た劇《はげ》しい呼吸が静まるまでには、しばらくの間があった。
「どうしたんだ?」と杉本がたずねた。
 そばにいた相棒の塚原義夫は、元木の頸に手をかけ、その顔を覗きこみながら断定するのだった。
「またお前、おっ母あに虐《いじ》められたんだな。お前えばかだい、ちえッ、学校休むやつがあるけえ――」それから彼は呪わしいことの一つ言葉を真顔でつぶやいた。「八幡さまにお前えは詛《のろ》われてんだぞ」
 元木武夫はまのびのした平べったい顔で、眼尻の下がった瞼をぱちくりさせていた。彼を取りまいた子供たちは、なぜかそれにひどく同感してふんふん頷《うなず》き、口の中で低く呟いていた。「そうだよ、そうだよ」と言って骨ばった塚原の手が元木の肩をおさえた。彼は軟かく二三度それを揺ぶって「お前はな、もうせん、八幡さまの池で、よ、ほら、亀の子を盗んだじゃねえか、え、そうだ、きっとお前そいで詛《のろ》われたんだ」「ちげえねえや」「おっかねえなあ」とそれが肯定されて行った。
「ば、ばか!」とたんに元木は叫んだ、「あたいは小僧い行くんが嫌《いや》なんだ、よう!」
 ほんのたった一日この子が欠席した間に、十二歳になった元木武夫の運命が旋回しようとしていた。それもかえっていいだろう――と思いながら、「あたいは小僧い行きたくねえだよう――」と言って腰を揺ぶられると、手に負えない子供であるが、杉本は行かせたくないと決めるのであった。義務教育だ――そう言ってそんなむごい両親を突っぱねねばならぬと考えた。元木武夫の両親は揉手《もみて》をしながら、やがて屋上にあらわれてきた。
「へへえ、これは先生さまあ……」顎のしゃくれた女房がお世辞笑いをして科《しな》をつくるのであった。「ちっとばかり御相談にあがりましたんだが……」と子供によく似た父親がそのあとを受けた。元木武夫は教師のかげに身体をかくしてしまった。すると父親の顔がぐっと向きなおった。「お前さんは――」と彼は杉本に喰ってかかった。「あっしの伜にとやかく口を入れる権利はあるめえ」「順序を立ててお話しなくっちゃあ何ぼ先生さまでもねえ、まあお前さん」女房はそう言って、ますます杉本にへばりついた子供に、じろりと凄い一瞥《いちべつ》をくれた。「まったく今日このごろはひでえ不景気でして、ねえ、へッ、子供と遊んでてたいした月給を貰えるけっこうなお身分には不景気は素通りでしょう、が、さ」すると親爺が一声合いの手を入れるのであった。「こちとらはやりきれねえだ!」
 話はまわりくどく、時々言葉のきれはしは風に吹さらわれるのであるが、日傭労働者の父親は一人でも口を減らさなければやって行けないと言い、継母はあんまりこの子も親の恩知らずだと高尚な理窟をこねた。二三年この方電気ブラン一杯もひっかけられないと言う親爺は、小僧にほしいというこんないい口を、武の奴めが嫌がるはずはねえ、聞いてみれば先生に相談しなきゃあと小生意気を言いだしやがった。…………………………………………………はねえんだと一日責めたらば、元木武夫は憤然とこれ、このように学校ににげこんできた。餓鬼のくせに驚き入った野郎だが、一体全体………………………があるもんかどうか――「聞かしてもらいてえもんだ。あっしにとっちゃ生きるか死ぬかの大問題なんだ」と親爺は胸を張って一あし詰めより、ちらりとその女房の顔色をうかがった。「どうしたもんでしょうかねえ、先生さまあ」と今度は女がきゅうに悲しそうに悄《しお》れてみせ、無精ひげに包まれた杉本をねっとり睨むのであった。杉本はぶるぶる身体がふるえてきた。手を変え品を変えして今はこの教師をうんと言わせさえすれば、万事うまく行くとしているその親たちに、彼の防備は役立ちそうにも見えなかった。しかし、顫えて自分の身体に抱き縋《すが》った元木武夫の腕には、だんだんと必死の力が籠ってきた。ひ弱い子供ながら、この乱暴な親に押し挫《ひし》がれずよくもここまで逃げてきてくれた。杉本はそう思い向きなおった。
「それで本人はどうだと言うんですか?」
