽汗《タヤンカン》は悠然と成吉思汗《ジンギスカン》の傍に坐る。汪克児《オングル》は独りで戯《ふざ》けまわる。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (上機嫌に)今日第一の殊勲者は、木華里《ムカリ》だ。それ、木華里《ムカリ》、盃《さかずき》を与《や》るぞ。
木華里《ムカリ》 いえ、どうぞそのお盃は、まず合爾合《カルカ》さまへ。
成吉思汗《ジンギスカン》 うむ、そうだったな。花嫁にささんでは、この場の固めがつかない。合爾合《カルカ》、あれ以来あなたを慕いつづけてきた成吉思汗《ジンギスカン》の盃です。快く受けて下さい。
汪克児《オングル》 姫一人を思って、今まで独身《ひとりみ》をお守りなされた大王様のおさかずきじゃ。めでたい、めでたい!
合爾合《カルカ》姫 (覚悟を決めた態)はい。それでは、頂戴いたします。
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小姓|巴剌帖木《パラテム》が酌しようとする。
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木華里《ムカリ》 今日第一の殊勲者というお言葉に甘えて、お酌は、かくいう私が――。
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一同爆笑する中に、姫は、止むなく涙とともに盃を受けて、返す。
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成吉思汗《ジンギスカン》 おれはどんなにこの宵を待ち望んでいたことか。皆も笑ってくれるな。砂漠の虎だって、情を解しないものではない――天幕《てんと》に照る月、兜に置く露、この長の年月、ただの一日もあなたを忘れたことはなかった。
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合爾合《カルカ》姫は黙然と顔を外向《そむ》けている。四天王ら、口々に、「おめでとうございます。」「お喜び申し上げます。」などと祝いを述べて、いっせいに乾杯する。
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成吉思汗《ジンギスカン》 うむ、お前たちも飲め。これ、者勒瑪《ジェルメ》、合爾合《カルカ》姫は長の籠城で、さぞ不自由をしたことだろう。痛々しいかぎりだ。羊を屠《ほふ》れ。馬乳酪《カンメズ》を取り出せ。好豆腐《メイドウフ》も持って来い。ありったけの馳走を姫の前に並べろ。
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声に応じて、種々《いろいろ》な料理が運び込まれ、酒宴は酣《たけなわ》になる。姫は暗然と俯向いたまま、なにひとつ口にしない。
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哲別《ジェベ》 お祝いのおしるしに、また一つには、姫のお心をお慰め申すために、わが陣中の狂乱楽をお聞きに入れたいと存じますが――。
成吉思汗《ジンギスカン》 思いつきだ。すぐ始めろ。
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銅製の長大な喇叭《ビウレ》、太鼓《ケンゲルゲ》、銅鑼《ハランガ》、法螺貝《ビシズンガル》、笛《ビシダル》、その他、ツァン、デンシク、ホレホ、ツェリニン等、珍奇な楽器を抱《かか》えた盛装の軍楽隊の一団が練り込んで来て、耳を聾する音楽が始まる。同時に、兵士ら五六人、赤、黄、紫などの小旗のついた、抜身の槍を振るって、成吉思汗《ジンギスカン》陣中の名物、槍躍りを踊る。成吉思汗《ジンギスカン》はその間、たえず淋しそうな微笑を浮かべ、ともすれば考え込むが、そのようすを人に覚られまいと、気がついたように合爾合《カルカ》姫へ笑いかける。姫は終始|首垂《うなだ》れて、一語も発しない。
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成吉思汗《ジンギスカン》 もっと何かやれ。もっと酒を持って来い。誰か合爾合《カルカ》姫を笑わせる者はないか。(単純に、そして懸命に)さあ、合爾合《カルカ》、札荅蘭《ジャダラン》の城と違って、この成吉思汗《ジンギスカン》の陣中には、何でもあります。ほら、この鹿の腿肉を味わっては下さらぬか。これは狼汁です。いや、この好皮子《ナイビイズ》は、成吉思汗《ジンギスカン》陣中の自慢のものだ。いくらでも召上って下さい。
者勒瑪《ジェルメ》 さ、羊がまいりました。
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と蒙古鍋を持ち込み、焚火の上に羊肉を焙《あぶ》る。一同は剣の尖に突き差して立食する。月いよいよ冴える。
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汪克児《オングル》 あっしが一つ、姫を笑わせて御覧にいれよう。(と滑稽な身振りで、唄う)怖いものづくしを申そうなら、蒙古名物砂漠の竜巻、駱駝の喧嘩に暗夜の狼、嚊《かか》あの悋気《りんき》、いや、いっち怖いは成吉思汗《ジンギスカン》様の一睨み――おや! これでもお笑いにならない。(さまざまの物真似やお道化《どけ》た踊りで、必死に狂いまわる)
成吉思汗《ジンギスカン》 駄目だ、駄目だ! 姫はまだ笑わないぞ。こんなことでは、まだ饗応がたらぬ。誰か合爾合《カルカ》姫を笑わせるものはないか。笑わせた者は、大名に取りたててやる。(だんだん興奮して)ほら、この剣をやる! いや、この兜も与《や》る。あの、おれの馬もくれてやるぞ。笑わせろ、笑わせろ! なんとかして合爾合《カルカ》を笑わせろ!
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汪克児《オングル》はここを先途《せんど》とおかし味たっぷりに、踊ったり跳ねたりする。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (汪克児《オングル》がきりきり[#「きりきり」に傍点]舞いをすればするほど、ますます憂鬱になる。突然怒りを含んで)えいっ、止めいっ!
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汪克児《オングル》はぺたんと尻餅をついて、肩で呼吸《いき》をする。
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成吉思汗《ジンギスカン》 面白くもない。姫を笑わすどころか、こら、見ろ、ますます沈んでしまったじゃないか。見苦しい奴だ。あっちへ行けっ!
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顔色を変えて突っ起つ。長老|哲別《ジェベ》、その雲往きを察して、追い立てるように将卒一同を引き取らせる。そして手早く合爾合《カルカ》姫を案内して、成吉思汗《ジンギスカン》の天幕《てんと》へ伴れ去る。成吉思汗《ジンギスカン》は辺りを睨《ね》め廻したのち、つと天幕へはいる。虎がのそりと立って後を追う。小姓|巴剌帖木《パラテム》が続こうとすると、
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汪克児《オングル》 巴剌帖木《パラテム》! これ――!
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と眼配《めくば》せして止める。そして、不審顔の巴剌帖木《パラテム》の手を引き、道行きのおかし味よろしく、下手へ引っ込む。舞台無人。篝りは消えかかって、正面天幕の内部に、明るく灯が映り、大きな虎の影が揺れる。長い間。幕。
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   第二幕 第二場

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成吉思汗《ジンギスカン》私用の大天幕内。舞台上手寄りに、大いなる木の寝台を置き、白い羊の皮で堆高《うずたか》きまでに覆う。楯、鎧など、ほどよきところに飾る。正面の壁には、幼稚なる豪古地図の大い
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