言って、泪の一ぱい溜まった眼で笑ったよ。いま泣いた烏《からす》が、もう笑った、ははははは。
合爾合《カルカ》姫 (いつしか全的に引き入れられて)烏といえば、いつか、妾の家の裏の丘へ、烏の巣を取りに行ったことを覚えてらしって?
成吉思汗《ジンギスカン》 烏の巣? いや、あれは雀の巣だよ。
合爾合《カルカ》姫 あら嫌だ。烏ですわ。あなたったら、烏を追っ払うんだっておっしゃって、お父様の弓を持ち出して――。
成吉思汗《ジンギスカン》 あ、そうだった。烏、烏――あん時あ、父親のやつにひどく怒られちゃってねえ。烏は、蒙古では神聖な鳥だからな。
合爾合《カルカ》姫 (すっかり追憶的に)あれから随分になりますわねえ――こんなこともありましたわ。覚えてらしって? そら、あなたが狩猟《かり》においでになって、弟の合撒児《カッサル》さまと御一緒に、妾の父の家へ水を飲みにお寄りになったことがありましたわね。
成吉思汗《ジンギスカン》 そんなことがあった? いつごろだったかしらん。
合爾合《カルカ》姫 あの、ほら、はじめて沙摩魯格土《サマルカンド》から、隊商の着いた年ですわ。
成吉思汗《ジンギスカン》 うむ、可荅安《カダアン》の砂漠に、珍しい蜃気楼が見えるといって、遠くから見物人が押し寄せた、あの翌年だったね。
合爾合《カルカ》姫 ええ、そう――あの時あなたったら、妾に白樺の杖を作って下さるとおっしゃって――。
成吉思汗《ジンギスカン》 そうそう! 覚えている、おぼえている。夏の暑い日でねえ。いや、猛烈な暑さだったな。合撒児《カッサル》のやつの肩車に乗って、高いところの枝を折ろうとする拍子に、手に棘を刺してねえ。
合爾合《カルカ》姫 ええ、妾が大騒ぎして、母から針を借りて取ってさし上げましたわ。
成吉思汗《ジンギスカン》 その傷あとをなめてくれたじゃあないですか。
合爾合《カルカ》姫 記憶えてらっしゃる?
成吉思汗《ジンギスカン》 (じっと自分の指を凝視める)覚えてるとも。誰が忘れるもんか。あの時、砂漠の向うに沈もうとしていた夕陽の色まで、いま眼の前に見るようだ。
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断続する胡弓の音。間。
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成吉思汗《ジンギスカン》 それから、僕が忘れようとしても忘れることのできないのは、父の也速該巴阿禿児《エスガイパアトル》が泰赤宇徒《タイチュウト》人に攻められた時、あの危急存亡の場合に僕を助けてくれたのは、君だった。羊毛を積んだ車の中に、三日三晩僕を匿って、君がその番をしてくれた――。
合爾合《カルカ》姫 泰赤宇徒《タイチュウト》の兵隊が、あなたの隠れていらっしゃる羊毛のなかへ、何度も剣を突き刺すので、妾、はらはらしましたわ。
成吉思汗《ジンギスカン》 それより、滑稽だったのは、いくら捜してもいないもんだから、泰赤宇徒《タイチュウト》の奴らが君の瑣児肝失喇《ソルカンシラ》の荘園を出て行ってからさ。やっと車から這い出して、いや、食べた、食べた。なにしろ、三日目に食い物にありついたんだからねえ。まったく、あの時の羊の肉は美味《うま》かったなあ。今でも忘れないよ。
合爾合《カルカ》姫 ええ、そうそう。あなたったら、いくらでも召し上るんですもの。妾、お腹《なか》がどうかなりはしないかと思って、ずいぶん心配しましたわ、ほほほほほ。
成吉思汗《ジンギスカン》 あ、笑った! あ、笑った! 合爾合《カルカ》が笑った。とうとう合爾合《カルカ》を笑わせたぞ、あははははは。(ふと心づいて冷静に月を仰ぐ)ふむ、おれはいったい何を言っているんだ。ああ、向うの山の端が、かすかに白みかけて来たぞ。今日はあの峠を越えて、乃蛮《ナイマン》国へ攻め入るのだ。都の和林《カラコルム》を出てから、もう二月あまりの旅だ。人も馬も、すこしの疲れも知らない。ありがたいことだ――うむ、そうだ。陣中日記でもつけるとしよう。
