店へ這入ってエレヴエタアで、最上階へ上り、カアテンの蔭に隠れて、閉店になるのを待ったのだという。何うして発見されなかったものか、そのカアテンの蔭で夜を迎えて、ルウスは店内に一夜を明かしたのだった。何度となく夜警が巡って来たが、彼女は売台の蔭に外套を敷いて寝ていて、とうとう朝まで見つからなかった。翌朝、開店時になると、便所に忍んで、買物の群集で店の混み出すのを待ち、何気なく立ち去ったのだ。何処へも行く当てがない。それでも、其の筋の眼を眩ますために変装を思いついて、薬屋へ立寄り、髪の毛を染める薬品やなどを買い込んでいるところを見ると、ちょっと本格的な犯罪者らしい閃きも見えるのだ。一日一ぱい歩き廻った末、午後、バサデナのラ・ヴィナ病院の看護婦募集の広告を見て、同地行きの電車に乗り込んだのだが、途中で気が変って田舎の停留所へ下車したのだった。足が痛んでならない。靴を脱って、裸足で草の上を歩いた。
その夜は、近処の百姓家の乾草小屋に潜り込んで、一夜を明かした。翌朝早く、サンタ・モニカへ行ったが、義妹の家へは立ち寄り得ずに、また直ぐ羅府へ引き返したのである。そして、名もない場末の木賃宿へ泊り込んで、一歩も部屋から出ずに、息を凝らしていたというのだ。あの悲痛な、良人ジュッド氏の新聞広告などは、彼女の眼に触れなかった。ただ堪らなくなって電話帳を借りて、ああしてラッセル判事の許へ掛けたのである。
フォニックス地方検事アンドリウスが、次ぎに訊問にかかって、
「あなたは何か隠していますね。犯罪のほんとの動機は何です?」
「動機と言って――あの時、ちょっと喧嘩しただけのことが、こんな結果になったんですわ」
「何のために、サミイの死骸をあんなに虐たらしく切り離したんですか」
「それだけは訊かないで下さい。あたしにも解らないのです。覚えがないんです。気が附くと何時の間にか、あんなことになっていました」
「屍体をトランクに詰めた時のことを、委しく話して下さい」
「――」
これらのことは、ルウスは詳細に陳述したのかも知れないが、記録には、こんなようなところは、器用にぼかしてある。あまりにグロで風壊の恐れがあるので、公表されなかったものだろう。
「正当防衛か、或いは瞬間の発狂というようなことで、あなたは、自分の罪を軽くしようとしていますね。死人に口無しだ。サミイが先に発砲したなんて、他に証明のしようのないことじゃないですか」
ルウスはにこにこ笑っていて、何とも答えなかった。
共犯はなかった模様だが、あの犯行の翌日、彼女がグルノウ療養院に現れた時、左手に怪我などしていなかったということで、これにはアリゾナから証人が呼ばれたりなど、大問題になったが、結局、痛みを隠して繃帯をしていなかった為めに、誰も気が付かなかったのだろうということだった。トランクは自宅にあったのを、フランク・シュワルツという運送屋に頼んで、兇行の現場まで運ばせ、其処でアンの死骸と、ばらばらに料理したサミイの屍体とを詰め込んで、出発の夕方、自宅東ブリル街一一三〇番地の家主ハルナンに頼んで、停車場まで運んで貰ったのである。サミイの胴の中央部だけはスウツケイスに、入れて、手荷物として自分と一緒に羅府へ持って行ったことは前に言った。フォニックスから羅府までの車中、彼女の世話をした列車ボウイ、グリムも、そのトランクを認めたと言い、また、決して、ボウイにも其の鞄に手を触れさせなかったと、交番で述べた。
ジュッド医師は、妻のために羅府第一の弁護士ポウル・W・シェンクを立てる。
十月二十九日火曜日の夜、九時三十七分に、ルウス・ジュッドは看守マクファデンと女看守ロン・ジョルダン夫人と一緒に、郡刑務所から自動車で、アリゾナ州フォニックスへ向う。この「天鵞絨の女虎」を追って、羅府を始め、加州の新聞社の自動車が数十台となく国道に続いた。ルウスの次ぎの車には、ジュッド医師と、アリゾナの警察官一行が乗り込んで、一同無言だった。それは不思議な、深夜の自動車行列だった。
一九三一年十月三十日、自動車は、州境に差掛って、此処で、州と州との間に、犯人引渡しの形式的な手続がある。
フォニックスの町を自動車を駆って刑務所へ急ぐ間、ルウスは、車の窓から懐しそうに外を見つづけた。その出現に依って、この田舎町が一躍有名になった「われらの女虎」の一瞥を持とうという両側の群集も、ルウスの眼には這入らない様子だった。
裁判は、一九三二年――今年――一月十九日に、フォニックス市法廷で開かれた。若い美しい、兇悪な殺人犯は、蒼白い顔に平静な色を浮かべて、まるで劇場にでも這入るように、法廷へ現れた。サミイが先に撃ったので、止むを得ず自分も発砲したというのは、彼女の弁護の建前で、終始一貫して、此の主張だった。
「この犯罪の真実の動機は何か?」
