おれが、指一本さすことができようか――。(間)あの抗愛山脈の肩に、ぽうっと暁の色が動き初めると同時に、おれの心にも、夜が明けた。おれは合爾合《カルカ》に負けた。札木合《ジャムカ》! 君は幸福な男だ。合爾合《カルカ》のような立派な女を妻に持っているとは、(こころの底から)おれはほんとうに羨ましいぞ。
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札木合《ジャムカ》と台察児《タイチャル》は、うなだれて聴き入っている。
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成吉思汗《ジンギスカン》 札木合《ジャムカ》! このまま行ってしまうことは、おれにはどうしてもできなかった。おれは、君の前に、こうして、手を突いて、心の底から謝罪《あやま》りに来たのだ。どうか、許してくれ。な、どうか許してくれ。
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札木合《ジャムカ》兄弟は、呆然と佇立している。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (朗かに起ち上って)ああ、これでさっぱりした。身体中の汚れを洗い流したような気がする。(友達に対するように、無邪気に)では、札木合《ジャムカ》、乃蛮《ナイマン》をやっつけて、帰りにはきっと寄るよ。その時は、合爾合《カルカ》と二人揃って、おれをうんと御馳走してくれよ。きっとだよ。じゃ、さいならっ!
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少年のように、気軽に行こうとする。札木合《ジャムカ》の手から、ばたんと抜刀《ぬきみ》が落ちる。
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札木合《ジャムカ》 (喘いで)成吉思汗《ジンギスカン》! 待ってくれ!
成吉思汗《ジンギスカン》 何だ。何か用かい? (軽く引っ返して来る)
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札木合《ジャムカ》はたまらず駈け寄り、成吉思汗《ジンギスカン》の腕を握り、涙の無言で屍骸の傍へ引っ張ってくる。そして、手早く、死体を隠してある屏風を除《と》る。旗で覆った合爾合《カルカ》姫の屍が現れる。
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札木合《ジャムカ》 成吉思汗《ジンギスカン》! 見てやってくれ!
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成吉思汗《ジンギスカン》は跪《ひざまず》いて、静かに旗を取る。愕く。
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札木合《ジャムカ》 (崩折れて、断腸の思い入れ)おれは、おれは、なんという愚か者だ! おれは、おれの手で、掛け換えのない珠玉を壊してしまったのだ――。(と突っ伏す)
成吉思汗《ジンギスカン》 (ぐっと起つ。悵然と屍骸を見下ろして、長い間)合爾合《カルカ》は死んだ。合爾合《カルカ》を殺したのは――成吉思汗《ジンギスカン》の向うところ、砂漠の風さえ避《よ》けて通るに、この一輪の散る花を、人間の力では止め得なかったか――夢だ、砂漠の夢だ――。
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台察児《タイチャル》は居崩れて、嫂《あね》に弔意を表する。喇叭《らっぱ》の音は刻々遠のき、消えんとしている。露台の外、遙かなる抗愛山脈の山峡に、成吉思汗《ジンギスカン》軍の白い旗印が九本、ひらひら靡《なび》いて登って行くのが小さく見える。幕。
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底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
1970(昭和45)年1月15日初版発行
初出:「キング」講談社
1934(昭和9)年7月
※林不忘名義の底本に収録されていますが、発表時の署名は牧逸馬です。
※改行行頭の人名、人物、時代は、底本では、ゴシックで組まれています。
※ト書きは、底本では、小さな文字で組まれています。
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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