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と呟きつつ、軍装の内懐から一冊の帳面を出し、月の光りで、いつまでも黙って読み耽っている。追憶で感傷的になった合爾合《カルカ》姫の涕泣《すすりな》きが高まる。成吉思汗《ジンギスカン》は何も耳に入らないように、一心に読みつづける。長い長い間。合爾合《カルカ》姫は、懼《おそ》れていたこともなく夜が明けたので、ようやく成吉思汗《ジンギスカン》の意を悟り、静かな泣き声を放って寝台に伏す。月はすっかり落ち、もう砂漠の彼方に、早い蒙古の朝ぼらけが動き初める。今まで一望の砂原と見えたあたりに、斡児桓《オルコン》の川水が光って見えはじめる。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (ふと暁の色に気づくが、振り返りもせずに)ああ、夜が明ける。乃蛮《ナイマン》征伐第一の朝だ。ああ愉快だ。合爾合《カルカ》、おれは昔の羊飼いに返って、羊の群れを番するように、一晩君の身体を守り通したのだ。
合爾合《カルカ》姫 (寝台に起き上り)成吉思汗《ジンギスカン》さま! あなたの真意は、よく解りました。それほどの深いお心とも知らず、妾はあなたを刺すつもりで――。(と懐中の匕首を抜き放ち、己が胸に突き立てようとする)
成吉思汗《ジンギスカン》 (駈け寄ってそれを叩き落す)何をする! 君が死んでは、僕の志は無になる。さあ、朝になった。いま木華里《ムカリ》に送らせますから、どうぞ、城中へお引き取り下さい。
合爾合《カルカ》姫 (じっと成吉思汗《ジンギスカン》を凝視《みつ》めて)妾の心が、恥かしゅうございます。いえ、良人|札木合《ジャムカ》のあなたに対する気持ちも、恥かしゅうございます。
成吉思汗《ジンギスカン》 いや、そう言われると、こっちが弱る。おれこそ恥かしい。白状するが、おれは初めは、決して君を清く帰すつもりではなかったのだ。が、この天幕で二人きりになってみると、おれは、自分がもっと大きくならなければならないことを知った。いや、このおれは、もっと大きな人間であることを発見したのだ。おれにそれを教えてくれたのは、合爾合《カルカ》、あなただ。僕はその点で、あなたに感謝する。木華里《ムカリ》! 木華里《ムカリ》! (戸口に木華里《ムカリ》があらわれる)合爾合《カルカ》姫を城へお送り申せ。
木華里《ムカリ》 はっ。
合爾合《カルカ》姫 (今さらのように、懐かしそうに心を残し、別離を惜しむ)それでは、どうぞ御無事で乃蛮《ナイマン》を御征伐下さいませ。もう二度とお眼にかかることもございますまい。陰ながら御成功をお祈り申しております。
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と会釈し、悄然と木華里《ムカリ》に伴われて去る。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (追おうとするのをぐっと堪《こら》えているが、必らず戸口まで走って)合爾合《カルカ》! 達者で暮らせ。札木合《ジャムカ》によろしくとな。(じっと見送る。長い間。やがて快活な独り語)ああ、これでよかった。これでさっぱりとした。これで、おれの胸は晴れた。さあ、阿納《オノン》、客魯漣《ケルレン》、宇児土砂《ウルトサ》の三つの河の流域をわが手に収めて、和林《カラコルム》へ凱旋するだけだ。今日はその覇業の第一日だぞ。おい! 乃蛮《ナイマン》の太陽汗《タヤンカン》先生! 出て来い! (虎を呼ぶ)
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舞台一ぱいに、眼の眩むような金色の朝日。美しい朝だ。声に応じて猛虎が走り込んでくる。成吉思汗《ジンギスカン》は嬉しくてたまらなさそうに、その虎の耳を掴んで、頬を平手打ちにする。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (虎へ)どうだ、えらいだろう、おれは! はははははは、いい気持ちだなあ。さっぱりしたなあ。どうでえ、恐れ入ったろう、はっはっは。
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と虎の口へ拳固を押し込んだりなどする。巨大な虎が猫のごとく成吉思汗《ジンギスカン》に跳びつく。成吉思汗《ジンギスカン》は絶えず呵々大笑しながら、上になり下になり、虎と一しょに天幕狭しと転げ廻る。幼児のように猛虎とじゃれる。長老|哲別《ジェベ》が駈けこんで来る。
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哲別《ジェベ》 おお、太陽汗《タヤンカン》はここに――。
成吉思汗《ジンギスカン》 (虎の下になって戯れつつ、仰向けに寝たまま)おい、親《おやじ》! いい天気だなあ。でかけようじゃねえか。すこしは気持ちのいい戦争もさせてくれよ。
哲別《ジェベ》 合爾合《カルカ》姫は?
