来ないか。僕は先へ行って待ってる。お前がいま俺に電話を掛けていることは誰も知らないんだから、すぐ、バルテモア・ガレイジへお出でよ。あすこで会おう」
 受話機を掛けたジュッドの額には、大粒の汗が列のように流れて、判事も秘書も、余りの気の毒さに、正面に顔を見ることは出来なかった。
 ガレイジへ来ると言ったという――。
 勇躍したラッセル判事は、何を考えたのか、市第一の葬儀屋、ガス・アルヴァレッツ会社へ電話を掛けて、霊柩自動車を一台、至急バルテモア車庫へ廻わすようにと頼んだ。
「大事な仕事だから、責任のある運転手を寄越して呉れ給え」
 ジュッド医師と、判事と、二人きりで、その車庫へ出掛けて行く。そっと窓から外を見ながら、ルウスの来るのを待ったのだが、あれ程興奮した瞬間の連続はなかったという。それはそうだろう。
 来た。


「街を歩いて来るのが見えた」ラッセル判事が、後で新聞記者に話した。「まるで、罠を恐れる兎のように、前後左右を見ながら、急ぎ足に来ました。写真で見た通りのルウス・ジュッドでした。とうとう良人を見附けて、にっこりして手を振りました。ジュッド医師は堪らなくなったらしく、駈け出して行って彼女を抱きしめ、わざと人目を避けるために、角を曲って、第五街の入口からガレイジへ這入って来た。私は其処に立って、二人を待っていたのです」
 ルウス・ジュッドは、顔は蒼ざめていたが、予期したほど疲労の色もなく、割りに冷静だった。この辺は通行人も少なく、ガレイジの使用人には何も話してないので、二人の紳士が女を待ち受けて、何か話しているとだけに見えたに相違ない。それでも、人目を避けて、車庫内の自動車の一つに乗り込んで、其処で話すことにした。
「警察へ知らせないで下さい! 出て行く時が来れば、私から出て行きますから――」
 ルウスは繰り返しくりかえし、そう言った。
 そこへ予ねて手配してあったガス・アルヴァレッツ葬儀会社の金ぴかの自動車が来た。判事とジュッド医師は、何も言わずに、いきなりルウスの腕を取って、その葬儀車へ乗り移ったのだ。
 生きているうちに、柩に這入る――物好きな市民と、新聞社の自動車の追跡を避けて、無事に警察へ送り込むための、ラッセル判事の大苦心なのだった。
 柩車へ乗りこむと、ルウスはすっかり崩折れて、
「手が痛いの、あなた。死にそうに痛いのよ」
 と、良人に身を投げかけて啜り泣いた。若いヘドウィッグ・サミュエルスンと格闘の際、サミイに左手を撃たれたと言って怪我をしているのだ。
 警察へ着いてから、微温湯《ぬるまゆ》の中に腕を漬さなければ、その、シイツを裂いて無器用に巻いた繃帯は、血で固まっていて取れない程、出血が甚だしかった。弾丸は深く肉に食い込んでいて、ジュッド医師も簡単に摘出し得なかった。もうこの時分は、ルウスはすっかり逆上していたらしく、警察へ連行された後も、其処を警察とは知らずに、
「どうぞ警察へだけは、出さないで下さい!」
 と、泣き続けていた。
「然し、何れは、法の裁きを受けなければならないのですから、自首なすったほうがお為です」
 既に警察に来ているのだとは言わずに、判事と良人が、左右から頼むように説くと、ルウスはやっと頷いた。
 判事がそっと卓上の鈴を押す。それを合図にテイラア課長、ダヴィッドスン捜査係長、フォニックス地方検事アンドリウス氏などが、一時に扉を排して這入って来て――ルウスも、もうさっきから警察に来ていることを知った。


