濡れた着物のままぐいと脇の下にひきよせて二階三階と駈けあがるのであった。

     二

 月曜朝の第一時間目には、どの教室にもいちように修身科がおかれていた。びっしり詰った十三坪何|勺《しゃく》かの四角な教室からは、たからかな教育勅語の斉唱が廊下に溢れでた。躾《しつけ》のいい組と言われている子供たちの声が、いたって単調なリズムを刻みながらそれを繰りかえした――
 しかし、三階のとっつきにある杉本の教室は盲《めくら》めっぽうな騒音に湧きかえっていた。彼らは教師が現われてもいっこう平気であった。机の上では箒《ほうき》を構えた小さな剣士が、さあ来いと眼玉をむき、大河内伝次郎だぞ、さあさあさあ、と八方を睨みまわした。「やい手前、斬られたのにどうして死なねえんだ」と机の上の大河内は足をふみ鳴らしていきなり下にいる子供を殴りつけた。「痛えッ!」「痛かったら死ね、死んだ真似《まね》でもしろ」「何にいッ」と捕手《とりて》が机の上に跳ねあがって大河内を追っかけはじめた。塗板の下に集まった一かたまりは、べい[#「べい」に傍点]独楽《ごま》一つのために殴り合いをはじめ、塗板拭きがけしとばされると同時に、濛々《もうもう》たる白墨の粉の煙幕を立てていた。
 教室のうしろ側にもぞもぞしていた年かさの子供たちが、教師の前ではどうしなければならぬかをようやく思いだすのであった。彼らはまず習慣的に「叱《し》っ、叱《し》っ」と口を鳴らし、はては「ばか野郎ッ」とどなって警告した。「先生が来てんぞ、先生が……」その警告によって児童はやっと教師の存在をみとめ、それがそうなっているのだったらしかたがないという風にのろのろ自分の席に戻った。それから長いことかかって教室が変に静まる、すると子供たちは杉本の顔を見つめてにたにた笑いだした。
「先生――修身だあ」とひとりの子供が突然一声叫んだ。
 杉本は教卓のそばに椅子を寄らせて、顎杖をつき、ひとわたり子供を見わたした。窓は豊富に仕切られ白い壁は光線に反射しているのであるから、子供たちのさまざまな顔はがらん洞に明るすぎ、かえって重苦しく重なっているのだった。口を開けっ放しにして天井《てんじょう》ばかり見ているもの、眼をしかめたり閉じたりぐるぐるまわしたりしているもの、洟汁《はな》を絶えず舌の先で啜《すす》っているもの――いちおうは正面を向いて、何か教師の言いだすことを待ち設《もう》けている恰好はしていたが、じつのところそれは何年かの学校生活で養われた一つの習慣であった。低能児はそれにふさわしくぽかんとそうしている。教師もまたぽかんとして子供の顔を一眸におさめていた。
「先生――」と思いだしてまた一人が叫ぶのであった。「さ、早く修身をやろうよ、先生……」
「よろしい、では修身!」
 それを聞くと子供たちはがたがた机の蓋《ふた》を鳴らした。彼らは薄っぺらなその教科書をひきずりだす。そして中には足をふみならして何か喜ばしそうに、修身だあ修身だあと節をつけたり口笛を吹いたりした。
 杉本は教案簿をぱたりと開く、とそこには、勤勉という題下に三井某の灯心行商がこまごまと書きこまれてあり、「きんべんは成功のもとい」という格言まで書きこまれてあった。杉本は前の日いろいろな参考書を検《しら》べてその教材を準備した。だが今、こんながらん洞の子供の顔を視て彼はしだいにその努力が情なくなり、最後には…………………………、教案簿を閉じてしまう。すると一人の子供がにょっきり棒立ちになった。
「先生!」と彼は叫んで股倉《またぐら》を押えた。「おしっこ、よう、ちえっちえっちえ……まかれてしまうよう!」
 一人の子供の尿意がたちまちすべての子供に感染した。「先生あたいも」「あっ、まけそうだ」「やらせなきゃあ垂れ流しちまうから」「あたいもだあ」そう口々に連呼しながら彼らは廊下に駈けだした。もはや成り行きに委《まか》せるよりほかはなかった。杉本の耳はがんがん遠くなり咽喉はかすれた。彼はぼんやりつっ立っていた。
