白い壁
本庄陸男
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)癇癪《かんしゃく》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)十三坪何|勺《しゃく》か
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「耳+丁」、第3水準1−90−39]聹栓塞《ていでいせんそく》
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一
とうとう癇癪《かんしゃく》をおこしてしまった母親は、削《けず》りかけのコルクをいきなり畳に投げつけて「野郎ぉ……」と喚《わめ》くのであった。
「いめいめしいこの餓鬼《がき》やあ、何たら学校学校だ。この雨が見えねえか! 今日は休め!」
「あたいは学校い行くんだ」
富次は狭い台所ににげこんでそう口答えをした。しばらく彼はそこでごとごといわせていたが、やがて破れ障子の間からするりと出てきて蒼《あお》ぐろい顔をにやりとさせた――「なあおっ母《か》あ、お弁当があんのに休まれっかい、あたいは雨なんておっかなくねえや」
「ええっ! この地震っ子――」と母親は憎悪《ぞうお》をこめて呶鳴《どな》ってみたが、すぐにそれをあきらめて今度は嫌味をならべだした。親が子に向って――と思いながらも彼女は、言わずにいられないのである。
「んじゃあ富次、お前は学校の子になっちゃって二度と帰ってくんな」母親はおろおろしはじめた伜《せがれ》の汚い顔をじっと睨《にら》め「なあ富次、お前の小ぎたねえその面を見た日から、こんな苦労がおっかぶさってきたんだから……よお、帰らなくなりゃあ何ぼせいせいするもんだか!」
そう言われると子供は今までの勇気がたちまち挫《くじ》け、そこにきょとんとつっ立ってしまった。
雨が夜明けからどしゃ降りであることは知っていたが、その時刻が来ると同時に、子供は嫌な仕事をさっさと投げだした。朝っぱらからむり強いされるコルク削りの内職手伝いは、いい加減に子供の心をくさくささせた。そして富次は学校に行きたいと一図に考えるのであった。べつに勉強がしたいなどという殊勝《しゅしょう》な心ではなかった、ただこの陰気くさい長屋よりも、曠々《ひろびろ》とした学校が百層倍も居心地よかったのだ。年じゅう寝ている病気の父親と、コルク削りで死にもの狂いになっている母親の喧嘩には、たまらないと思う漠然とした気持で――しかし母親の剣幕が一番おそろしく、富次は紐《ひも》のちぎれた鞄を小脇にしっかり押え、こんな場合しかたなしに父親を視た。床の上に長くなっている父親は、いつか学校で見た磔《はりつけ》されるキリストみたいなひげ面で、眼ばかり異様に蒼光《あおび》からせていた。富次はぎょろりと動いたその眼にあわてて視線を壁に移した。するとそこには、医薬に頼れない病人が神仏に頼るならわしどおりに、不動明王の絵が貼りつけてあった。
「学校なんて行ったって――」と母親の言葉がきゅうにやさしくなった。「なあ富次、損しることはあっても一銭だって貰えるんじゃねえからよ、それよかお母あの仕事を手伝うもんだ、な、そしたらこんだ浅草へ連れてくからよ」
「小学校も出てねえじゃ、今時、小僧にも出られねえからよ」と父親が口を挾むのであった。富次はほっとして母親を視た。彼女はそっぽを向いてへんという風に鼻をしかめた。
「なあ、俺が丈夫になれば何とかしるからよ、子供に罪はねえんだし、学校にだけは出してやれよ」
「芝居みてえな口は聞き飽《あ》きたよ、え? お前さんも早く何とか片づくことだ」
母親はそう言って亭主を一瞥《いちべつ》し、富次に向っては一喝《いっかつ》した。
「さっさと行っちまえ、このいやな餓鬼やあ――」
柏原富次は右手に鞄を抱え、左手は傘の柄にからまして、しぶいている雨の中にとびだした。大通りは河になって流れていた。雨がっぱ[#「雨がっぱ」に傍点]にくるまった髯《ひげ》の交通巡査が、学校がよいの子供を自動車や電車から守り、子供たちの敬礼ににこにこしてみせた。
