オます。故に殿下は二重に服従の義務を負い給うものではありませぬか。本官は今陛下の名をもって殿下にこの不法なる暴行を禁じ、且つ将来殿下の臣民たるべき者に対して法律|遵奉《じゅんぽう》の模範を殿下自ら御示しあらんことを勧告いたします。殿下は既に法廷侮辱の罪を犯されたのであります。故に本官はこれに対して殿下を王座裁判所の獄に禁錮し、もって皇帝陛下の勅命を待たんとするものでございます。」
この儼然犯すべからざる法官の態度に打たれて、さすがの親王もしばらくの間は茫然として佇立《ちょりつ》しておられたが、忽ち悟るところあるが如く、手に持った剣を抛《なげう》ち、法官に一礼の後《の》ち、踵《きびす》を回《めぐ》らして自ら裁判所の拘留室へ赴かれた。
この事の顛末《てんまつ》を聴かれた皇帝は歓喜極りなく、天を仰いで神に拝謝し、「朕《ちん》はここに畏くも我上帝が、正義を行って懼《おそ》れざる法官と、恥辱を忍んで法に遵《したが》う皇儲《こうちょ》とを与えられたる至大の恩恵を感謝し奉る」と叫ばれたという事である。
右の皇帝の言葉は、近頃の書物には通常左の如く書いてある。
[#ここから2字下げ]
“Happy is the king who has a magistrate possessed of courage to execute the laws; and still more happy in having a son who will submit to the punishment inflicted for offending them.”
[#ここで字下げ終わり]
しかるに、右の親王が位を継いでヘンリー五世となり、その後ち崩御された直ぐ後にサー・トマス・エリオット(Sir Thomas Elyot)の著わしたThe Governorという書には左の如くある。
[#ここから2字下げ]
“O merciful God, howe moche am I, above all other men, bounde to your infinite goodness, specially for that ye have gyven me a juge, who feareth not to minister justyce, and also a sonne, who can suffre semblably, and obey justyce!”
[#ここで字下げ終わり]
右に掲げた話は同書中の記事に拠ったのである。
[#改ページ]
三三 栴檀《せんだん》を二葉に識《し》る
ここは英国某市の裏通り、数人の児童今やマーブル遊びに余念もない。彼らは皆小学校にも通われぬほどの憫《あわれ》むべき貧児である。折からボーイス(Boyse)という一僧侶この場に来|懸《かか》り、暫くこの遊びを眺めておったが、忽ちこの鶏群《けいぐん》中に一鶴《いっかく》を見出した。相貌|怜悧《れいり》、挙止敏捷、言語明晰、彼は確かに野卑遅鈍なる衆童を圧して一異彩を放っておった。僧侶は頻《しきり》にこの児に対して愛憐の情を催し、菓子を与えてその家に誘い帰り、これに文字を教えてみると、果して一を聴いて十を識るの才がある。僧侶はいよいよ乗り気となり、授業料を給して学校に通わせることとした。
歳月流るるが如く、三十年は既に過ぎ去って、今や一箇の長老となりたるボーイス師は、一日議会を傍聴した。僧侶の身として何故にと怪しむことなかれ。これ彼がかつて培いたる栴檀《せんだん》の二葉が、今や議場の華と咲き出でたる喜びの余りである。昔街頭にマーブルを弄《もてあそ》んだ貧児は、今や演説壇上満堂の視線を一身に集めている。※[#「※」は「足偏に卓」、第4水準2−89−35、106−1]※[#「※」は「勵−力」、第3水準1−14−84、106−1]風発《たくれいふうはつ》、説き来り説き去って、拍手喝采四壁を撼《うご》かす時、傍聴席上の一老僧はソーッとハンケチをポケットから引出して目に押当てた。
この雄弁なる国会議員こそ、実に我が大岡越前守とひとしく、幾多裁判上の逸話を遺《のこ》したる著名の弁護士カラン(Curran)その人であった。
