あった。杉本は窓の外に身体を外《そ》らして雲のすっとんでいる怪しいこの空模様が川上忠一にこんな話題を憶《おも》い起さしたのか、それとも年に一度の身体検査にひねくりまわされた彼らの皮膚の、いやな感覚がそうさせたものかと思い、話手の顔を見なおした。白眼を剥《む》いて天井の一角を睨まえている川上忠一の尖った顔には深い隈が刻まれていた。しばらくそうやっていて、そして彼はやっと、これから喋ろうとする状景を再現した。彼は歯ぐきをむきだしてにたりと笑った。
「あのね、そん時あたいのもとのあげ羽丸も焼けちゃった。あたいは死にもの狂いで河にとびこんだ。深川は危ぶねえってんで、ほら知ってんだろう? 東清倉庫に避難したんだよ。あそこは石だから燃えねえや。そいでもっていっぱい人が逃げてきてよ、あたいはそん時おっ母がいたんだぞ。お前東清倉庫は八幡様の縁日よか人がうじゃうじゃしたんだよ」川上はふいと口を噤《つぐ》みまた天井を睨んで次の記憶を思い描きだした。聞いている子供たちは下手な話手の言葉から、もはや遺伝になっているその凄惨な状景を描き、脅《おび》えることに満足していた。「日本刀を持ったおっかねえ人がお前え、…
前へ 次へ
全56ページ中51ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
本庄 陸男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング