不良品として選びわけられ、今は彼に預けられた、低能な子供たちの住む「この社会」とは、同じ「この社会」でも社会の質が異っていた。そっちの社会で要求している……川上忠一も素気なく拒否したのだ。そうして彼は抗議する――何だってそんな巡査みたいなことを訊くんだい? 杉本は自嘲的に自分の職業を三つの単語で合唱する――「べからず、いけない、なりません」そいつにぐわんと抗議して川上忠一は教室をとびだして行った。一本お面を喰ってふらふらとまいった杉本は、…………………………、「…………、…………!」と叫びたい気持になってきた。杉本はうす闇の中でにやり歯を出して笑い、さておもむろに腰をあげた。すると、朝の八時からこんな日の暮れまでいらだてつづけていた神経が一度に崩れ、身体がくたくたに疲れているのを発見した。その杉本を、図体の大きな使丁がこれもいらいらしながら捜しあてたのであった。
「杉本さん、大変だぜ」と使丁がどなった。
「横着な面をするない」と杉本もどなりかえしていた。
 昇降口に仁王立ちになっていた使丁はむっとした。帰り仕度をしてしまった杉本も、それを見ていっそうむっとした。年がら年じゅうこづきまわされている彼らは、これだけは自分の自由意志だと思いこんだものがぐわんと阻《はば》まれるその刹那に、想像できないほどの敵愾心《てきがいしん》を煽《あお》られるのであった。こんな平教員に舐《な》められるものかという風に使丁は明らかに冷笑を浮べて、「へへえ……これだよ杉本さん」と自分の首筋をたたいてみせた。「子供が紛失してお前さん、親爺さんが泣きこんできてらあ」
「なにいッ?」と杉本は棒立ちになった。
「お前さん子供がどうだっていいと言うならば、校長さんに話さにゃならんが……」
「いや――」と杉本は使丁を停め「俺が捜してみせる」と呶鳴った。そして小使室に駈けこんだが、彼は自分のその行動がきゅうに忌々《いまいま》しくなってそこから振りかえりざま声を荒くした。
「か、勝手にしろ」
 だが、小使室にしょんぼりしていた川上忠一の父親は、一ぺんに神経を取り戻して「先生さまあ――」と悲鳴をあげた。「あとにも先にもたった一人の伜でがして、なあ、先生さまあ……」
 彼はそう言って、胸に漲《みなぎ》っていた心痛のはけ口を杉本に向け、潮くさい身体をやたらに折り曲げるのであった。
 学校の門を出てからの子供が、それぞれの家に辿《たど》り着くまでの責任はやっぱり教師にあるというのであった。しかし今日の責任は、いやがるその子供を日没まで引き止めていただけに、杉本はいても立ってもいられぬようにそわそわした。「先生さまあ――」とその父親はもう子供がなくなったように口説きつづけた。「あの野郎は親思いで今日まで一ぺんも心配かけたことはねえのに、はあ、今日という今日はどうしたことでしたか……」
 街はすっかり暮れていた。二人は肩を並べて歩いた。親父は行き交う子供の顔をいちいちのぞきこみながら、いなくなっては生き甲斐もないという大切な子供について、語り止まなかった。
「あっしらは船の商売で――だもんで、永代橋さ戻ってみたらば野郎の姿が見えねえ。はて、らんかん[#「らんかん」に傍点]の下にでも蹲《かが》んでるかと、あの長え橋を三べんとこ往復しやした。三時の約束でしたが、ああ、久しぶりに仕事にありついたばっかしに、ちっとばかり慾を出して、つまり天罰ちもんでしょうか?」浅野セメントから新大橋をわたり、船頭はも一度芝浦まで歩こうと言うのであった。「まず交番に届けておこうではないか?」という杉本を彼は手をふって否定し、「交番ちものは――」と説明した。「あっしら風情には、つまり性に合わねえもんで」それでは永代橋から電車に乗ろうという杉本に今度は懇願した。「野郎も毎日歩いてるでがす、今日はひやく[#「ひやく」に傍点]も持ってねえから野郎も歩いたでがしょう。見落しちゃっちゃ可愛そうでがすからなあ」そして、橋という橋にさしかかると親爺の歩調はきゅうにのろくなり、そこえらの溝水に纜《もや》っている船を注意ぶかく覗きこむのであった。しばらくうろうろして、そこで影さえ見あたらぬのを知ると、親爺は得態の知れない都会の底にあがいている伜を思い描き、腹の底から溜息を絞った。銀座では人間の河が舗道を洗っていた。その人波に逆って行く二人はいつの間にかぴたり身体を寄せ合っていた。「先生さまあ――」と親爺は行き交う人間の顔に眼を光らせながら、なおも語りつづけた。「忠の野郎ははきはき勉学してますかね? はあ、今日様《こんにちさま》を生きるにゃあ学ほど大切なものはねえ、あっしもせめては発動機の運転手になりてえもんだと、そうっ――と、都合十六ぺんがとこは試験を受けやしたが、はっはっは……学がねえものはだめの皮よ。あっしゃ決心したんだ! 忠の野郎はたとえ水を飲んでも学校さあげねばなんねえ、と、ね? よろしく頼みますで先生さま、ああ、えらく立派な人ばかし歩いてるが、こんな人はさぞや学があんでしょうなあ――先生様あ?」
 ゴー・ストップに遮られた親爺は、淀んだ人混みの中であるのもかまわず、「ああ学さえあれば!」と絶望的にたからかな叫び声をあげ、めちゃくちゃに明滅しているネオンサインのあくどい光が、痩せた船頭の顔を異様に彩色するのであった。

     四

 不仕合《ふしあ》わせに育った子供の一人である塚原義夫を、ちっとばかり幸福にしてやるために――つまりは彼の特質である哀しい注意散漫を削ってやるための一つは、○・五しかない視力を近眼鏡で補ってやることであった。その子のためにこれくらいのことは当然だろう――と教師は決心しそれから父親宛に手紙を書くのである。「御子供さんの勉強が一段と進むことは、まったく火を見るよりも明らかなことで、義夫君も大よろこびをしていますから――」だがその日のうちに、その父親はおそろしく達者な巻舌で、湯気を立てながら我鳴りこんできた。
「べらぼうめえ、そんなお銭《あし》がころがってたらば、だなあ――こちとら親子がな、おい、先生! 三日がところお飯《まんま》にありつけようというもんだ。こんな餓鬼にお前、眼鏡なんてしゃら臭くて掛けられっかてんだ。学校で要るってならば、お前さんさっさと買っとくれ!」
 うすら禿の頭の地まで真赤にし、ぱっぱと唾を反《そ》っ歯《ぱ》の合間から撥きだしながら、そんなにも昂奮してみせるのであるが、じつはこの父親も、一度は眼鏡屋を訪れてみたのであった。しかし教師の前では勝手にしやがれと自暴自棄にわめきたてていた。「それではあんまり可哀そうだ――」と杉本はつい口を辷《すべ》らかして義夫のために骨折ろうとするのである。ところが親爺はこのもののわからぬ教師を今度は本気で呶鳴りつけた。
「か、かあいそうなのはこちとらじゃねえか! 腕を持ってて腕が使えねえこんな娑婆《しゃば》に生きながらえているこちとらじゃねえか! 子供のことまで文句をつけてもらうめえ」
 子供は学校にあげねばならぬおきて[#「おきて」に傍点]だというから上げている。数年前、米屋が桝《ます》を使用していた時代には彼は錚々《そうそう》たる職人として桝取業をしていた。彼の腕にかかれば、必要に応じて、一斗の米が一斗五升にも八升にも斗《はか》りかえられた。それだのに、何の因果でか、ある日から忽然《こつぜん》と、米屋という米屋はキログラムを使わねばならなくなった。「この腕がお前――」と彼はとうとう嘆きだした。「使い道がねえじゃねえか。なあ義――」と、こんどはきょろきょろしている伜に向い「お前も可哀そうな餓鬼だよ、震災じゃあ、おっ母がおっ潰されっちまうしよ。しかし何だぞ、眼鏡なんてしゃら臭くって掛けられるもんじゃねえからな」
