を患《わずら》ったその子は、命だけは不思議に助かったが、いつも天井を見ていた。無類に模範的におとなしい彼は何を聞いても耳にはいらなかったし、何も言いたいことを持っていなかった。とうとう塚原は焦《じ》れて足を踏み鳴らした。
「先生――修身だってば、さ!」
 川上忠一が廊下側から立ちあがった。
「あたいが修身をしてやらあ」
「ちえっ、手前の話なんか聞きたかねえや」と目玉をひんむいた錺屋《かざりや》の子が叫んだ。
「やれ、やれ」と塚原は音頭を取った。「先生、邪魔になるからそこを退《ど》きな、川上が修身をやんだからさ、早く退きな」
 川上忠一は右肩をいからかして教卓の前に直立不動の姿勢をつくり、ぺこんと頭を低《さ》げた。それから薄い唇をぺちゃぺちゃと舐めてみんなを見まわした。
「あたいが三つの時のことなんだ、しんさい[#「しんさい」に傍点]があってさ、関東大震災でじゃんじゃん家が燃えちまってさ」
 しんさい――と聞いて子供たちの呟きがなぜか一時に停《とま》るのであった。何かこれら不幸な子供の胸底にひっそり潜在していたものが、その一語でぐらっとひっくりかえり、そのぶ気味さに当わくしたような沈黙で
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