なるを掲げたり。
下手奥に出入口が開き、青い月光の漲《みなぎ》る砂漠、および大河の一部がくっきり見える。寝台の傍に、獣油の燭台を一つ置く。その下に虎が寝そべっている。下手出入口よりの月光が一ぱいに射し込んで、舞台はほの明るい。幕開くと、合爾合《カルカ》姫が舞台中央に上手を向き、うな垂れて立っている。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (その背後にぴたりと立っている。長い間。別人のように静かに)合爾合《カルカ》、ほんとに久しぶりだったねえ。君はちっとも変らない。
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姫の首筋をじっと見つめて、うしろから抱き竦《すく》めようとするが、はっと自らを制する。
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合爾合《カルカ》姫 (突如憤然と)あなたも、ちっともお変りになりませんわ。昔のとおりの、乱暴者の成吉思汗《ジンギスカン》――。(きっと振り返って)あなたは鬼です! 悪魔です! なぜその力自慢の腕で、いまここで妾《わたし》を、打って打って打ち殺してしまわないのです! (泣く)
成吉思汗《ジンギスカン》 (苦しそうに)もう夜が更ける。あそこの寝台へ行って、ゆっくり休むがいい。不自由な籠城が続いて、さぞ苦しかったことでしょう。そう言えば、すこし瘠せたようだが――。
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合爾合《カルカ》姫は、顔を掩って寝台に進み、静かに羊の皮の上に身を横たえ、近寄って来たら一突きと、それとなくふところの懐剣を握り締めて身構える。憎悪に満ちた眼で、成吉思汗《ジンギスカン》を凝視《みつ》める。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (皮肉に)御主人はいかがです。最愛の妻を、こうして一人敵の陣中へ寄越して、みずから助かろうとする札木合《ジャムカ》、おれは、あなたのためにあいつを憎む。あいつを呪う。
合爾合《カルカ》姫 いえ、それは違います。妾はあの人に隠れて、そっと忍び出て来たのです。
成吉思汗《ジンギスカン》 (面《おもて》を輝かして)おお、それではあなたも、この長の歳月、この成吉思汗《ジンギスカン》を想っていて下されたのか。
合爾合《カルカ》姫 (冷やかに)なにを仰せられます。妾はあなたのことなど、思い出したこともございません。(と嘘を言う。淋しく笑って)降伏の条件に、敵将の妻を所望なさるなどとは、きょうという今日こそは、あなたという人間に愛想がつきました。妾は、良人と、城下の人々を助けるために、来たのです。(強く寝台に起き上り、きっと成吉思汗《ジンギスカン》を睨み据えて、物体のように身を固くする。もう観念して、自暴自棄的にすべてを投げだしたこころ。鋭く)成吉思汗《ジンギスカン》! 勝ち誇った成吉思汗《ジンギスカン》! 何百人、何千人の犠牲《いけにえ》になってきたこの身体《からだ》を、さ、思う存分にして下さい! さ、なぜ早く自分の有《もの》にしないのです。(と眼を瞑《つぶ》る)
成吉思汗《ジンギスカン》 なにを――。
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と、つかつかと寝台へ歩み寄る。が、姫の覚悟に気圧《けお》されて、ぴたりとそこへ釘づけになる。凄まじい間。姫は堅く眼を閉じ、身動きもせずに、成吉思汗《ジンギスカン》の襲って来るのを待つ。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (窒息的な間。激しい独り語)おれの気持を察して、部下がこの計らいをしてくれたのだ。おれはそれを利用して、この、一度はと狙っていた機会を掴もうとした。が、おれにはできない。そんなことは、おれにはできない。(沈思。突如、自分に呼びかけて)おい! 成吉思汗《ジンギスカン》! 貴様、どうかしてるぞ。貴様の恋人は、戦争じゃなかったのか。貴様は、若い血のすべてを、軍馬の蹴散らす砂漠の砂へ、投げ与えたはずではないのか。(壁の大地図へ眼が行き、駈け寄る)おお! (剣を抜いて地図を辿《たど》る)この、阿納《オノン》、客魯漣《ケルレン》、宇児土砂《ウルトサ》の三つの河の流れる奥蒙古の地は、貴様の父親《おやじ》、也該速巴阿禿児《エスガイパアトル》の志を起した平野じゃないのか。これが貴様の恋だ。これが貴様の全部だ。しっかりしろよ、成吉思汗《ジンギスカン》! (急に朗かに)あははははは、戦争だ、戦争だ、おれは、戦争のほか何ものもない。戦争さえしていればいい人間なんだ。合爾合《カルカ》、戦争の話をしてあげよう。ねえ、勇ましい合戦の話を――この成吉思汗《ジンギスカン》は、鉄の額をしているぞ。剣の嘴《くちばし》を持っているぞ。まだある、槍の舌を備えている。巌《いわお》のような心なんだ。いいか、そうれ! こうして、環刀の鞭を揮い、露を飲んで、敵へ向って風のように飛んで行くのだ――。