 図体の大きい使丁が物音に駭《おどろ》いて凄い剣幕を見せながら跳びこんでくる、彼は気短かに呶鳴り続けた。この教室の騒々《そうぞう》しさがコンクリートの壁をとおして他の課業を妨害《ぼうがい》するというのである。がなっていた使丁は、自分の声に駭いてきゅうに静まった教室を見まわし、ちょっと気まずげに言い足した――「何ですぜ杉本さん、校長さんが湯気をたててんだからねえ――」
 杉本はその間に、やっぱり今日の修身も講談にしようと決心した。修身修身と言ってよろこぶ子供たちもまた、それによって「あとはこの次に」なっていた講談を思い浮べていた。
「先生――大久保彦ぜえ門!」と子供が催促した。「よし、彦左衛門」と杉本は答える。それを合図に子供たちはいずまいを正し、ごくりと唾をのみこむ音が聞えるのであった。教師はもうやけくそ[#「やけくそ」に傍点]になって御前試合の一くさりに手ぶり身ぶりまで加える。その最高潮に達したところで、席の真中にいた一人の子供が、ふたたびぴょこんと立ちあがった。
「先生え……ちょ、ちょっ、ちょっと」
「何んだ? 元木――」
 しかし元木武夫はもう自分の席からとびだしてきて、ぬうっと教師の鼻の下につっ立つのであった。そうしたとっぴな行動に杉本は馴れきっていた。彼は元木を無視してさらに話をつづけだした。所在なくなったその子供は教卓に凭《もた》れかかった。そこからしばらく、がくがくと動いている教師の顎を眺め、眺めているうちに彼のだらしない唇のすみからは涎《よだれ》が垂れ落ちた。元木武夫は首をおとした。そして教卓にたまった涎の海に指をつっこみでたらめな絵を描き、その絵がまだ描きあがらぬうちにはたと自分の疑問に思い当った。もはや矢も楯もたまらなくなるのであった。「先生!」とひときわ高らかに叫んで教師の腰にぱっとしがみついた。元木は「大久保彦ぜえ門のお内儀さんは意地悪るばばあだったのかい」と一気に叫びつづけ、「ようよう、よう」とその腰骨を揺ぶるのであった。とたんに杉本は一足身体を退き子供のまじめくさった質問を避けようとした。すると元木武夫はくわっと逆上し、どがんと教師の股倉《またぐら》めがけて殴りつけてきた。
「よう――先生ッ!」
 ふいを喰った杉本は、腰を曲げて両手に股倉を蔽い、瞬間とまった呼吸を呼び戻そうとした。そのおかしな恰好に元木武夫はまたもや自分の質問を忘れ、眼尻を下げてひとりげらげら笑いつづけていた。
 教室が珍らしくしーんと静まるのであった。四十の並んだ顔が、今はこの話に異常な興味をそそられていた。杉本は自分の不ざまな恰好に気がついて子供たちを見まわした。が彼らの顔つきは、ただこの教師から出る返答を求めているにすぎなかった。杉本は恥しさに顔が火照《ほて》ってきた。奇妙な性格の元木武夫にぽかんと浮んだであろう大久保彦左衛門の女房が、何かものわかりの鈍いとされている児童の心をひどく打ったのである。劇《はげ》しく光る四十対の瞳に射すくめられて、解答をあたええない教師の顔はやがてしだいに蒼ざめてきた。すると元木武夫は、堰《せき》を突然断つようにげらげらまた笑いはじめる。教室の緊張がどっと破れてしまった。その騒音に包まれて杉本は、なぜかほっと胸の閊《つか》えを吐きだすのであった。
 窓ぎわにいた塚原が今度は立ちあがった。年じゅうきょろきょろしている彼は、「注意散漫」という特性が刻印されていた。だが彼はその時、瞬間的な義憤に口から泡をとばして元木武夫に喰ってかかった。
「元木のばか野郎――大久保彦ぜえもんにお内儀さんなんどいるもんけえ、すっこんでろ、やい元木!」それだけ喚きとばした塚原の注意は、次の瞬間さっと窓外の雨に向き替っていた。梧桐《あおぎり》の広葉が眼の下に見え、灰色にくすんだ運動場は雨の底にしぶいていた。そしてふたたび教師にその眼を移したのであるが、その時、塚原義夫のきょとんとした黒い瞳には珍らしく泪《なみだ》が浮んでいるのであった。
「先生え、あたいん家《ち》にはね、あたいの父《ちゃん》にはお内儀さんがいねえんだよ」