 緑色の毛の洋服を来たルウスは、特徴のある、大きな眼で、人々を見廻すだけだった。襟と袖に、狐の附いた黒い外套を腕に掛けていた。流行のノウ・ストッキングで形の好い脚を高く組んでいる。帽子は被っていなかった。
 テイラア課長はにこにこして、
「何うなさいました、奥さん。怪我をしていらっしゃいますね」
 ルウスは、答えなかった。
 この時分にはもう、ルウス・ジュッドが逮捕されたというニュウスは、火のように市中に拡まって、部屋の外の廊下は、新聞記者や写真班で暴動のように犇めき合っている。
 傷の手当のために、ジョウジア街の市営病院へ移すことになった。その時、病院の入口で、新聞記者にもルウスを見せ、写真も撮らせる手筈がきまる。ライアン刑事と、ダヴィッドスン警部に左右から挟まれて、ルウスは、裏のエレヴエタアで署の建物を後にした。正面は群集で身動きもならないので、甘《うま》く晦《ま》いたのだ。
 エギザミナア紙の記者、リン・スレエトンは、病院の係に幾らか掴ませでもしたのだろう。医者の着る糊で硬ばった白衣を身に附けて、この、ルウスの傷の手当に立会い、それを読物にして、紙上に連載した。混雑の際だったから、こんなことも出来たのだろうけれど。亜米利加式の活躍である。左手の弾丸は、訳なく取れた。

      6

 手術を終って廊下へ出ると、群っているカメラ・マンの一人が、用ありげに大声に、
「ジュッドの奥さん!」
 ルウスが何気なく、そっちを振り向いた途端、蒼白いフラッシュが閃めいて、写真班は任務を果していた。
「何をするんです! 失礼な!」
 顔色を変えてルウスが叫んだ。
 写真班員は平気で、
「こっちを向いて下さい。ちょっと笑って下さい」
 などと、四方八方からカメラを向けて喚いた。翌日の新聞は、悲しい眼を大きく見開いて、左手を首から釣り繃帯した若い女の写真で、第一面をでかでかに埋めた。写真の上に大きく、
「アリゾナの女虎《タイガレス》、遂に檻へ!」とあった。


 次ぎは、其の深夜に行われた、捜査本部での、テイラア課長の訊問である。
「一体何うしたんです。奥さん。ちょいと人騒がせをやりましたね」
「私は何も申上げることはありません」
「一言お訊きしましょう。手はまだ痛みますか」
「――」
「明日になったら、少しは口を開けて呉れますか」
「そんなことお約束出来ませんわ」
「ルウス・ジュッド! いい加減にするがいい! 本当のことを言うのが恐ろしいんだろう」
「そんなことはありません!」
「まあ、いい。一人でやったことですか」
「さあ、何うですか」
「お前一人の仕事かと訊いているんだ」
「あなたの問いにはお答え致しません」
「死骸をトランクへ詰めるのに、誰か手を貸した者があるだろう――おい! 重かったろう? あの肥っちょのほうの死骸は」
 ルウスは、引き裂くような悲鳴を上げて、両手で顔を覆った。
「ねえ、奥さん、仲好く話し合いましょうや。アリゾナへお帰りになり度くはありませんか」
「え、帰り度いと思いますわ。私、アリゾナが大好きですの」
「私は、こんな腰弁で金も暇もありませんが、これでも旅行が大好きなんですよ。休暇というと旅行に出るんです。それも定ってアリゾナへ行くんですがねえ。一度行ったら病みつきになってしまって、はっはっは、実に好いところだ。沙漠と言ったって、この辺の南部の沙漠とは全然趣きが違っていますね。第一空の色が、こんな羅府などとは比べものになりませんよ。ねえ、奥さん」
「え――一度アリゾナへいらしった方は、皆さんアリゾナがお好きになりますわ。ほんとに好いところですもの」
「殊にフォニックスは、私にとって忘れられない町です。木に囲まれた真珠のような綺麗な、小さな市街で、カウボウイの群れが、肩を揺って歩いている、あの感じは、ちょっと他所《よそ》では見られませんねえ」
「ねえ、課長さん、あたくし――隠れていたことも罪になりますの?」
「飛んでもない! そんな馬鹿なことがあるもんですか。私だって、あなたの立場だったら、何日も逃げ隠れて、警察の奴等に鼻を明かしてやりますよ。参考のためにお訊きするんですが、この四日間何をしていらしった? はははは、じっとして――」
「何も食べずにいましたわ。お金も、泥棒する勇気もありませんでしたから」
「あの五弗は何うしました? 弟さんの上げた」
「この手の傷のお薬を買ったり、初めの二日程の食料や何かに費ってしまいましたの。一度サンタ・モニカへ出掛けて行きましたけれど、義妹の家の前を何度も通ったきりで、とうとう這入れずに、引っ返してまいりました」
「ちょっと好奇心でお訊きするんですがねえ。一体何処にいらしったんです」
「ずっとロスアンゼルスに居りましたわ」
「ロスアンゼルスの何処に?」
「――」
「まさか夜、町に寝て居たわけじゃあありますまい」
「随分恐ろしい思いを致しました。夢中でした」