ロジャアス裁判長の問いに、ルウスは悪びれもせずに、
「あたしは良人を愛していました。ですけれど、良人以上にサミイを愛していたのです。ああ、サミイ――サミイに対する私の愛は、決して説明することの出来ない気持ちです。男と女との間の恋などよりも、もっと深刻な、もっと真剣な――」
7
「被告には、自分の意識しない残虐性があって、それがこの犯行の誘因となったのではないか」
「そんなことはないと思いますけれど――」
「然し、そんなに愛して居った相手の死骸を、ああも残虐に切断するという事は、とても常識では考えられんじゃないか」
「あの瞬間あたしは気が狂っていたのです」
「それは被告にとって一番都合の好い言葉である。殺人は正当防衛で、残忍行為の時は、一時的に精神の異状を呈しておった、と斯う言うのだろうが、精神鑑定は別の問題として、それで被告の責任は軽くはなりはせんから、予め申聞けて置く」
羅府《ロスアンゼルス》から来たシェンク弁護士のほかに、フォニックスの弁護士としてヘルマン・ルウコウイッツと、ジョセフ・B・ザバサック、この三人が被告側の弁護人、検事は、前に再《たび》たび出て来ているアンドリウス氏と、ハリイ・ジョンソン。裁判長はいま言った、A・G・ロジャアス。
アリゾナ州立精神病院長ジョウジ・スティブンス博士が、ルウスの精神鑑定を行ったが別に異状は認められないと言うことだった。例のトランクが二つ法廷へ持出されたりして、亜米利加の裁判に特有の劇的場面を呈する。ルウスはけろりとしてトランクを眺めていたが、右手で左手の人さし指に、ハンケチの端を巻いたり解いたりしていた。物好きな新聞記者が、それを数えて、二百四十三回ハンケチを指へ巻きつけたと傍聴記事に書いている。
この裁判の間に、連日の興奮に疲れ切っているジュッド医師が大きな鼾を立てて、居眠りを始めた。それは実に大きな鼾で、検事の論告や弁護士の反駁やらで、騒然としている法廷内に、隅から隅まで鳴り響いて高く聞えた。
飽気に取られた廷丁が、そばへ寄って揺り起そうとすると、ロジャアス裁判長が、静かに止めて、
「起しちゃいかん。ジュッドさんを眠らして置き給え」
検事が一寸顔色を変えて、
「然し、裁判長、この神聖な法廷に於て鼾をかくとは――」
裁判長はにっこりして、
「神聖な法廷だからこそ、お気の毒なジュッドさんに、ぐっすり眠って頂き度いのです。被告を始め、誰も彼も狂気のようなこの法廷の中で、只一人、真面《まとも》な人間らしい人は、ジュッドさんだけだ。ジュッド氏の眠りを妨げてはいけない」
ちょっと、めりけん大岡越前守というところ。
一月二十八日、裁判は一時中止される。翌二十九日は、ルウス・ジュッドの二十七回の誕生日で、ジュッド氏は獄中の妻へ白いカアネエションの花束を贈った。が、いくら亜米利加でも、誕生日が来たので裁判を休んだという訳でもあるまい。然し何といっても呑気なもので、ルウスはこの日、許可を得て、監房内へ美容師を呼び入れ、パアマネント・ウエイヴをかけたりしている。ここらは、鳥渡想像が出来ない。
二月八日月曜日、午後五時。裁判長ロジャアス氏は起立して、陪審員の判定を読み上げる。
「被告を最重の殺人犯と認め、死刑に処す」
この判決を他人《ひと》事のように聞いていて、ルウスは眉毛一つ動かさなかった。ジュッド医師が、彼女をしっかり抱き締めて接吻をしても、ルウスは機械のように、される儘になっているだけで、何の感動も、興奮も示さなかった。が、その抱擁から引き離されて、女看守に手を取られて退廷する時、初めて人々は、彼女の口から洩れ出る長い低い啜泣きの声を聞いた。
アリゾナ州フロウレンスの州刑務所で、ウイニイ・ルウス・ジュッド――女囚第8811号――が、電気椅子に掛かったのは、今年の二月二十三日の星の寒い明方だった。アリゾナの沙漠に、粉雪の降っている朝だった。
「サミイが待っています。あたしはサミイの所へ行くんです」
彼女は、そう繰り返しながら、長い石の廊下を死刑室へ進んで行った。暗い扉《ドア》の前に、警官に守られて、最後の別れを告げに立っていた良人のジュッド医師には、ルウスは一瞥も与えずに静かにドアの中へ導かれて行った。
底本:「世界怪奇実話2[#「2」はローマ数字、1−13−22]」桃源社
1969(昭和44)年11月10日発行
入力:A子
校正:小林繁雄
2006年7月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全7ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧 逸馬 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング