なる功績があったことは普《あまね》く人の知るところである。

  二 ハムムラビ石柱法の発見

 しかるに第二十世紀の法律史はまた前代未聞の大発見をもって始まったのである。それは一九〇一年の十二月から一九〇二年の一月にわたってペルシアの古都スザの廃址においてフランス政府の派遣した探検隊がジョセフ・ド・モルガン(J. de Morgan)氏の主宰の下に、世界最古の法律とも称すべきハムムラビの石柱法を発掘したことである。この発見は独り法律学の上のみならず、史学、人類学、社会学、博言学、政治学、宗教学などに大影響を及ぼすものであって、大いに学者の注意を惹き、その法文は諸国の語に翻訳せられ且つ近頃に至っては、これに関する学者の考証研究なども大いに進み、種々の著書が出るようになって来た。世に骨董家などが期せずして得た珍奇な品物を「掘出し物」というが、この石柱法こそ実に古今無双の「掘出し物」といわねばならぬ。
 フランス政府は、この重要なる発見を広く学界に伝えんとし、先ずシェイル(Scheil)に命じてこれを仏語に翻訳させ、且つその法文を写真版として出版した。Textes Elamitiques Semitiques. par V.Scheil.O.P.(Paris,1902.), Memoires de la Delegation en Perse. tome IV.[#「Semi−」「Memo−」「Dele−」の「e」はアクサン(´)付き、「IV」はローマ数字の4]は即ちその書である。
 世界の至宝たるこのハムムラビの石柱法は、今はルーブルの博物館に陳列せられている。

  三 発見の予言

 今を距《へだた》ること約四十年前、即ち一八七四年に、英人ジョージ・スミスがニネベおよびバビロンの遺址を発掘して数多の粘土板の記録を得たが、これに依ってバイブルの旧約全書中の世界創造および大洪水などの伝説は、モーゼの時より数百年前既にバビロンに存しておった記録に基づいて作られたものではないかとの疑問が起って、歴史家宗教家の間の一大争議を惹き起した。その後ちアッシリア王アスールバニパル(Asurbanipal, 668−626 B.C.)の図書館が発掘され、その中にあった粘土記録の破片数個はブリチシ・ミュージアムに陳列されてあるが、アッシリア学者は、この記録はアスールバニパル王の法典の一部であるとしておった。しかるにマイスネル博士(Dr. Meissner)はこの破片を精密に研究した結果、この破片の法文はその文体より推すも古バビロン時代に属するものなることを知り、一八九八年にその説を発表して、この破片の本体たる法典はアスールバニパル時代のものに非ずして、バビロン王統の初期に属するものであろうと言うた。その翌年に至ってデリッチ博士(Dr. Delitzsch)は、マイスネルの考証に賛成し、さらに一歩を進めて該法典はバビロン建国第一期時代の英主ハムムラビ王が当時の法律を集めて編纂したものであろうとの推測をなし(Delitzsch, Zur juristischen Literatur Babiloniens−Beitraege. Zur Assyriologie. Bd IV S.80.)[#「IV」はローマ数字の4]、コード・ナポレオンの称呼に倣って、コード・ハムムラビという名称をさえ定め用い、他日必ずバビロンの遺址中においてその全部を発見する時があるに違いないと予期しておった。しかるにデリッチがその説を発表した後ち未《いま》だ僅に三年を経ざる内に、その予期に違《たが》わず、この法典の全部を発見し、且つそのハムムラビ法典なりとの予言も的中したのは、実に感歎すべき事実である。
 この発見は、これより半世紀以前に、ルヴリエール(Leverieres)が天王星の軌道の変態を観て、必ず数万里外の天の一方において引力を天王星の軌道に及ぼす一大惑星の存在することを予言し、その予言が果して的中して、予測されたる天空の一度内において海王星が発見せられたのとほぼその趣を同じうしている。そしてハムムラビ法典の発見の法学におけるは、海王星の発見の星学におけると、その重要なる点において毫《ごう》も異なる所はないのである。

  四 石柱法

 ハムムラビ法典は円形の石柱に彫刻せられたものである。一九〇一年の十二月末日に、先ず石柱の破片一個を発掘し、次いで翌年一月の初めに二個の破片を発掘したが、この三個の破片を合せて見ると、一の円柱の全形をなし、その高さは二メートル二十サンチ、その周囲は上部において一メートル六十五サンチ、下部において一メートル九十サンチで、ほぼ棒砂糖の形をなし、上部に至るに従って細くなっている。故にその高さは通常人が立って碑文を読むに便利な位に出来ている。この円柱の石質はデオライトという極めて堅い石であって、小藤教授の言に依れば、この石は日本では「緑石」といい、筑波山などは、これから出来ているということである。
 石柱の両面に楔形文字が彫り付けてある。表面は二十一欄に分ち、一欄毎に六十五行乃至七十五行の文を刻し、裏面は二十八欄に分ち、一欄毎に九十五行乃至百行の文を刻し、両面において総計三千余行の楔状文字が刻せられているのである。探検隊がこの碑文を読んでみると、これこそかの有名なるバビロン王ハムムラビの法律であって、総計二百八十二条の法規が彫り附けてあるが、そのうち表面の五欄にあった第六十六条乃至第九十九条は、後に鑿除《さくじょ》せられたように見えて、現今読み得べきものは二百四十八条だけである。その後ちシェイル氏は前にいうたブリチシ・ミュージアムにある粘土記録の破片からその削り去られた法文中の三箇条を見出してこれを填捕《てんぽ》した。この三十四箇条を削り取ったのは何故であるかは確《しか》と分らぬが、多分後にバビロニアを征服したエラム王のスートルーク・ナクフンテ(Sutruk Nakhunte, 1100 B.C.)が、戦勝の記念文を彫り附けさせるために削ったものであろうと言われている。ド・モルガン氏はこの石柱の外になおバビロン王の記念碑五個をスザにおいて発掘したが、いずれもその一部分を削ってそこにスートルーク・ナクフンテ王の名が彫り附けてあった。これに依って見ると、ド・モルガン氏の発掘したところは、ちょうど戦勝記念博物館のような所であったろうということである。
 この石柱は始めシッパール(Sippar)のエバッバラ(Ebabbara)という所の、日の神の神殿の前に建っておったものであるが、紀元前一一〇〇年の頃エラム人(Elamite)の王スートルーク・ナクフンテがバビロンを征してこれに勝った時、戦利品としてこの石柱をスザに移したものであるということである。
 ハムムラビの石柱法は所々に建てられたものであって、スザで発見されたこの石柱の外にも数個あったらしい。既にスザでも第二の破片が発見され、またバビロンのエサジラの神殿前にも建てられておったということである。
 右の石柱の表面の上部には、日の神シャマシュ(Schamasch)の像が浮彫にしてある。日の神は頭に四層冠を戴いて王座に着き、肩の辺より左右に三条ずつの後光を発し、右の手には長き物を持って授くるが如き形をなし、左の手には円形の物を持っている。ジェレミヤス(Johannes Jeremias)の説に拠れば、シャマシュがその右手に持っているのは石筆で、智の表象であり、左手に持っている円形の物は時または年の表象であるといい、またグリムは、右手の長き物は笏《しゃく》で、左手の円き物は輪であると言うておる。日の神の前にはハムムラビ王が立って礼拝をしている。その右手を挙げているのは、天を指すので、これはバビロンの祈祷の礼貌であるということである。この全図の意味についても、種々の説があるが、フランスの探検隊に属して、始めてこの法律を翻訳したシェイル氏などは、これは日の神がハムムラビ王に法を授けている図であると言うておる。アメリカの翻訳者ハーパー氏もこの説を採っている。しかるにグリムはこの説を非なりとして言うには、ハムムラビの法律の中に王が日の神から法を授かった事は書いてない。後文中には「天地の大法官なるシャマシュの命に従い、朕は正義の光輝を国中に普及せしめんことを冀《こいねが》う」とあるけれども、前文中には「マルヅック神は民を統《す》べ国を救わんがために朕を降せり、依って朕は国中に法を立て正義を行い、もって人民の幸福を増進せり」とあるから、日の神がこの法律を授けたとするのは間違っている。この柱は始めシッパールの日の神の神殿の前にあったから、この神を崇敬する図を彫ったもので、もしマルヅック神殿の前にあったならば、必ずやマルヅックを崇敬する像を刻してあったであろうと論じている。デリッチは、シャマシュはマルヅックの神性の一面であるから、この文に依って日の神が法を授けたという事を否認することは出来ぬと言うておる。グリムはこれを駁して、シャマシュがマルヅックの神性の一面であるということは、新バビロンで一神教の傾きを生じた時代の思想であって、それは遙か後世に生じたものであると言うておる。我輩門外漢にはその孰《いず》れが是《ぜ》であるかを正確に判断することは出来ぬが、ただこの法が神授の権に依って立てられ、この法の効力の基礎が神意にあるということだけは明らかである。

