分配法を定められたということである。
この話は、けだし僧正が衆弟子の出家たる本分を忘れて、貨財の末に齷齪《あくせく》たるを憫《あわれ》んで、いささか頂門の一針を加えられたものであろう。
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三八 決闘裁判
刑事裁判がその源を復讐に発していることは争うべからざる事実であるが、その最も著明な証跡とも見るべきは、刑事訴訟の起訴者が現今は国家であるが、往昔《おうせき》にあっては私人であったことである。即ち被害者またはその親戚らより起訴して、原被両告の対審となることは、民事訴訟と同一であった。英国の中世には、この規則が行われておって、ことに殺人に関する私訴(Appeal of Murder)が最も著名であった。しかもこの古風な訴訟に関して、なお一層古風な慣習が行われた。それは決闘裁判(Trial by battle)である。被告は原告と決闘して正邪を決せんことを請求することが出来る。手袋を投げるのがその請求の儀式であった。
この決闘裁判は久しく行われたことがなかった。一七七〇年および一七七四年の議会には、その廃止案が提出せられたが、元来保守的で旧慣を変ずることの大嫌いな英国の事とて、実際に決闘を請求する者もない今日、わざわざ廃止案を出すにも及ぶまい位のことで、そのまま決議に至らずにしまった。かくてこの危険なる法律をば、廃止したともなく、忘れておった世人は、それより四十年後に至って、端《はし》なくも覚醒の機運に逢着した。
一八一七年アッシフォード対ソーントン事件(Ashford v. Thornton)なる訴訟が起った。即ちアブラハム・ソーントンなる者がメリー・アッシフォードという少女を溺死せしめんとしたとて、メリーの兄弟からいわゆる「殺人私訴」を起したのであった。いよいよ裁判の当日となって、被告の答弁が求めらるるや、彼は決然として起ち上り、「無罪なり。余は敢えて身をもってこれを争わんと欲す」と叫んで、手袋を投じた。これ正に決闘裁判請求の形式である。この恐しき叫びは、久しく決闘を忘れたる世人の耳朶《じだ》を驚し、陪席判事は皆その請求の容《いる》るべからざるを主張し、決闘裁判に関する古法律は形式上は未だ廃止されてはおらぬが、古代の蛮法であって、数百年間行われなかったのであるから、事実上効力を失うたものであると論じた。しかしながら、その法律の儼然として未だ廃せられざるものがあったから、判事エレンボロー卿(Lord Ellenborough)は、「これ国法なり」(It is the law of the land)の一言をもって衆議を圧し、決闘の請求に許可を与えた。しかし決闘は実際には行われなかったが、被告の見幕に恐れをなして、原告は訴訟を取下げてしまったのである。
かくてこの事件も無事に治ったが、さて治らぬのは輿論《よろん》の沸騰である。決闘裁判の如き蛮習を絶つには、須《すべか》らく復讐を根本思想とせる「殺人私訴」を廃すべきであるとの議論が盛んに主張せられ、一八一九年の議会において、二対六十四の大多数をもって、「殺人私訴法」(Appeal of Murder Act)を議決した。これによって殺人その他重罪の私訴は廃せられ、その結果、決闘裁判の請求もソーントンをもって最後とすることとなった。
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三九 板倉の茶臼、大岡の鑷
板倉周防守重宗は、徳川幕府創業の名臣で、父勝重の推挙により、その後《の》ちを承《う》けて京都所司代となり、父は子を知り子は父を辱しめざるの令名を博した人である。
重宗或時近臣の者に「予の捌《さば》きようについて世上の取沙汰は如何である」と尋ねたところが、その人ありのままに「威光に圧されて言葉を悉《つく》しにくいと申します」と答えた。重宗これを聴いて、われ過《あやま》てりと言ったが、その後ちの法廷はその面目を一新した。
白洲《しらす》に臨める縁先の障子は締切られて、障子の内に所司代の席を設け、座右には茶臼《ちゃうす》が据えてある。重宗は先ず西方を拝して後ちその座に着き、茶を碾《ひ》きながら障子越に訟《うったえ》を聴くのであった。或人怪んでその故を問うた。重宗答えて、「凡《およ》そ裁判には、寸毫《すんごう》の私をも挟んではならぬ。西方を拝するのは、愛宕《あたご》の神を驚かし奉って、私心|萌《きざ》さば立所《たちどころ》に神罰を受けんことを誓うのである。また心静かなる時は手平かに、心|噪《さわ》げば手元狂う。訟を聴きつつ茶を碾くのは、粉の精粗によって心の動静を見、判断の確否を知るためである。なおまた人の容貌は一様ならず、美醜の岐《わか》るるところ愛憎起り、愛憎の在るところ偏頗《へんぱ》生ずるは、免れ難き人情である。障子を閉じて関係人の顔を見ないのは、この故に外ならぬ」と対《こた》えたということである。
大正四年の夏より秋に掛けて上野|不忍《しのばず》池畔に江戸博覧会なるものが催された。その場内に大岡越前守|忠相《ただすけ》の遺品が陳列してあったが、その中に子爵大岡忠綱氏の出品に係る鑷《けぬき》四丁があって、その説明書に「大岡越前守忠相ガ奉行所ニ於テ断獄ノ際、常ニ瞑目シテ腮髯《あごひげ》ヲ抜クニ用ヒタルモノナリ」と記してあった。その鑷は大小四丁あって、その一丁は約七寸余もあろうかと思われるほどで、驚くべき大きさのものである。その他の三丁も約五寸|乃至《ないし》三寸位のもので、今日の普通の鑷に較べると実に数倍の大きさである。芝居では「菊畑」の智恵内を始めとし、繻打奴《しゅすやっこ》、相撲取などが懐から毛抜入れを取出し、五寸ばかりもあろうと思う大鑷で髯《ひげ》を抜き、また男達《おとこだて》が牀几《しょうぎ》に腰打掛けて大鑷で髯を抜きながら太平楽《たいへいらく》を並べるなどは、普通に観るところであるが、我輩は勿論これは例の劇的誇張の最も甚だしきものであると考えておったが、この出品が芝居で見るものよりも一層大きい位であるから、当時はこのような大鑷が普通であったものと見える。これについても、今をもって古《いにしえ》を推すの危険な事が知れる。
余談はさておき、大岡忠相が髯を抜いたのも、板倉重宗が茶を碾《ひ》いたのも、その趣旨は全く同一で、畢竟その心を平静にし、注意を集中して公平の判断をしようとする精神に外ならぬのである。髯を抜きながら瞑目して訟を聴くのも、障子越に訟を聴くのと同じ考であろう。司直の明吏が至誠己を空《むな》しうして公平を求めたることは、先後その揆《き》を一にすというべきである。
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大正四年十一月四日相州高座郡小出村浄見寺なる大岡忠相の墓に詣でて
問ひてましかたりてましをあまた世をへたててけりな道の友垣
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四〇 模範的の事務引継
板倉重宗が京都所司代を辞職した時には、大小の政務|悉《ことごと》く整理し尽し、出訴中の事件は皆裁決し了《おわ》って、一も後任者牧野佐渡守を煩すべきものを遺さなかったが、ただ一つ、当時評判の疑獄であって、世人の眼を聳《そばだ》ててその成行を見ておった一事件のみは、そのままにして引継いでしまった。そこで口善悪《くちさが》なき京童《きょうわらわ》は、「周防殿すら持て余したこの訴訟、佐渡殿などには歯も立つまい」と口々にいい囃《はや》したが、さて佐渡守が職に就いて、その裁決を下したのを見れば、調査は明細、判断は公平、関係人諸役人を始めとして、不安の眼で眺めておった満都の士民を、あっといわせたので、周防殿にも勝る佐渡殿よとの取沙汰|俄《にわか》に高く、新所司代の威望信任はたちどころに千鈞の重きを致したという。
そもそもこの疑獄については、重宗は夙《はや》くより最もその意を注いで、調査に調査を加え、既に判決を下すばかりになっていたものであるが、辞職の際の事務整理に、故《ことさ》らにこれのみを取残し、詳細なる意見書を添えて佐渡守に引継ぎ、佐渡守はただ板倉の意見をそっくりそのまま自分の名で発表したのに過ぎないのであった。掉尾《とうび》の大功を惜しげもなく割愛して、後進に花を持たせた先輩の襟懐《きんかい》、己を空しうして官庁の威信を添えた国士の態度、床しくもまた慕わしき限りではないか。
