食べていません。二時にもう一度病院へ出掛けて、受持ちの患者を見なければなりません。三時半に帰って来ます。夜の空気を吸うだけで、胸によくないんですけれど、夜勤はいやだなどと言ってはいられませんから――では、これから出掛けます。とても涼しくなりましたわ。早くお帰り下さいまし。でも、お発ちになった時と同じに汚ない家ですのよ。ですけど仕方がありませんわね。お金の詰った樽の二つ三つあるといいんですけど。ほんとに私達はぼろぼろの着物を着て、うす汚れていて、人が見たら吹き出したいように可笑しいでしょうけど、でも、二人で何時までも快活に、歌を歌ってこの人生を進みましょうね。
 あの陽気な節の「あなたと私と二人で肩を並べて」の歌を!
 二人は愛し合っているんですもの。
[#天から17字下げ]ルウスより
[#天から3字下げ]加州サンタ・モニカ十七丁目八二三番地
[#天から5字下げ]ウイリアム・C・ジュッド様


 これが兇行後間もなく良人へ書き送った「沙漠の女虎」ルウス・ジュッドの手紙なのだ。神経が太いというのか、何ていうのか、矢張り少し何うかしているように思う。が、原文には、一脈の哀愁が漂っているようで、変に人を打つものがあるのである。
 ルウスが良人を愛していて、二人の夫婦仲の好いことは、ジュッド氏の言う通りに相違なかった。八月十七日附の彼女の手紙なども、提出されて、この点は明瞭に裏づけられた。
 それは、若い女が恋人へ送るような手紙で、あなたの居ない生活は空虚だの、今はこの通り貧乏だが、いずれ私の力でよくして見せるだのと、書いてある。
「どうぞ本当に長く生きて下すって、いつものように私をからかって、一寸怒らしたり、馬に乗って野原に出たり、それから夜はお互いに読んだ小説を話しっこしましょう。あなたは私の生命の一部です。私に一番近いもの、というよりも、あなたは私自身なのです。
 静かにあなたの腕の中にいる――私にとってそれ以上の幸福はありません。あなたはお話しが上手で、そして、歌がお得意ですわね。あの、青い鳥の歌。そして一緒にドライヴに出ますの。それらはみんな私にとって大事なもので、その一つでも失うことを考えると、私は気が違いそうです。今この手紙を書いている私は、眼が涙で一杯で、タイプライタアが見えません。私は何も食べられませんし、ちっとも眠れませんし、何をすることも出来ません」
 ジュッド医師の言に依ると、ルウスはコカイン中毒者だったようでもある。それに悩んで、この悪癖から逃れるために、かなり苦しんで来たとのことだった。
「彼女をこの習慣から救うために、私は一生懸命でした。その点でも、彼女は私に感謝して、純真な愛を傾けて呉れたのです」暗然としてジュッド氏は口を結んだ。


 ジュッド氏の実妹のケリイ・ジュッドは、嫂《あによめ》の犯罪を聞いて、顛倒せんばかりに驚いて、「あり得べからざることだと思います。姉さん程、気持ちの平らな、感じの好い人は、この世の中に二人といない位いですのに――」
 このケリイに依れば、ルウスは又とない程美しい、青みがかった灰色の眼をして、睫毛と眉毛が長く、一種特徴のある魅力を備えているという、九年前にジュッド医師と結婚して、貧しいながら、実に仲の好い夫婦だったというのだ。


 このジュッド医師とケリイが訊問されている最中である。
 もう一つの恐ろしい発見が、矢張りロスアンゼルスの南太平洋鉄道停車場に於てなされた。
 ビュウラ・ベリイマンという掃除婦がある。
 夜行列車の発着も、ちょっと途絶えた深夜、帰宅の前に、婦人待合室を掃除していると、腰掛の蔭の床にスウツケイスと帽子函の遺留されてあるのが眼についた。確かではないが、その朝若い女が其処へ置いて、後から取りに来るからと言って出て行ったのだった。名札も附いていないし、頭文字《イニシャル》もないので、誰の荷物とも判定の下しようもないが、其処へ置き放しにする訳にもいかないので、掃除婦ベリイマンは、何心なく、そのスウツケイスの掛金に指を当ててみた。と、鍵が掛っていないで、ぱちんと、鍵が辷ったのである。いささかの好奇心も手伝って、ベリイマンがスウツケイスの蓋を開けて見ると――。

      4

 真っ赤なタオルに包んだ品物が押し込んである。怖ごわ開いた其のタオルの中から、ヘドウィッグ[#「ヘドウィッグ」は底本では「ヘッドウィッグ」]・サミュエルスンの身体の中央部が現れたのだ。二十五口径のコルトの自働|拳銃《ピストル》も緒にスウツケイスの底に発見された。
 翌早朝から捜査課長ジョセフ・F・テイラア氏が、自身ルウス・ジュッドの行方捜査に当ることになる。羅府《ロスアンゼルス》市内、若しくは同市を中心に十四、五哩の円を描いたその中に、ルウスはじっと息を潜めているものと捜査課は睨んだ。前日停車場の帰りに、弟のバアトン・マッキンネルの渡した五弗のほか、金を持っていないらしいという見込みは外れないところだが、万一を慮《おもんぱか》って、凡ゆる停車場、桟橋、飛行機発着場、バスの停車場、タクシの溜り、それらに厳重に見張りが立って、完全に飛ぶ機会を押えている。
 墨西哥国境へも手配が飛んで、徒歩で国境を破る警戒に備える。加州の犯罪者は、よく山伝いにメキシコへ逃げ込むからだ。殊にこのルウス・ジュッドは、かなり流暢に西班牙語を話すという。米墨の国境が臭いとは、捜査課員の頭にぴんと来た。同時に、ありとあらゆる発表機関を挙げて、この「女虎」の逮捕に協力せんことを一般民衆に依頼する。新聞紙は勿論、目抜きの通りのスカイサイン、ラジオ、それらはルウス・ジュッドの名で充満している。国道伝いに羅府に出入する自動車の凡べてに厳命が下って、途中歩いている女を認めたり、また、女で、乗車を乞うたりする者があったら、すぐ最寄の警察へ届出るようにというのだ。十七人の若い女が、南加州の各地で、ルウス・ジュッドに似ていると言うので逮捕され、身許保証がはっきりするまで留置されるという騒ぎ――何時ものことながら、亜米利加式にじゃんじゃん騒いだ光景が思いやられる。
 例によって警察は、悪戯《いたずら》や善意の投書で、まるで洪水のように悩まされたものだ。市内到るところから「好意ある市民」の電話が掛って来て、いま、ルウス・ジュッドと思われる婦人が家の前を歩いているだの、停留所で電車を待っているとのこと――まるで一個のルウス・ジュッドが同時に何箇処にも現れている有様で、警察は少からず困らせられた。が、出鱈目の中に一つの真実が混っていないとも限らない。間違いと知りつつ、その一つ一つを究極まで手繰って行く努力など、警察も斯うなると大抵ではない。
 その夜七時、アリゾナ州フォニックス市から、地方検事ロイド・アンドリウス、捜査課長ジョン・L・ブリンカホフ、刑事ハアレイ・ジョンスンの一行が、飛行機で来着した。すぐテイラア課長、ダヴィッドスン捜査係長とともに、署楼上の捜査会議に参加する。
 フォニックス市でも大騒ぎをしていると言うのだ。二人の犠牲者も、加害者のルウス・ジュッドも、人口四万五千のフォニックス市で、仲なか顔の売れている連中なのだ。医師の妻が友達の女を二人も殺して、そのうち一箇の屍体は、滅茶滅茶に暴虐を加え、二つともトランクへ詰めてロスアンゼルスへ送った――街上で、家庭で、事務所で、話しはこれで持切りだという。北二丁目二九二九番地の家の周囲には、田舎のことだが、物見高い。地方民で暇も多いのだろう、アリゾナ名物のカウボウイやなどが、わんわん詰めかけて来て、恐怖に口を開けて、小さなバンガロウを取り巻いている騒ぎ。焼大福や、稲荷ずしの屋台店が出て――そんなことはないが――サミイとアンは死ぬ日まで、その家に幸福に笑いさざめて暮していたのだった。
 ヘドウィッグ・サミュエルスンと、アグネス・アン・ルロイ夫人と――この二人の犠牲者の女のあいだには、異常な特殊関係があったというフォニックス警察側の報告である。サミイは約一年前に、アラスカのジュノウで、アン・ルロイに逢ったもので、当時サミイは、同地の小学校で教鞭を執っていたのだが、肺病が進んで悲観しているところへ、アン・ルロイの同情が、二人の仲を友情から同性愛にまで進めたのだった。よくあるやつで、ルロイは、年三十の健康な、自尊心の強い、男性的な女である。良人はあるが、良人とそりが合わなくて別居しているのだった。看護婦として、サミイに尽した親切が、五ツ年下の美しい女への愛と変って、相互に普通の男女間以上の切っても切れない気持ちへまで進展したことは、想像に難くない。このアンの薦めで、サミイは寒帯地方のアラスカを捨てて、沙漠を渡る風の涼しい、四季いつも秋のような、空気の好いアリゾナ州へ移ったのである。
 X光線係看護婦として、ロア・グルノウ記念療養院に働いているアン・ルロイは、仕事が済むと直ぐ、矢のように北二丁目の家へ帰って、まるで愛妻家の良人が、病める妻の世話をするように、料理から家事のすべては勿論、まめまめしくサミイの面倒を見る。サミイはアンの命令で、一日一杯寝床に就いているのだった。この、アンの献心的な愛には、サミイも深く感動して、アンのことを少しでも悪く言う者があると、狂気のように食って掛る有様だった。
 病院では、アンも男の識合いが少からずある。それらが頻繁に二人を訪れるのを、アンはすこしでもサミイの気が紛れるようにと、喜んで迎えていた。
 この話しを終った後、フォニックスの警察官一行は、ジュッド医師と、バアトン・マッキンネルを呼び出して貰って、別の立場から訊問を開始する。ジュッド医師は、すっかり打ちひしがれたようになっていて、その言うことは、前の陳述から一歩も出ず、
「私はあなた方以上に、家内を見つけ出し度いと一生懸命なんです」
 と繰り返す許りだった。
 バアトン・マッキンネルも、もう気が違ったようになっていて、矢鱈に部屋中を歩き廻るばかりで、何を訊かれても、返事も出来ない程だった。
 その夜晩く、ダヴィッドスン警部は、フォニックスの一行を案内し、ジュッド医師を連れて死体収容所を訪れた。ジュッド氏は一と眼見て、二つの屍体を識別した。
「サミイはいつも頬紅と口紅を濃くつけていましたので、ちょっと変って見えますが、これに相違ありません」
 羅府とフォニックスと両市の警官が力を合わせて、「アリゾナの女虎狩り」は、今や高潮に達している。
 美人で独身のヘドウィッグ[#「ヘドウィッグ」は底本では「ヘッドウィッグ」]・サミュエルスンは、北ダコタ州、ホワイト・アウスの農夫の娘で、一九二五年に州立マイノット女子師範学校を出たのち、同州ランダ市の小学校に奉職し、そこからモンタナ州、ホワイトホウル小学校へ移って二年後にアラスカのジュノウへ転職したのだった。其処で、このアン・ルロイに逢って、こうして凄惨な死を緒にするようになったのである。小柄な、色白の愛嬌のある顔立ちで、友達仲間に評判もよく、自宅に発見された手紙は、凡べてそれを証拠立てていた。言い寄る男なども、少からずあったようで、その中に、或る上院議員からの猛烈なラヴ・レタアのあったことは、ちょっと人々を驚かしたりした。
 斯ういう殺人事件の犠牲者は、よく刻明に日記をつけているものだと言われている。こんな事をいうと、日記をつける人がなくなるかも知れないが、サミイもその一人で、実に死の二日前まで、日記が続いているのだ。青い小さな日記帳――最後の日附は十月十五日で、こんなことが書いてある。
「人間は何うしてこう争ってばかりいるのだろう。それが嫌さに、私はこの沙漠の荒地に隠れたのだった」
 その年の六月六日の分には、
「修身甲の生徒。私はほんとにそれだ。子供の時分の肉体的影響と遺伝――メンデルの法則通りに私も動くのだ。快楽主義――これだけが人間の最後の目的なのだろうか」
 九月二十五日の頁《ペイジ》を見ると、ただ一行、
「今日で丁度、病床生活一年間」
 アグネス・アン・ルロイは、オレゴン州テラムウクの生れで、本名は、アグネス・イムラア。同州ポウトランド市、グ
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