[#改ページ]
三四 カランの法術
英国の一農夫、或る宿屋に泊って、亭主に百|磅《ポンド》の金を預け置き、翌朝出発の時これを受取ろうとした。ところがこの亭主は甚だ図太い奴で、金などを御預りしたことはないと空とぼける。百姓は大きに腹を立てて厳重に懸合《かけあ》うけれども、何分証拠がないこととて如何とも仕様がない。弱り果てて、当時有名の弁護士カランの許を訪《おと》ずれ、どうか取戻の訴を起してくれと頼んだ。カラン暫《しばら》く思案して、「それ位なことなら訴を起すまでもない、もしその百磅を取り返したいならば、もう百磅だけ改めて亭主に預けるがよい」という。百姓は仰天《ぎょうてん》し、「飛んでもないこと、渠奴《あいつ》のような大盗人に、百磅は愚か、一ペニーたりとも渡せるものか」と、始めはなかなか承知すべき気色《けしき》もなかったが、遂にカランの弁舌に説き落され、渋々ながら、彼の差図に任せて、一人の友人を証人に頼み、再び例の宿屋に行った。復《ま》た談判に来おったなと、苦り切っている亭主の面前に、百磅の金を並べて、さて言うよう、「己は元来物覚えの悪い性分だから、昨日百磅預けたというのは、あるいは思い違いかも知れない。とにかく今度こそはこの百磅を確かに預って置いて下され」と懇《ねんご》ろに頼む。亭主は案に相違し、世にはうつけ者もあればあるものと、独り心に笑いながら、言うがままにその金を受け取った。農夫はカランの許《もと》に立ち帰り、盗人に追銭とはこの事と、頻《しきり》にふさぎ込んでいる。カランは打笑い、「それでは、今度は亭主が独りいるところを見済し、こちらも一人で行って、先ほどの百磅を返してくれと言うべし」と教えた。その教えの通りにして見たところが、後の百磅には証人もあること故、拒んでも無益と思ったか、亭主も素直にこれを渡した。農夫は再びカランの許に立ち帰り、これでは元の黙阿弥で何にもならぬと言う。カラン手を拍って、「さてこそ謀計図に中《あた》った。さあ、今度こそは前の友人と同道して、宿屋に押し懸け、この者の面前で預けて置いた百磅の金、さあ、たった今受取ろうと、手詰の談判に及ぶべし。それでも渡さずば、その時こそはその友人を証人として訴え出《い》でるのだ」と言う。農夫は、ここに至って始めて氏の妙計を覚り、小躍《こおど》りして出て行ったが、やがて満面に笑を湛《たた》えて、ポケットも重げに二百磅の金を携え帰った。
法学法術兼ね備わる者でなくては、法律家たる資格がない。カランが、無証事件を変じて有証事件となし、法網をくぐろうとした横着者を法網に引き入れた手際《てぎわ》は、実に法律界の張子房《ちょうしぼう》ともいうべきではないか。
[#改ページ]
三五 “He shakes his head, but there is nothing in it!”
カランの法術について思い出した事がある。明治十三年、スウィスの首都ベルンの国会議事堂において国際法の万国会議が開かれた時、丁度その頃、我輩はドイツに留学中であったので、日本における治外法権廃止の提議をなさんがために同会に出席したことがあった。イギリスからは公使森有礼君、法学士西川鉄次郎君、オーストリヤからは書記官河島醇君も出席した。
この会において最も議論のやかましかったのは、国際版権問題で、就中《なかんずく》イギリスの議員は版権の国際的効力を保障する条約の必要を主張し、アメリカの議員は烈しくこれに反対した。
ニューヨルクの弁護士某氏は、熱弁を掉《ふる》ってイギリスの前国会議員某氏の国際条約必要論を駁撃し、「真理は人類の公有物である。これを発見し、これを説明する者は、その人類に与うる公益と、これに伴う名誉とをもって満足すべきである。何ぞ必ずしも利を貪《むさぼ》って、真理普及の阻止せらるるを欲すべきものならんや。諸君、請う学者と書籍製造販売者とを混ずること勿《なか》れ」という調子で滔々《とうとう》と述べ立てると、前国会議員の某は、頻《しき》りに頭を左右に掉《ふ》って不同意の態度を示した。すると直ちにその頭を指さして、
[#ここから2字下げ]
“He shakes his head, but there is nothing in it!”