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四一 オストラキズムス
いやしくもギリシア史を読んだものは、アテネの名士テミストクレス(Themistocles)がオストラキズムス(Ostracismus)を行って、政敵アリスティデス(Aristeides)を追放し、心のままに自家の経綸《けいりん》を施して、大敵ペルシアを破ったことを知っているであろう。このオストラキズムスとは如何なるものであったか。
ギリシア諸邦ことにアテネなどにおいては、民主主義の結果として、中央政府の勢力は極めて微弱で、一兵を動かす権力をすら持っていなかった。故にもし一人の野心家があって民心を収攬し得たならば、政府を顛覆するは、一挙手の労に過ぎないのである。紀元前五〇九年、アテネのクレイステネス(Cleisthenes)がオストラキズムスなる新法を設けたのも、在野政治家の勢力を二葉《ふたば》のうちに摘み取って、斧を用いてもなお且つ及ばざる危険に到ることを予防する目的であったのである。
オストラキズムスは一種の弾劾投票である。毎年第一回の民会において、先ずこれを行うの必要ありや否やの議決を求め、もし積極に決したならば、次回の民会において、執政官および五百人会議員立会の上、各市民をして弾劾に当るべき人を投票せしめるのである。投票は牡蠣《かき》の一種の貝殻に記すのを例とした。その貝をオストラコン(Ostrachon)と称するところから、オストラキズムスの名が生じたのである。さて開票の結果、六千票以上を得たものがあったときには、その者は十年間(後には五年となった)国外に追放せられる。しかしながら、これは刑罰ではなく、一種のいわゆる保安条例に過ぎないのであるから、名誉権・市民権・財産権等には、何らの影響もなく、期限満ちて帰国の上は、再び以前の身分を回復することが出来る。また満期前であっても、民会の決議によって召還せられることもある。
第一番にこの弾劾投票の犠牲となったのはヒッパルコス(Hipparchos)であるが、この法の立案者クレイステネス自身も、制定の翌々年、ペルシアと款《かん》を通じたとの嫌疑の下に、かの商鞅と運命を同じくせざるを得なかったのである。その他アリスティデス、テミストクレス、キモン(Cimon)、ツキディデス(Thucidides)などの諸名士も、頻々《ひんぴん》としてこの厄に罹《かか》っているが、これこの法が後には政争の手段として用いらるるに至ったためであって、二党対立の場合に、しばしば合意の上にてこの投票を行い、もって互に鼎《かなえ》の軽重を問うことであった。しかるに紀元前四一六年の投票に際して、二党妥協してヒペルボロス(Hyperbolos)なる一末輩に落票せしめたために、大いにこの法の価値を損じ、爾来《じらい》復《ま》た行われざるに至ったという。
ギリシアでは、アテネのみでなく、アルゴス、ミレツス、メガラなどにも類似の法が行われておったが、紀元前第五世紀において、一時シラキュースに行われたものは、貝殻の代りに橄欖《かんらん》の葉即ちペタラ(Petala)を用いたので、その名もペタリズムス(Petalismus)といったとか。
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四二 ハムムラビ法典
一 法律史上の大発見
第十九世紀において法律史上の二大発見があった。その前半においては、一八一六年にニーブール(Niebuhr)がイタリアのヴェロナの寺院の書庫においてガーイウスのインスチツーチョーネスを発見し、また同世紀の後半においては、一八八四年にハルブヘール(Halbherr)、ファブリチウス(Fabricius)の二氏がギリシアのクレート島にて、二千年以上の古法律たるゴルチーンの石壁法を発掘した。この二大発見は法律史上に最も貴重なる材料を与え、法学の進歩に偉大
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