成吉思汗《ジンギスカン》 もう帰ったよ。
哲別《ジェベ》 それでは、いよいよ乃蛮《ナイマン》国へ――。
成吉思汗《ジンギスカン》 (がばと撥ね起る)うむ、進発だ!
哲別《ジェベ》 はっ。
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と一隅から銅鑼を持ち出し、天幕の入口に立ってとうとう[#「とうとう」に傍点]と打ち鳴らす。天幕の外、にわかに騒然とし、武器の音、軍馬のいななき、蹄の響き、蒙古犬の吠え声。弟|合撒児《カッサル》を先頭に、忽必来《クビライ》、速不台《スブタイ》、小姓|巴剌帖木《パラテム》、その他参謀等多勢、厳《いかめ》しき武装にて馳せ入り、成吉思汗《ジンギスカン》の前に整列する。同時に、兵卒ら多勢走り廻って、ばたばたと天幕を畳めば、斡児桓《オルコン》河の向うに、抗愛山脈が旭に光り、舞台一面の広場となる。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (小姓のすすめる兜を被り、鎧の胴を締め、手早く軍装を凝らしつつ)さあ、今日は抗愛山脈だぞ。貴様たち、腕が鳴るだろう。(一種の点呼)合撒児《カッサル》の手は、十本の指がみな毒蛇、哲別《ジェベ》の白髪は針鼠、忽必来《クビライ》の胸は鉄の楯だ。速不台《スブタイ》の脚は、千里を往く牡鹿のそれと、敵の陣中で評判しているぞ。今日こそは、ちっとは軍らしい軍が出来そうだ。
汪克児《オングル》 (人の脚の間から顔を出して)大将! あっしを忘れるってのあねえぜ。
成吉思汗《ジンギスカン》 うむ、芋虫がいたな。ははははは、貴様の瘤は、駱駝も顔負けだ。
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一同爆笑。成吉思汗《ジンギスカン》の白馬が者勒瑪《ジェルメ》に引かれて来る。成吉思汗《ジンギスカン》は無造作に飛び乗る。喨々《りょうりょう》たる喇叭の音起る。舞台全面の軍勢、勇み立つ。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (馬上に剣を引き抜き進軍!)
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騒然たる物音の中に、猛虎の長嘯《ちょうしょう》。汪克児《オングル》が何度も馬から転げ落ちている。幕。
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   第三幕 第一場

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札荅蘭《ジャダラン》城、城門の景。砂漠のなかに濠をめぐらし、高い石垣を築き、石を積み上げたる厳重な城門の前。同じ時刻。
序幕第一場の避難民多勢、首を伸ばしてはるか彼方の成吉思汗《ジンギスカン》軍の屯営のほうを見守っている。
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男一 とうとう昨夜《ゆうべ》、合爾合《カルカ》さまはお帰りにならなかったようだな。
男二 おれたち部落の者の身代りになって下すったのだ。お痛わしいことだ。
女一 あのお優しい奥方様が、恐しい成吉思汗《ジンギスカン》の陣屋で、どんな目にお遭いなされたかと思うと――。
男三 札木合《ジャムカ》の殿様は、もう気違いのようになっている。おお、ここまで、殿様のどなり叫ぶ声が聞えて来るようだ。
男四 しかし、殿様の御心中を察すると、それも無理がないなあ。
男五 軍には負ける。奥方まで奪られるじゃあ、まったく、浮かぶ瀬がないよ。
女二 (遠くを指さして)あれあれ! 成吉思汗《ジンギスカン》軍では、にわかに天幕を取り毀しまし
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