  五 石柱法の内容

 この石柱法の内容は主として私法、刑法および官吏法に関するものであって、直接に訴訟法、裁判所法などに関するものは極めて少ないのは、他の原始的法律と異なっている。原始的法律は、概《おおむ》ね賠償、刑罰、訴訟などに関するものが多く、私法に関するものは慣習法となっているものであるが、この成文法の内容中、私法の規定の多いのは、古代法中の異例であって、研究に値すべきものである。
 その他この法律は他の原始法に見ることなき種々の変態を有しておって、学者が説明に苦しむ点も少なくない。例えば婦人の法律上の地位は非常に高く、他の原始法においては婦人には独立の身位なきのみならず、通常、物として男子の所有に属するものであるが、この法律では、母を「家の神」と称し、酒類の販売は婦人の専権とするなどを始めとし、婦人の権利に関するものが多いこと、また商工農業、運河、造船、医師、獣医、契約代理等に関する規定の多いことなどである。
 これらの規定に依って見ると、ハムムラビ王時代のバビロンは、非常に高度の文明を有しておったらしいが、また一方より見れば、その前文後文などには、この法律の淵源を神意に帰し、その制裁を神罰となし、またその刑罰規定に反坐法、祷審《とうしん》法などのあるのを見れば、文化低級の人民中に行われる法律の特質をも有していることが知られる。
 またこの法律の規定は概ね皆な因果法の規定となっておって、命令法の体裁をなしているものは殆んどない。例えば「何々をなすべし」または「何々をなすべからず」という如き規定ではなくて、「何々をなしまたはなさざれば何々の結果あるべし」というが如きものであって、古代の法でもモーゼの十令などは命令法であるが、旧約全書中に掲げてある他のモーゼの法律、十二表法、ドイツの民族法などを始めとし、概して原始法は因果法の体裁をなしているものである。故にジェレミヤスの如きは、ハムムラビ法典の規定は判決例から作ったものであるから、かくの如き体裁になっていると言うておる。

  六 世界最古の法典

 ハムムラビ法典はこれまで発見せられた法典の中では最も古いものであって、仮に紀元前二千百年説に依るも、旧約全書中に載せてあるモーゼの法律と称するものより六百年乃至七百年ほど前に出来たものである。尤もモーゼの法律についても種々の説があって、或は数種の法を併せてモーゼの法と称したものであるとし、或はモーゼの制定したものではないとの説さえある位であるから、精確にその年代を知ることは出来ぬが、仮りにシナイ山の十令を紀元前一四九一年なりとすれば、ハムムラビ法
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