「ば、ば、ばかだなあ――お前」と元木が教師の下から喚いて両手を自分の鼻先に泳がし劇《はげ》しく否定した。「ばかッ! あたいん家のお内儀さんなんて鬼婆あだい。塚原あ――大人《おとな》はみんなお内儀さんがあってな、そんでお前大人は、な、お内儀さんばっか可愛がってんだぞお……」
 塚原は自分の瞼をぐいと操りあげ「野郎――」と罵《ののし》りかえした、「八幡さまに手前のことを呪ってやるから、おぼえてろお…………」
 順序も連絡もなくその子供らの考はぷくぷくと浮びあがった。しかしそのおそろしくばかげた喚きの底には、彼らの生活がのぞいていた。だから低能児なんだと言うが、杉本は彼らと暮しているうちに泡の底が見透けてきて「止めろ、止めないか!」と強圧することができないのだ。もしこの時廊下側の座席から久慈恵介が持ち前の金切声をふり絞って、「うるせえ、止めやがれ!」と飛びださなければ、二人の子供は殴り合いを初めそうにいきまきだしたのである。珍らしく小ざっぱりした小倉服の久慈は、かあいい眼をくりくり動かして「あのねえ――先生え」とつづけるのであった。「あのね、先生、元木の奴はね、あのね、壁いっぱいに変な絵を書きちらしました。あたいんちの………………だなんて言って、そいでもってさっきも塚原と喧嘩をしたんですよ、元木の奴は……」
 すると子供たちの眼は靡《なび》くようにいっせいに久慈を見つめた。彼はそういう風に注目されることが嬉しかった。傲然《ごうぜん》と反《そ》り身になって重々しく身体を後に向かせ、背後の白い壁をじっと指さして示した。
「ほーらねえ? 見えるだろう? 赤鉛ぺつ[#「ぺつ」に傍点]で書いてさ、ほーら、見えるだろう、ほーら」
 杉本はその指に導かれてのそりのそり壁に近づくのであった。近づくにしたがってその楽書はしだいにはっきりしてきた。まったくその絵が絵として眼に映ると、彼の背筋がきゅうにぞくぞく粟立《あわだ》ってきた。なぜか恐ろしさと恥しさとに打たれて、彼は棒立ちになった。子供たちもまた緊張して声をのんだ。彼らは咄嗟《とっさ》にこの壁がどんなに大切なものであるかを思いだした。不機嫌に蒼ざめたこの教師が、壁を汚したことによってどんなに怒り猛るかしれないと思うのであった。すると何年かの間学校生活を余儀なくされた子供たちは、得体の知れない恐怖を描いて硬直してしまった。しかし杉本は反対に今は泣きたくなったのだ。「元木――」と彼は壁に面したまま子供を呼んだ。「お前はたいした凄い画描きさんだなあ、それだのにどうして学校の図画は……」そう言いかけて彼は咽喉がつまってしまった。楽書は赤鉛筆の心を舐《な》め舐め書かれた……であった。悲壮な顔をした男の脛には…………………さえ植えられていた。おずおずと教師に近づいた元木は、「おい、お前は!」と叫んで、がっちと自分の肩を押えた杉本を見あげるのであった。彼は教師の顔色からそれが怒りだす気持でないのを敏感に見て取ると、「先生――あたいは画がうまいだろう?」と言い放った。杉本は唇を噛んでまるで歔唏《すすりな》きを堪えるような顔をした。すると元木は教師の腕をとらえて「先生、あたいの絵よくできてんのかい?」とまた催促した。しかし杉本は急《いそ》がしく瞬きしながら言うのである。
「はやく消さなきゃ、元木、校長先生にどやされるぞ」
 それを聞くと彼は「や!」と叫んでとび上った。「いけねえ――あ、いけねえ!」
 たった一人のその声で教室じゅうが一時にざわめきだした。いけねえと気づいた時、彼らの頭にも反射的に消さねばならぬことが浮んだ。そう思うと彼らは一刻もじっと耐えることができなかった。白墨をこすりつけてみた、雑巾を一なで撫《な》でまわした子は泣きだした。二三人の子はばけつの尻を鳴らして水汲みに駈けだした。
 厚いコンクリートの壁を揺ぶって、この騒音はふたたび全校舎にとどろいた。しかしここでは全員が一生懸命なのである。
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