「そこがそれ――」と女がすかさず答えた、「先生さまに納得させてもらいさえすれば……」
「あたいは、嫌《や》だぞ!」
 元木武夫のその声が夕風をさっと断ち切った。
 だが、その叫び声と同時に女は髪をふり乱した。「こ、この餓鬼い!」とうめいた、「手、手前はさっき、神様の前で、承知しましたと吐《ぬか》したじゃねえか、継母だと思って舐《な》めやがったなあ……こら、畜生ッ! 武!」ぐらっとひっくりかえりそうになった雲行きに、父親もまた喚きあげ「こん畜生ッ! 親を親とも思わねえのかあ――」その上父親は逆《のぼ》せあがって今は伜にとびかかり暴力をふるおうとした。元木武夫は冷いコンクリの上を逃げた。扁平足《へんぺいそく》のはだしが、吹きっさらしの屋上にばたッばたッと不気味な音を立てていた。見ていた子供たちはさっと道を開いて、「も、と、き――にげろやにげろ」「つかまんな!」と応援するのであった。

     五

 昇汞水《しょうこうすい》に手を浸しそれを叮嚀《ていねい》に拭いた学校医は、椅子にふんぞりかえるとその顎で子供を呼んだ。素っ裸の子供は見るからに身体を硬直させて医師の前に立った。彼はまず頭を一瞥して「白癬《はくせん》」と言った。それから胸をなでて「凸胸」下腹部をおさえてみると、低いがよく透る声で「ヘルニヤ」と病名を呼ばわった。側に控えていた看護婦が身体状況調査簿に万年筆をはしらせてすらすらと書きこんで行った。
「よし!」
 突きはなされた子供はほっとした微笑を浮べて、医師の前をとび退く。そして検査場の隅に脱ぎ棄てておいた自分の着衣を捜しだす、垢に汚れたシャツにはぼたんが一つもついていなかった。
 椅子から腰をあげた医師は、昇汞水に指を浸してゆっくり消毒しながら、後手を組んでつっ立っている校長に話しかけた。
「今の子の家庭は何でしょうかね?」
 校長は子供に混っている杉本をじろっと見て、「君い――そのう……」と訊ねた、「今の子のうちは何をしとるんかね?」
 ずたずたとなった三尺を捲きつけていたその子はふいにその手を停め、やぶにらみに受持教師の顔色をうかがっていた。杉本は「さあ――」と首をふって答えなかった。すると看護婦が気を利かしたつもりで、調査簿に書きこまれた家庭職業を報告した。
「金偏に芳――かんばしいの芳が書いてありますが、私には読めませんわ」
 そう言って彼女も白い顔をあげ、杉本の方を見て答を求めるのであった。
 子供はそんな風に自分の家のしがない職業を、多くの人の前で詮索されるのが嫌でたまらないのである。彼は俯向いていた。杉本は蹲《かが》んで子供の三尺をしっかり結んでやる。お前は教室に行ってよしと言って、その部屋から外へ出してやった。それから大人たちの好奇心を満たさねばならなかった。
「錺《かざり》の職人ですよ。つまり鳶人足なんですが、今ではごたぶんに洩れず半分は失業してると同じことで……」
 杉本はそう答えて、次の子供のシャツを脱ぐ手だすけにかかった。
 椅子にかえった医師は、尖った顔をぐいと引いてまた次の子供を呼ぶのであった。
「さ、次の番!」
 待ってましたとばかりに久慈恵介はすっぽり丸裸になり、元気よく医師の前に立った。
「※[#「耳+丁」、第3水準1−90−39]聹栓塞《ていでいせんそく》、アデノイド、帯溝胸――ふん!」医師は眼鏡を光らせて、はじめて感情をふくめたよろこびの声をあげた。
「おお、これはみごとな帯溝胸だ、ごらんなさい、どうです?」
 そばにいた看護婦は立ちあがってきたし、校長はたるんだ瞼を引きしめた。
「あたいん家はね、東京市の電気局だよ」と久慈は元気よく金切声をあげた。
 医師はその声を無視した。彼の興味は家庭の状況よりも、ほとんど畸型《きけい》に近い久慈恵介の胸にかかっていたのだ。彼はすかしてみたり、深さを測ってみたりした。そうしてますます感心し「ふうん――」と鼻を鳴らすのであった。
 順番を待っていた子供の中から、妬《や》っかんだ声が洩れてきた。