城砦型に建てられた鉄筋コンクリートの小学校は、雨の日はみごとに出水する下町の中で、いやに目立って聳《そび》えていた。この一帯は一昔前、震災でぺろり焼け頽《すた》れた。生き残った住民たちはあたふた舞い戻ったのであるが、彼らは前よりもいっそう危かしい家に住まねばならなかった。ただ小学校だけは――さすがに政府の仕事だけあって、じつに堂々とできあがった。たとえばそれは、こんな雨の日でも、子供たちの視力を傷めないためにその採光設備を誇ったりした。それで内部の壁という壁はまっ白く塗られていた。無数の子供らが今朝も喚《わめ》きあってこの建物に吸いこまれる。傘をふりまわしたり、ゴム引マントを敲《たた》きつけたり、――とにかく昇降口は彼らの叫喚に震《ふる》えるのであった。子供たちはそうすることがなぜか嬉しいのだ。しかし教員は反対にますます陰気な顔をしてこの騒ぎを看《み》ていた。朝っぱらから疲れきったように、ズボンのポケットに両手をつっ張ってぽかんとしていた。駈けこんできた子供はそれにぶっつかって、はっとする、そしてそこからきゅうにとりすまし白い壁の教室にのろのろはいって行くのであった。
この建物の直接的な管理は、いかに義務教育を効果あらしめたか――という責任とともに、すべて月俸二百円なりのそこの校長の肩にかかっていた。師範学校を出ただけの彼が長い年月かかって捷《か》ちえたこの地位は、彼の白髪をうすくし、つねに後手を組まなければ腕が曲って見える危険さえ伴う、それほどの努力の結果であった。それを思うと彼は肩が凝《こ》り荷が重いのである。だが彼もまた最後の望みにこの帝都有数の校長として、せめては最高俸二百四十円なりに辿《たど》りつきたい、それには何をさて措《お》いても――と彼は頭をふりふり考えるのであった――まず第一に校舎を清浄に生命のある限り保たねばならぬ。市会議員はいうまでもなく、教育畑の視学でさえ最初に気づくのはこの校舎である、そしてあとで、しかも楯の両面のごとく教育上の新施設を器用に取り入れること――。校長は生徒を集める朝礼には決ってそれを訓諭した。
「皆さん、皆さんは先生の言いつけをまことによく守るよい生徒であり、またよい日本人でありますぞ。そこで日本の国をよくしようとする皆さんは、忘れずにこの学校をよくしようとします。この学校はたいへん綺麗《きれい》だと賞《ほ》められる――嬉《うれ》しいですね、それは皆さんが一生懸命に掃除をするからだ、掃除の好きなよい生徒がこんなにたくさんいるんですからには、いいですか? この学校が建った時よりもかえってますます綺麗になるわけでしょう? わかりますなあ……おお、わかった人は手をあげなさい」講堂にあふれている子供たちの手がいっせいに彼らの頭上に揺めきだした。校長は眼尻の皺《しわ》を深めてそっと周囲の壁を一瞥《いちべつ》する。子供たちの顔もそれにつれて素早《すば》やく一廻転する。その時老朽に近いこの校長は、たあいもなく満足の微笑を見せ、ひときわ声を高くして「よろしい――」と叫んだ。
「それでは皆さん、手を下して、よし……」
「しかし――」と校長は教員室の前で立ち停《どま》った。陰気くさくぞろぞろ歩いていた教員たちははっとして校長の顔を見かえる。すると彼はちょこちょこと杉本に追いついて君――とその肩をたたいた。「君の組は特別に注意してくれんと困るわい、手だけは人真似にはいはいとあげとったが、どだい君の受け持っとる低能組はわしの話を聞いとりゃせなんだ」
午前九時かっきりになると、昇降口の扉はたった一枚だけをくぐり[#「くぐり」に傍点]のように半びらきにして、あとは全部使丁の手で閉じられてしまった。おくれかけた子供は恐怖の色を浮べてとびこんできた。柏原富次は鞄と傘と、緒《お》の切れた泥下駄をいっしょくたに胸にかかえていた。泥だらけのたたき[#「たたき」に傍点]を水洗いしていた使丁がいまいましげに舌打ちしてそれに呶鳴りつけた、「ばか野郎……そ、その泥足は何でえ……」ぴくりと富次は驚くのであるが、その時彼はえり頸を掴まえられてすでに足洗い場に運ばれていた。「それ、それ――」と使丁はがなりつける。「まだ踵《かがと》にいっぺえくっついてるじゃねえか――何だ、手前の脚は? 月に一ぺんぐらいはお湯にへえってんのか?」
「あたいはね、今日ね、お弁当を持ってきたんだよ」と富次は胸にたたみきれない喜びを露骨にあらわして、平然と使丁に話しかけた。「うそだと思うんだら、見せてやろうか? え?」
図体の大きな使丁は、子供を荷物のように造作なく上り口に運びそこに立っている受持教師にそっぽを向いて話しかけた。
「いやはや、杉本さん、呆れけえった子供ですねえ――この餓鬼あ……」
杉本は生温い両方の掌で、冷えた富次の頬を挾んだ。子供は上眼づかいに恐る恐るそれを見あげる。それを見あげる尖《とが》った顎から頬にかけてまっ黒い鬚がかぶさり、眼鏡の奥で黒い瞳が見つめていた。富次はようやくそれが自分の受持教師であることに気づいた。すると彼は紫色の歯ぐきを出してにこりと笑い、さっそく喋《しゃべ》りだした。
「あたいはね、先生――お弁当持ってきたよ、あたいん家《ち》ではね、昨日……だか何日だか、区役所からこんなにお米を買ってきてさ、そいでねえ、ねえ先生――」
「そうか――」と杉本は答え、まだまだ何か話したげな子供を促して階段を登るのであった。
「またあとで聞くからな、みんなが教室で待ちくたびれてんだろうよ」
そんな単純な喜びを全身に感じてじっとしていられないような子供を、四十名近く杉本は受け持っていた。尋常四年生にもなって――だからそれは教育上の新施設として低能児学級に編制されたのである。彼らもまたせめては普通児なみの成績に近よらせたいために、それからそれがだめならば可能な限り職業教育を受けさせたいために――それはいい、けれども選りわけられたこの一群は邪魔なもの、不必要なものとして刻印を受けるにすぎないのではないか、あるいは収拾できないものを収拾させようとしてじつは…………………ぶち毀《こわ》そうと目論《もくろ》まれたのではないか――杉本は何とかしてこの子供たちも人並みにしたいと奮闘した、ここ数カ月のむだな努力を痛々しく思いだしてぶるんと頭をふりまわした。
杉本は何も特別に低能教育の抱負や手腕を持っていたわけではなかった。彼にとってその仕事は偶然のようにあたえられた。誰だって楽な仕事の上で自分の成績をあげたいに決っている。だから学年始めが近づくと……………………………こそこそ校長の私宅を訪れた。そんな行動はおくび[#「おくび」に傍点]にも出さず、日が来ると彼らは受持学級ふり当ての発表を聞かされるのであった。この決定に異論を申したてることは許されませんぞ――と、教員の咽喉笛《のどぶえ》をにぎっている校長が高飛車に申し渡し、――というのは――と一言註釈をつける――これは私の権限に属することでありまして私としては日常平素、諸君から受ける種々なる特質と、それぞれの学級の特質とを充分慎重に考慮研究した上の決定であります。――学問をしたい、そうしたならばと一図《いちず》に思い詰めた少年の杉本がいた、官費の師範学校でさえも[#「さえも」に傍点](彼はそのさえも[#「さえも」に傍点]に力を入れて考える)知人の好意に泣き縋《すが》らねばならぬ家庭であった。喘息病《ぜんそくや》みの父親と二人の小さな妹、それらの生活が母親だけにかかっていた。仕事といわれるかどうか知らないが、母親は早朝からのふき豆売り、そして夕方はうどんの玉を商《あきな》った。手拭をかぶった小柄の女が、汚れた手車をひき、鈴をならして露地から露地に消えて行く。――そんな家に大きくなった杉本は、時たまの弁当に有頂天《うちょうてん》のよろこびを語るこの子供が、ひりひりと胸にひびいてきた。今になって杉本は、この低能組の受持に恰好した自分を発見した。すると発育不全の富次が自分の肉体の一部分みたいにいとおしくなり、
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