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と己《おの》が気を紛らせようと、全身の力を罩《こ》めて、剣舞のように合戦の仕草をして見せる。合爾合《カルカ》姫は呆然と見守っている。
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成吉思汗《ジンギスカン》 ああ、気が散って駄目だ。なに糞っ! (再び力を入れて、大きく身振りをする)われ成吉思汗《ジンギスカン》の赴《おもむ》くところ、青草の一つ、仔羊の皮だに残さず。われ怒りて、五百|尋《ひろ》のところより矢を射らば、五百人の人を倒し、九百尋のところより矢を射らば、九百人の人を斃《たお》すべし――。(ふと気づいて、苦笑する)と、まあ、世間では噂しているよ。やあ、お寝み。
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子供のように快活に、下手、天幕の出口に坐り、膝を抱く。
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成吉思汗《ジンギスカン》 ああ好い月だ。砂漠に照る月の美しさは、旅行者の話に聞いた、遠い東の海とかいうものを思わせる。(長い間)
合爾合《カルカ》姫 (寝台から成吉思汗を見つめながら、半身を起して)成吉思汗《ジンギスカン》! なにしに妾をここへ呼んだのです。
成吉思汗《ジンギスカン》 このおれの心は、誰も知らない。誰も知らない。銀の鱗と騒ぐ斡児桓《オルコン》と塔米児《タミイル》の川波が、知っているばかりだ。うむ? (合爾合《カルカ》の問いに気づき)何のために、あなたをここへ呼んだ? ははははは、それは、朝になればわかるだろう。僕はここで、一晩中あなたをお守りする。成吉思汗《ジンギスカン》を信じて、ゆるゆるお眠みになるがいい。
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寝台の傍の猛虎が、いきなり凄い唸り声を発する。
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合爾合《カルカ》姫 おお怖《こわ》い! この虎をあっちへ連れて行って下さい。でも、砂漠の虎|成吉思汗《ジンギスカン》よりも、妾にはこの虎のほうが、まだ安全かも知れませんわね。
成吉思汗《ジンギスカン》 月が照ると、こいつは故郷の山を思いだして、吠えるのです。木華里《ムカリ》! 木華里《ムカリ》はいないか。
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天幕の入口に、巨漢|木華里《ムカリ》が現れる。
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成吉思汗《ジンギスカン》 あはははは、木華里《ムカリ》、われわれの結婚の夜の邪魔をするのは、この心ない太陽汗《タヤンカン》だよ。連れて行ってくれ。
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木華里《ムカリ》は、長い鞭をふるって虎に近づき、大きく床を打つ。
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木華里《ムカリ》 さあ、出て失せろ。乃蛮《ナイマン》の太陽汗《タヤンカン》め! (鞭の音唸る。猛虎は怒って、跳びかかりそうな敵意を示す)
成吉思汗《ジンギスカン》 (静かに起って行って)太陽汗《タヤンカン》! (一白睨《ひとにら》みで、虎は穏和しく立ち上り、木華里《ムカリ》に続いて天幕の外に去る。月いよいよ照り返る)
成吉思汗《ジンギスカン》 (元の天幕の出入口に帰り、床に坐る)ははははは、この成吉思汗《ジンギスカン》には、あなたに対する私の心中の虎のほうが、あの太陽汗《タヤンカン》よりどんなに恐しいかしれない。いや、合爾合《カルカ》、なにも怖がることはないよ。
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と膝を抱いて、月に見入る。どこからか兵士の奏《かな》でる胡弓《こきゅう》の音が漂ってくる。姫は寝台に身を起して、じっと不思議そうに成吉思汗《ジンギスカン》を見詰めている。長い沈黙がつづく。咽ぶような胡弓の調べ。舞台一面の青白い月光、やや傾きそめる。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (ひとり言のように)あれから何年になるかなあ。君あ記憶《おぼ》えているかしら。まだ、僕のおやじ、也速該巴阿禿児《エスガイパアトル》が生きているころ、僕の家と君の家は、森ひとつ隔てていたねえ。
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姫は意外な面持ちで聞き入っている。
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成吉思汗《ジンギスカン》 ええと、あの森は何てったっけな――何といったっけね、あの森は?
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合爾合《カルカ》はつんと横を向いて、答えない。
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成吉思汗《ジンギスカン》 あの、ほら、真ん中辺に、こんな大きな樹が三本立ってる森さ。忘れた?
合爾合《カルカ》姫 (素っ気なく)存じません。
成吉思汗《ジンギスカン》 そうかなあ。あの森を忘れたのかなあ。僕あよく覚えてるがなあ。
合爾合《カルカ》姫 (うっかり釣り込まれて、低声《こごえ》に)黒雲の森――。
成吉思汗《ジンギスカン》 (膝を打って)そうそう! 黒雲の森、黒雲の森! あの森の端れに、小川のあったのを思い出さないかい?
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寝台に突っ伏して、姫は無言。
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成吉思汗《ジンギスカン》 忘れっぽいんだなあ。あの、そら、僕がよく羊の群れを追って、水を飲ませに行った川さ。岸に水草が一ぱい生えて、春さきなんか、ぞっとするほど冷い水だった――月夜の晩は、あの小川が銀の帯のように光って家の窓からよく見えたことを思い出すよ。懐しいなあ。
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合爾合《カルカ》姫は冷い沈黙をつづける。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (突然笑いこける)ははははは、そうそう、君は手桶を抱えて、よくあの川へ水を汲みに来たものだねえ。そうしたら、いつか、ほら、その桶を川に流してさ――。
合爾合《カルカ》姫 (相手になるまいとつとめながら、つい引き込まれて)桶じゃありませんわ。羊の皮袋でしたわ。
成吉思汗《ジンギスカン》 いや、桶だよ。
合爾合《カルカ》姫 いいえ、羊の皮ぶくろですわ。
成吉思汗《ジンギスカン》 そうだったかしら。なんでもそいつを流れに取られて、君は岸に立ってしくしく[#「しくしく」に傍点]泣いていたっけ。あの時、君は十歳《とお》ぐらいだったかしら。そうだ、僕はたしか十七の春だったからなあ――あの森も、小川も、きっとまだあのままだろうよ。帰ってみたいなあ。
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姫はかすかに涕泣《すすりな》きを洩らす。長い間。
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成吉思汗《ジンギスカン》 思い出したぞ。僕はあの時、川へ飛び込んで、流れてゆく皮袋を拾い上げた――。
合爾合《カルカ》姫 (顔を上げる。頬に涙が光っている)ええ、靴をお穿きになったまんまで――。
成吉思汗《ジンギスカン》 そう! そうしたら、君ったら、ずぶ濡れになった僕が、川から這い上った恰好がおかしいと
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