 紙芝居の拍子木がカチカチひびきわたって、ろじ裏から子供たちがぞろぞろ集まってきたが、一銭玉一つも持っていない子供はそこでも除け者にされるのであった。長屋の中は暗くじめじめしていた。それに較べると学校はひろく勝手気ままに跳びはねることができるのだ。放課後になると、これは子供より何よりも、校舎を汚されることだけが自分の馘《くび》と同じくらい怖ろしいと観念している使丁たちに階下の遊び場を追いまくられ、子供らは吹きっさらしの屋上運動場に逃げあがって行った。そこでは、家に帰ってもつまんねえ――と指をくわえる子供らが、犬ころのようにたわいなくふざけちらしていた。「先生、あたいも遊んで行かあ――」と塚原義夫は父親と別れ、教師の腕にすがるのであった。うす暗い階段を螺旋《らせん》まきに駈けあがり天井を抜けると、ささくれ立ったコンクリートの屋上に出る。「おーい」と塚原がわめいて跳ねあがる。するとたくさんの子供が四方からばらばら集まってくる。彼らはそこに現われた教師を見て心のつっかえ[#「つっかえ」に傍点]棒を発見し、うれしくてたまらなくなるのだ。わあわっわ……と叫んで、教師の首といわず肩といわず、およそぶら下り触れうるところに噛りつくのであった。涎《よだれ》と鼻くそと手垢をこすりつけ、なぜかそうして満足し野方図《のほうず》にはしゃぎまわった。
 頑丈な金網をその周囲に高々と張りめぐらしている屋上運動場は、それだけで動物園の大きい檻《おり》を連想させた。そこだけが日没まで彼らにとって唯一の遊び場所になっていた。けれどもそこで一あばれすれば、初冬の陽がたちまち傾き、吹き抜ける風が目立って冷めたくなるのである。子供たちの唇はいちように紫色にかわる、その冷めたさを撥じきかえしてやろうという気力はなかった。ただ変な顰《しか》め面をして黙りこみ、しかたなしのように金網にへばりつく。すると網の目から、帰らねばならぬ自分の家が見える。汚れた場末の黒く汚れた屋根の下に自分の家を考えていよいよ不機嫌になるのだった。それが彼らに幸福かどうかは判らないが、杉本は一刻でも多く子供だけの世界に彼らを引き止めようとする――
「阿部、阿部――」ひょうきんな、さい槌頭《づちあたま》の阿部が「何でえ――」と答えながら教師の方へふりかえる、「お前の家はどこにあるんだ?」
「あたいん家《ち》か? あたいん家はねえ」と阿部は少しでも高くなって展望をきかせたいと思い、金網に縋《すが》ってこうもりのようにぶら吊《さが》った。「ほら、あそこに、ほら白い屋根が見えんだろう、そいから深川八幡様だ、あそことあそこの間にあんだけえどなあ……」彼は何とかして適確にそれを示したいと伸びたり縮んだりしたが、結局どれもこれも同じ黒い屋根でいっしょくたになり、ちえっと舌打ちして「あんまり小っちゃくて見えねんだよ、先生!」
「先生――あたいん家を教えてやらあ」と次の子が造作なく調子に乗ってきた。「ほら、あっこに大《でか》い池があんだろ? あれが木場でよ、あの横にあんだが……鉄工場が邪魔になって、よく見《め》ねえや」つづいて月島の方角に面した金網では、じだんだふんでいる子供が今だとばかり懸命に説明するのだった。「あたいん家の父《ちゃん》は、あのでかい工場だ、よう――お――いみんな来てみろ――な、煙《けむ》がまっ黒けに出てやがらあ。へん、あたいん家の父はえれえもんだ、毎日あの工場で働いてらあ……」
 その工場の黒煙だけは、たくましく京橋方面の濁った空気にとけこんでいた。都会の屋並をなでる煙は河の向う側から逆にこちらになびいていた。隅田川がその間に白々と潮を孕《はら》んでくねっていた。「寒くなってきたからもう帰ろうよ」と杉本は子供たちの顔を見わたした。ひと塊の――家にかえってもさっぱりおもしろくない子供たちは、その声にぎょっとしてまた顔を曇らせた。
「先生ももう帰えるか?」と一人が訊いた。
「わ――あい、先生え、たすけてくれえ?」そう悲鳴をあげて、元木武夫がその時屋上に駈けあがってきたのであった。彼は、びっくりして飛びすさった子供の隙間をまったく一またぎに跳ねこえて、わっと教師の胴っ腹にしがみついた。だらしのない日ごろの唇が今は両方にきりっと引き緊り蒼ざめた頬がぴくぴくひきつっていた。せわしく肩を上下させ
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