「久慈い――ちんちん、ごうごう、おあとが閊《つか》えています。久慈い――おあとが閊えているよ、早くかわんな」
 それを聞くと久慈恵介はきゅうに全身で真赤になった。彼はまだしきりに撫でている医師の手をふり払った。自分自身の体の醜さに気づき、それと父親の仕事が嘲られた口惜しさがいっしょくたになった。彼は素っ裸のまま声を立てて泣きだした。
 裸体になったとき、その子供たちの不幸が一度にさらけだされるのであった。しちむずかしい病名が、まっ黒になるほど書きあげられた。医師はそれによって今さらのごとく感心してみせた。「健全な精神は健全な肉体に宿る……昔の人はいいことを言ったもんですなあ、え? そうじゃありませんか?」すると校長もそれに答えるのである。「こんな不健全な身体では智能発達の劣るのもむりはありませんですな、いや、まったくもって家庭が悪い!」
 寒い日で子供たちの首筋には毛孔が立っていた。袴などはもちろんなかった。上履《うわばき》さえ買ってもらえない彼らは、床油を塗ったので、油がべとつく板の上をべたべた歩いた。さいわいに彼らは不幸に馴れきっていた。直接不愉快な場所を脱けだすとすぐにそれを忘れた。そして金切り声を天井にひびかしたり、でたらめな節まわしに口笛を吹きあげたりして、およそ無意味な騒音を立てながら自分の教室に雪崩《なだ》れこんで行った。
 白い壁が三方を立てこめているこの教室にはいると彼らは、何か自分の家に辿《たど》りついたような安心を覚え、鼻唄まじりに周囲を見まわすのであった。教卓に頬杖をついた杉本も、子供たちとお互の面をあらためて見合わせる――歯の抜けた痕《あと》のように、元木武夫の席が空いていた。無力な教師は、顔をしかめてぼんやりしていた。その顔を見て子供たちはことさらおどけ、眼を釣りあげたり歯をむいたりしてみせる。どうかして朗らかになりたいと子供たちも焦るのである。
「先生え――」ぽかっと、古沼に浮きあがった水泡のように、思いがけなく塚原義夫が立ちあがった。「先生え、修身、修身――また修身をやろうよ、よう!」
 すると、にたにたしながらすぐに喋りだす元木武夫はもういなかった。もったいぶってしゃしゃ張りだす例の久慈恵介は、先刻の衝げきがまだ彼の頭から完全に消えず、赤らんだ瞳をきょとんとさせているだけであった。涎を垂らしている子供、青っ洟《ぱな》を少しずつ舐めている子供、うしろにのけ反《ぞ》ったり、机にうつ伏せたり、脚を腰かけの横にぬーっと出してまるで倒れかかった自分の身体を危く支えたりしていた子供たちが、徐々にざわめきだした。一番うしろの机にいた大柄の子供が、突然「ふはあ――」と欠伸《あくび》をした。子供たちはいっせいにそちらを振り向いた。三つの年に脳膜炎を患《わずら》ったその子は、命だけは不思議に助かったが、いつも天井を見ていた。無類に模範的におとなしい彼は何を聞いても耳にはいらなかったし、何も言いたいことを持っていなかった。とうとう塚原は焦《じ》れて足を踏み鳴らした。
「先生――修身だってば、さ!」
 川上忠一が廊下側から立ちあがった。
「あたいが修身をしてやらあ」
「ちえっ、手前の話なんか聞きたかねえや」と目玉をひんむいた錺屋《かざりや》の子が叫んだ。
「やれ、やれ」と塚原は音頭を取った。「先生、邪魔になるからそこを退《ど》きな、川上が修身をやんだからさ、早く退きな」
 川上忠一は右肩をいからかして教卓の前に直立不動の姿勢をつくり、ぺこんと頭を低《さ》げた。それから薄い唇をぺちゃぺちゃと舐めてみんなを見まわした。
「あたいが三つの時のことなんだ、しんさい[#「しんさい」に傍点]があってさ、関東大震災でじゃんじゃん家が燃えちまってさ」
 しんさい――と聞いて子供たちの呟きがなぜか一時に停《とま》るのであった。何かこれら不幸な子供の胸底にひっそり潜在していたものが、その一語でぐらっとひっくりかえり、そのぶ気味さに当わくしたような沈黙で
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