あった。杉本は窓の外に身体を外《そ》らして雲のすっとんでいる怪しいこの空模様が川上忠一にこんな話題を憶《おも》い起さしたのか、それとも年に一度の身体検査にひねくりまわされた彼らの皮膚の、いやな感覚がそうさせたものかと思い、話手の顔を見なおした。白眼を剥《む》いて天井の一角を睨まえている川上忠一の尖った顔には深い隈が刻まれていた。しばらくそうやっていて、そして彼はやっと、これから喋ろうとする状景を再現した。彼は歯ぐきをむきだしてにたりと笑った。
「あのね、そん時あたいのもとのあげ羽丸も焼けちゃった。あたいは死にもの狂いで河にとびこんだ。深川は危ぶねえってんで、ほら知ってんだろう? 東清倉庫に避難したんだよ。あそこは石だから燃えねえや。そいでもっていっぱい人が逃げてきてよ、あたいはそん時おっ母がいたんだぞ。お前東清倉庫は八幡様の縁日よか人がうじゃうじゃしたんだよ」川上はふいと口を噤《つぐ》みまた天井を睨んで次の記憶を思い描きだした。聞いている子供たちは下手な話手の言葉から、もはや遺伝になっているその凄惨な状景を描き、脅《おび》えることに満足していた。「日本刀を持ったおっかねえ人がお前え、…………………だなって、こうだ」川上はさっと一太刀浴せかける恰好を見せた。「そいからこんなでっかい針金でもってね、………………………………………………、……………………………………………………」しかし、その時の手ぶりは途中でわなわなふるえだし彼は蒼ざめて自分から溜息をついてしまった。「ああ、おっかねえ――」
「手前、見てたのか?」と塚原がせきこんだ。
「見てたとも――」川上はそう答えて、はずむ呼吸を抑え、傲然《ごうぜん》といい放った。「あたいはそん時三つだったんだ!」
「そ、そいから? そいからどうした?」
「そいからお前、大河に………………………………」
「死んだんだなあ――」がっくり首を落しいま一人の子が痛々しそうに呟いた。川上忠一はそれには見向きもせず、今はその話に自分から夢中になってきた。
「手前も……だろう――って言われた時にゃあ、あたいも肝《きも》っ玉がふっとんじゃったぞ。活動写真たあまるっきり違うんだからな」
窓側の一番前にいるさい槌頭[#「さい槌頭」に傍点]の阿部が、その時がたがた立ちあがり、当てずっぽうに杉本を呼ぶのであった。
「先生え? 先生!」
「うるせえ、すっこんでろう――阿部!」
話にわくわくしていた塚原が、半畳《はんじょう》を入れた阿部にがなりつけた。彼はとびだして行くが早いか、その小さな子供をつき倒した。
「頭でっかち、すっこんでろ!」そう大喝して、くるっと川上に向きなおりはげしく促した。「そいで……そいで、それからどうした?」
ところが倒された阿部はむっくり起きなおって、じろじろ教室じゅうを見わたした。彼は後の方の机にちょこんと腰を下している杉本を発見した。阿部はぽんと跳ねあがり盲《めくら》めっぽうの迅《はや》さで杉本の頭に抱きついた。
「先生、先生ッ! 大変だ、柏原が、うんこを洩らしちゃった、うんこ――」
杉本がようやく腰をあげると、阿部は拍子をとって床を踏みならし、節おもしろく叫ぶのであった。
「あ、うんこだ、うんこだ、柏原うんこだ」
みんな一度にがたがた立ちあがった時、塚原義夫が川上忠一を殴りつけていた。
「やい、手前嘘を吐《つ》け! あたいのおっ母はおっ潰されたんだぞ、やい!」
「杉本さん、あんまりだらしがなさすぎますぜ、尋常四年生じゃねえんですか、そりゃ掃除をしろと命令されりゃあ掃除もしましょう、しかし何しろ――」そう言って例の使丁は銜《くわ》えた煙管《きせる》を取ろうともしなかった。「わしらあこうしていても手は塞《ふさ》がっているんだ、区役所から校長さんのお客様が見えられるはずだし……」
「そうかい、じゃ僕が片づけよう」
杉本は塵取に灰を掬《すく》い、雑巾とばけつをさげて小使室から三階にあがるのであった。
子供たちは、汚れない机を片づけてしまった。白墨で大きな輪を描いていた。その輪の中心に不覚にも洩らしてしまった柏原富次が、先刻のままじっと腰かけていた。
「今日はこれでおしまいだ、帰りたいものはしずかに帰んなよ」
だが教師のその言葉に一人として動きだすものはなかった。子供たちは土俵のような円い白墨の輪を取り囲んで、床の上に蹲っていた。行儀よく片唾《かたず》をのんで、仲間の不幸をいたむように口も利かずに坐っていた。
杉本は富次の身体を腰から立たしてやった。「腹をこわしてたんだなあ――さあ、とにかくその着物を脱《ぬ》いで……どら、こっちに来な、あんまり大食いをした罰かな?」
「ちがうよ――」柏原は動かされるままになりながら、一言否定するのであった。「あたいはしんさい[#「しんさい」に傍点]が怖《おっ》かなかったんだよ」
発育不全の柏原富次は、日蔭の草みたいによろけて杉本の肩を捉えた。彼は教師の温かい頸筋に、臭い彼の鼻加多児《びカタル》のいきを押しつけた。そして汚れた尻から腿《もも》を拭いてもらい、何か肉体的な幸福をぽっと面に漲《みなぎ》らし低い声で話しだした。
「あたいん家《ち》はね、震災に焼けっちまったんだとさ、お店だったんだって――おっ母さんがね、そん時びっくりした拍子に、あたいを産《う》んじゃったんだって――だからあたいは地震っ子て呼ばれてらあ」富次はそう言いながら、いつの間にかその細い腕を教師の頸に捲きつけていた。そしてその眼は埃っぽい教室の白い壁に注ぎ、そこにあわれな未来を描きだして喋りつづけた。「ね、父ちゃんが死んじゃったら、おっ母ちゃんは、肺病やみじゃないまた別の父ちゃんを捜すんだってさ、そいからまたお店を出して……お店をね、ああらら……」富次はきゅうに声を低め杉本の耳に口を寄せた。
「校長先生がはいってきたよ、あらら……やんなっちまうあ」
底本:「日本文学全集 88 名作集(三)」集英社
1970(昭和45)年1月25日発行
※伏字と思われる箇所が「…」で表されています。これは底本通りです。
入力:土屋隆
校正:林幸雄
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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