[#ここで字下げ終わり]
と叫んだ。これは素《もと》より「彼は頭を掉っているが、それには何も意味のある訳ではない」という意味であるが、また「彼は頭を掉っているが、しかしあの頭の中は無一物である」とも解せられる。前議員某氏は激怒の相を現わし、その禿頭より赤光を放射した。他の会員は思わず失笑する者もあり、顰蹙《ひんしゅく》する者もあった。痛烈骨を刺す皮肉、巧みは則ち巧みであるが、かかる場所柄、少しひど過ぎると、我輩はその時に思うた。
かくてその後も、右は同弁護士の機智に出でたる米国式の論弁法であると思って、人にも話した事であったが、爾来三十余年を経過して、大正四年の夏に至り、カランの逸話を読んでいると、偶然にも左の一項に遭遇した。
[#ここから2字下げ]
或時カランが陪審官に対《むか》ってその論旨を説明していると、裁判官が頻りにその頭を掉った。するとカランの言うには、「諸君、余は判事閣下の頭の動くのを見る。これを観る者は、あるいは閣下の御説が余輩の所説と異なっていることを示すものであると想うかも知れない。けれども、あれは偶然の事です。」
“Believe me, gentlemen, if you remain here many days, you will yourselves perceive that when his Lordship shakes his head, there's, nothing in it.”
[#ここで字下げ終わり]
これに依って観ると、我輩がさきにアメリカ式と思うたのは、実はアイルランド式であって、かの某弁護士は、あるいは我輩より数十年前に既にカラン伝を読んでおったのかも知れない。
我輩はこのカランの逸話を読んで、三十年来の誤信を覚《さと》ったとき、つくづく吾人の知識の恃《たの》み難きものなることを嘆じ、更に自疑反省の必要の大なること感じた。
[#改ページ]
三六 女子の弁護士
昔ローマでは、女子が弁護士業を営むのを公許したことがあって、ホルテンシア(Hortensia)、アマシア(Amasia)などという錚々《そうそう》たる者もあったとか。しかるに、アフラニア(Afrania)という女子弁護人に、何か醜行があったために、忽ち女性弁護士禁止の説を惹き起し、遂にテオドシウス帝(Theodosius)をして、その法典中に禁令を加えしむるに至った。この論法をもって推すならば、男子にも弁護士業を禁ずることにせねばなるまい。
[#改ページ]
三七 処分可レ依二腕力一[#「レ一二」は返り点]
「古事談」に次の如き一奇話が載せてある。
覚融《かくゆう》僧正臨終の時に、弟子共が、遺財の処分を定め置きくれよと、頻りに迫った。僧正は一代の高徳、今や涅槃《ねはん》の境に入って、復《ま》た世塵の来り触るるを許さないのであるが、余りにうるさく勧められるので、遂に筆硯《ひっけん》を命じて一書を作り、これを衆弟子に授けて後《の》ち入寂《にゅうじゃく》した。衆弟子、その遺書に基づいて分配をなさんものと、打寄ってこれを開き見れば、定めて数箇条の定め書と思いの外、
[#ここから2字下げ、「レ一二」は返り点]
処分可レ依二腕力一
[#ここで字下げ終わり]
の六字を見るのみであった。衆僧これには大いに閉口し、まさかに掴《つか》み合いをする訳にも往かぬと、互に円い頭を悩しているとのことが、白河法皇の叡聞《えいぶん》に達し、遂に勅裁をもって
前へ
次へ
全30ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
穂積 陳重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング