在するものをいったん無に帰して、そのかわり、そこに全く新しい実在を築こうとする第一の着手だ。だから、ヤトラカン・サミ博士は、こころからふるえおののき、剃刀《かみそり》を遠ざけ、月光石《ムーン・ストン》を崇《あが》め、板っぺらの沓《くつ》をはき、白髪の髷《まげ》を水で湿し、手相見の紙着板を首にぶら下げ、大型移動椅子を万年住宅としてつつしんで、これに近づかなければならない。――
 ヤトラカン・サミ博士の耳へは、草木と、風雨と、鳥獣と、虫魚と、山河とが、四六時ちゅう邪魔神の秘密通信を自然の呼吸として吹き込んでいる。
 こんなぐあいに。
 印度の大地も、婆羅門の社祠《しゃし》も、学者たちの墓跡も、タミル族の民族精神も、女給に出ているその娘どもも、彼女らの美しい yoni も、いまはすっかり、じつにすっかり英吉利旦那《イギリスマスター》の「文明履物《かわぐつ》」によって、見るも無残に踏みにじられていることは、何とあっても吠陀《ヴェダ》のよろこびたまわぬところだ。ことに、豪快倨傲《ごうかいきょごう》の破壊神|邪魔《シヴァ》にとっては、一日も耐えられない汚辱に相違ない――が、この旦那《マスター》方は
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