 亜米利加の有名な女殺人犯に、ルウス・スナイダアとジュッド・グレイがある。Ruth Snyder, Judd Gray ――不思議にもルウス・ジュッドは、この二人の名前を一つに集めているのだ。


 汚れたハンカチイフで眼を拭きながら、ルウスはこの徹夜の訊問に踏み応えている。涙で顔が洗われて、白粉《おしろい》が剥げたのを気の毒がって、課長の女秘書マデリン・ケリイが、自分のコンパクトを貸したりしているのだ。ルウスは、終始、神経的に震えて、鍵のかかった扉《ドア》の外にノックの音のする度びに、ぎょっとしてそっちを振り向いた。が、アリゾナの気候などを話している時には、可愛らしく微笑して、すっかり普通の時のように見える。その様子が如何にも態《わざ》とらしく、天性の俳優のように思われた。この、滑かな彼女の態度から、記者達はルウスに「天鵞絨《びろうど》の女虎」という新しい綽名を与えて、これが又新聞紙上を賑わしたものだ。
「台所で始まったんです」
 突然ルウスが言い出した。告白と見て、テイラア課長は緊張を隠し切れない。そっと秘書に合図をすると、マデリン・ケリイは紙に鉛筆を構えて、速記の支度をするのだ。
「あたしは、殺すつもりなどはなかったんです。サミイがピストルを持って来て、今すぐ此処を出て行け、出ないと撃つと言って、あたしを狙いました。あの晩、サミイのことで、アンと私が口論になった時、サミイがアンの肩をもって、こんな態度に出たのです。あたしは夢中で、片手でサミイの拳銃を握りながら、其処にあった麺麭《パン》切りナイフに手を掛けました。途端にサミイが引き金を引いて、この左の手へ当ったのです――」
 テイラア課長は、興味を示すまいとする努力で、不自然な欠伸《あくび》を作りながら、
「ああ、眠くなった。今夜はもう止しましょう。お話しは、明日にでもゆっくり伺いますから――」
 起とうとすると、ルウスは眼をきらめかして止めて、
「待って下さい! あたくし、すっかりお話ししてしまわなければ、とても眠られないんです!」
 迷惑そうに、テイラア課長は渋しぶ椅子に返る。
「サミイが先に撃ったんですね。で、奥さんは何うなさいました」
「それが、この、左の手に当ったんです。あたしは、もう夢中でした。全身の重みで、サミイを押し倒しますと、アンが大声に叫んで、食堂へ走り込んだと思うと、大きな旧式な拳銃《ピストル》を持って直ぐ飛び込んで来ました。あたしは何時の間にか、サミイのピストルを拾い上げて、手に持っていました。無意識でした。二発撃ったんです」
 課長の背後の卓子《テエブル》で、紙に滑る秘書の鉛筆の音が微かに響く。
 ルウスは一切気が付かない様子で、
「気がつくと、二人とも床に倒れていました。あたしはとても悲しかったんです。サミイがあたしを撃ったことが、何よりも悲しゅうございました。サミイの死骸を抱き起して、何時まで泣いていたか、覚えていません。死骸を台所にそのままにして、一と先ず家へ帰ったんです。そして、良人に宛てて手紙を書くと、朝までぐっすり眠りました」
 自白はこれで、一と先ず終っている。
 テイラア課長は微笑して、
「相手が先に引き金を引いたんだから、つまり、正当防衛という訳ですかな。ははははは、仲なか巧いことを言う――まあ、奥さん、それはそれとして、何卒《どうぞ》これに御署名を」
 秘書から告白の写しを受取って、その下段の余白を指さしながら、課長はルウスにペンを握らした。


 あの日の正午、この羅府の下町で弟の自動車を下りてから、ルウスは群集に紛れて町を歩き廻ったのち、ウールウオウスの
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