田舎の屋敷を買つて、緑色の鎧扉のある簡素な別荘に引退して、始めて永い間の夢想を現実したのだから。コッペ先生が如何に誠実な感動を以て此の平和な、質素な生活の快味を屡々其の詩の中に歌つたことか! この芝生を、この薔薇壇を、此の花垣を、この白色の回墻と、赤煉瓦の屋根と而して遠くの方には、累々と重さうな実が赤く熟した林檎畑と、丸々とよく出来た球菜の畠を眺めながら、僕は僕の家にゐるのだ。これはみんな僕のものだ、而して是等は僕の勉強一つで、正直な手段で贏ち得たのであると、心の満足が自然口に出るのも尤もなことではないか。
先生が独りで、又はその仲よしの妹さんの腕に倚つて此の苺園の小径を逍遥する時に、黄昏のメランコリーと共に、その憐れな子供の時の記憶が一々頭に浮び出るであらうことを、僕は想像せぬ訳にはゆかぬ。古風で而して質素なサロンや食堂や特に献身的な慈愛を以て多くの子供等をそれぞれ皆立派に育て上げて、苦労し抜いて死んだお母さんの影が先生の記憶の真つ先に浮び出ることであらう。で、コッペ先生は今日も亦お母さんの事を話された。
「私の父は陸軍省の属官で、母との間に八人の子供があつたのですが四人だけが生存
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