迄こんな旨《うま》い牛乳を飲んだ事がない、何とも言ひ得ぬ好い味で。」すると富豪は微笑して「一年このかた、御前様の為めに特別にこの乳牛を飼つて置きまして、……外のもの[#「もの」に傍点]は少しもやらないで、全く豌豆ばかりで飼つたのです」といつた。そしてそれは本当なことであつたのだ。実際一年以来毎日――冬でも夏でも――その乳牛は採り立ての豌豆の大俵で養はれてゐたのです。この細心な注意はなんと感心すべきではありませんか。この贅沢な飼料がどんな高価についたかは容易に想像し得られるのです。当時はまだ鉄道などはなかつたのですから豌豆の大俵は遠方から騾馬で送らねばならなかつたのです。
当時の富豪の『意気張り《ガラントリー》』は全く想像も及ばぬ程のもので、むろん今時の成金などにそんな意気は薬にしたくもない。とブノワが余程感心したらしく言ふと、コッペ先生は大声で「全く左様だ。今は守銭奴計りだ」と吐き出すやうに現代人に対して辛辣な罵言をあびせかけた。僕は此処にもまた、別なコッペ先生があるのを見出したやうの心地がした。それは反動家のコッペである。この詩人は民主政府に対しては、ひどく反抗心を持つてゐた。(誰れもその理由を知つてをるものはないのだが)而して先生は政治が大嫌で、随つて政治家などを毛虫の様に嫌つてゐた。先生は衆議院議員だとか又は政党者流特にこれ等の人達の演説などが大嫌で、遂には市長や知事迄が嫌ひだと云ふのである……而してそれ等を罵倒する時は所謂口角沫を飛ばすの勢で……。――しかもその悪態は口先ばかりではなく、ともすると、その筆端にも隠見するものである――突然先生は『嗚呼口が汚がれる、ペッペ、外の事を話さうぢやないか』と、稍※[#二の字点、1−2−22]冷静になつて、『さあ何でも話して上げるよ……おれの命が欲しいならば、それも喜んで進上するさ』と、至極の上機嫌。
先生は書斎へ這入つていつもの椅子に腰掛けて巻煙草を燻らせた。すると前に写真機が据ゑ付けられた。みんなが同時に同じ事を考へた。おい、トリユックは? トリユックは何処へ行つた? トリユックが主人公の傍にゐないでは……トリユック、トリユックと、アンネット嬢さんはやさしい声で犬を呼ぶのであるが、トリユックは何処へ行つたか見付からない。
犬は写真機が怖いので卓子の下に隠れてゐた。それをやつとの事で、肘掛け椅子の上へ蹲踞らせた
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