慮もなく、それに猥談がかつたきわどい[#「きわどい」に傍点]駄じやれさへ交へて、人を笑はせるのである。思ふにこれがこの詩人の本来の二つの性質と見える。彼は繊細な洗煉された嗜好を持つてゐて、同時に単純な心の持主である。貴族的な感情と民衆的な精神とが一つの身体に同棲してゐるのだ。言ひ換へて見れば、芸術家的敏感を巴里の悪戯小僧の心意気で裏付けた様なものだ。コッペ先生が自分でも言つてゐられる如く彼は全く巴里生え抜きの巴里つ児である。其の声音迄が明澄で、しかも喉音が多く、所謂「フォブリアン」の抑揚《アクセント》が窺はれる。隠れた愉快さがその目の中には笑つてゐて、其の薄い脣に迄みなぎつてゐる。此の翰林院大学士《アカデミアン》は若し書店や雑誌社からの原稿の催促がなかつたならば、常時道草を喰つて一軒毎に店先を覗いて歩いたり、又は馬車に引殺された犬などを見て喜ぶ、悪戯小僧によく似てゐるあるものが先生のどこかに潜在してゐるのが、僕にはよく分つた。先生はこの遊惰の傾向が自分に十分ある事を自知して居られた。で、先生は或る書物の中に下のやうなことを言つてゐる。
『余は素敵に勉強した怠惰者《なまけもの》だ』
 実
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