典より六百九年後である。マヌーの法典の時代についても種々の説があり、婆羅門《ばらもん》信徒は世界創造の時に出来たとの伝説を信じており、また近頃の学者は紀元後であるという人さえあるが、紀元前一〇〇〇年前後であるという説が頗る多い。今仮りにこれに拠って見るもハムムラビ法典はマヌー法典より約一千百年前である。またギリシアのリクルグスの法律は紀元前八〇〇年の頃であるから、ハムムラビ法典に後るること約一千三百年、ソロンの法律は紀元前六〇〇年の頃であるから、ハムムラビ法典に後るること約一千五百年、ゴルチーン法は紀元前五〇〇年代のものとすればハムムラビ法典に後るること約一千六百年である。ローマの十二表法は紀元前四五〇年であるから、ハムムラビ法典に後るること約一千六百五十年である。
かくの如くハムムラビ法典はこれらの有名な古代諸法典より五、六百年乃至千年以上も古いものであって、世界最古の法典というべきものであるが、しかしこれはただその年代よりいうのである。もし今該法典の内容よりこれを観察するときは、四千年の古代にバビロンの開化が既に頗る進歩しておったことは、明らかであって、この法典の体裁および法規も決して最原始的のものということは出来ぬ。故に、今後において、このハムムラビ法典よりなお一層古い法律が発見せられぬとも限らぬのである。
七 ハムムラビ王
この大立法者ハムムラビ(Hammurabi, Chammurabi, Khammurabi, Ammurabi, Ammurpi)はバビロン第一統第六世の王であって、旧約全書のアムラフェール(Amraphel)と同人であるということである。同王の治世の時代およびその年数は精確には分っておらぬ。当時は建国または王の即位などの出来事から年数を計算するということがなく、ただ年々の最も著しい出来事からその年の号を附け、例えば「洪水の年」「エラム戦争の年」「日神殿建立の年」というように書いてあるから、発掘せられた「約板」などに書いてある年号についても、学者の解釈が一致しておらぬ。しかしながら、多数の学者は同王の治世は西暦紀元前二二五〇年の頃であるとし、即ち今を距ること約四千百余年以前にバビロンを統治した人であると言うておる。中には紀元前二一〇〇年の頃であると言う人もあり、また紀元前二一三〇年より二〇八八年までであると言うておる人もある。随ってその治世についても、多数の学者は五十五年であると言うておるが、四十三年であると言う人もある。我輩門外漢は素《もと》よりその孰《いず》れに適従すべきかを知ることは出来ぬが、かような事は必ずしも多数説が正しいということは出来ぬは勿論である。一通り読んでみたところに依れば、二一〇〇年代説および四十三年説の方が論拠が強いように見える。ハムムラビ王は即位以後三十年間は鋭意治平の術を講じ、祭祀を尚《たっと》び、民の訟を聴き、運河を通ずるなどの事をなし、民心和し国力充実したる後ち、第三十年目に至って四隣征服の役《えき》を起し、数年にしてバビロン全部を統一した。この征服戦以前においては、ハムムラビの王国はバビロンの北部一半であったが、この戦争のためその南部諸市府を併せたのである。ハムムラビ王の石柱法典は、このバビロン統一戦争の後における治安策および統一策のために制定せられたもので、王の晩年の事業であるということは、法典の前文中に征服した諸市府の名が記してあるのみならず、後文中に王が既に老年に達していると言うておる文章が二箇所あるに拠っても明らかである。
八 ハムムラビ法典とモーゼの法律
ハムムラビ法典の発見後、比較法学上種々の新問題を惹起《ひきおこ》したが、その中で最も重要なものは、ハムムラビ法典とモーゼの法律との関係である。或はモーゼの法律は直接にハムムラビ法典を継受したものであるといい(直接継受説)、或は間接にアラビヤ人を通じて継受したものであるといい(間接継受説)、或はまた両法共にアラビヤ古法より来ったものであるといい(共同法源説)、また或はこの二法の類似は往々古代法において観るところの暗合に過ぎぬと言うておる者もある(暗合説)。その他前挙四種の説中にも種々の異論があって、未だ学者の説が一致してはおらぬが、多数の学者はこの二法の間には本末または共源の関係があることを認めているようである。
この二法典の関係を論定するは、一般の法学の知識の外、特にセミチック語、旧約全書の歴史などに通ぜねば出来ぬ事であるし、且つこの夜話の目的としては余り精微の点に入り過ぎるから、ここにはその論点を紹介することを略するが、この問題の詳細を知らんとする者は、左の諸書に就いて見るがよかろう。
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Johannes Jeremias, Moses und Hammurabi. 1903.
S. Orelli, Das Gesetz Hammurabis und die Thora Israels. 1903.
Dav. H. Muller[「u」はウムラウト(¨)付き], Die Gesetze Hammurabis und ihr Verhaltniss[「a」はウムラウト(¨)付き] zur Mosaischen Gesetzgebung etc. 1903.
Hubert Grimme, Das Gesetz Chammurabis und Moses. 1903.
S. A. Cook, The Laws of Moses and the Code of Hammurabi. 1903.
中田薫博士「ハンムラビ法典とモーゼ法との比較研究」(『史学雑誌』第二四編第二号所載論文)
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九 ハムムラビ法典に関する書籍
ハムムラビ法典に関する書籍は、一九〇二年にシェール氏がその原文の写真版と翻訳とを出版して以来、諸国において出版されたものが極めて多いが、我輩の持っているものおよび知るところのものは、前に挙げたものの外、次の如くである。
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Scheil, Delegation en Perse. 1902.[#「Delegation」の2つの「e」はアクサン(`)付き]
H. Winckler, Die Gesetze Hammurabis. 1903.
C. H. W. Johns, The Oldest Code of Laws in the World. 1903.
Georg Cohn, Die Gesetze Hammurabis. 1903.
D. H. Muller[「u」はウムラウト(¨)付き], Die Gesetze Hammurabis. 1903.
Robert Francis Harper, The Code of Hammurabi, King of Babylon. 1904.
D. H. Muller[「u」はウムラウト(¨)付き], Syrisch−Roemische Rechtsbuch und Hammurabi. 1905.
Chilperic Edwards, The Oldest Laws in the World. 1906.
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右に挙げた書名に依って見ても、一九〇三年に出来たものが最も多いことが分る。なおこの他にも諸国の学者の研究の結果がその後ち沢山公にせられたことであろうと思う。
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四三 ゴルチーンの石壁法
一 発見の前駆
ギリシアのクレート島はヨーロッパにおいて最も古く法制の備った所として有名である。ゴルチーンは、クノッセ、ソクトースと相並んで同島の三大都府の一と称せられた市府であって、古代は貴族政治が行われておって、一定の貴族が交代して政《まつりごと》を行い、立法権は市民議会に属し、司法権は同島を数個の裁判区に分って単独判事がこれを行っておったものである。
一八六三年、フランスのトノン氏(L'abbe Thenon)[#「L'abbe」の「e」はアクサン(´)付き]は、このクレート島において古文を彫刻してある一個の石片を獲たが、氏はその文を「考古学雑誌」(Revue archeologique)[#「arche−」の「e」はアクサン(´)付き]に掲載してこれを学界に紹介した。この石片は後ちにルーブル博物館に陳列せられたが、これに刻んである文辞は、断片的ではあるけれども、養子に関する法律の規定であって、多分有名なるゴルチーン法の一部であろうとの考証を与えられた。
しかるにこの後ち十七年を経て、アウッスーリエー氏(Haussoulier)もまた二個の石片を発見して、これを「ブュルタン・ド・コルルスポンダンス・エレニーク」(Bulletin de correspondance hellenique)[#「helle−」の2番目の「e」はアクサン(´)付き]誌上において公表した。この二片は甚だしく毀損しているが、その一片には婚約に関する規定を記し、他の一片は殆んど全部難読であるけれども、前後の関係から推せば、これには女戸主の財産に関する規定を記しているものらしく考えられる。
この前後二回の発見は、あたかもペルシアでアッスルバニパル王の図書館の遺跡を発掘した際に発見した石片が、ハムムラビ法典発見の先駆となった如くに、その後ち学者は必ずやどこかにおいてこの法律の全部を発見することが出来るに違いないとの希望を抱くようになった。
二 壁法の発見
一八八四年の夏、クレート島のハギオイ・デカ(Hagioi Deka)なるゴルチーン市の古址においてレートホイズ河から引いた水車溝の中に、偶然にも古文字の彫刻してある壁石が現われた。その石は大なる石壁の一部であるように見えたが、水車の持主のマノリス・エリヤキス(Manolis Eliakis)が、この由をフレデリコ・ハルブヘール博士(Dr. Frederico Halbherr)に話すと、博士は非常に悦んで、直ちにその壁の発掘およびその古文字の謄写に着手し、秋に至ってエルンスト・ファブリチウス博士(Dr. Ernst Fabricius)の協力を得て、竟《つい》にその石壁の全部の発掘を終り、また石壁に彫刻せられている法文の謄写を完了するに至った。しかのみならず、さきに発掘せられた数個の石片は、実にこの石壁の破片であって、トノンの発見した石片の文は、その法律の第五十八条乃至第六十条であり、アウッスーリエーの発見した二片は、第三十九条と第四十八条であるということが分ることとなった。しかしながら、この石壁中にはなお数個の石片の欠失しているものがある。それは、多分さきに水車溝を掘った時に取り除いて、その後に失われたものであろう。この欠損あるがために、法文の全部を回復することの出来ぬのは残念なことである。
この石壁法の法文を先ず世に公にした者はファブリチウス博士である。氏は「アテネ、ドイツ考古学雑誌記事」(Mitteilungen des deutschen archaologischen[二つ目の「a」はウムラウト(¨)付き] Instituts zu Athen.)にその法文を掲載したが、これに亜《つ》いでイタリヤのドメニコ・コムパレッチ教授(Prof. Domenico Comparetti)もまたハルブヘールおよびファブリチウス両氏と協議の上イタリヤにおいてこれを公にした。かくして、この石壁法は、爾来欧洲諸国の学者の研究の好題目となったが、ことにドイツにおいてはこれに関する有名な著書も多く現われた。その考証の結果は多少の異同はあるが、諸説の一致するところに依って、この石壁法の大体を述べてみれば、次の如きものである。
三 石壁法
発掘された石壁は、元《も》と直径三十三メートルばかりあった円形の大建築物の周囲壁であって、その内面に法文が牛歩状(bustrophedon)に彫り付けてあるのである。牛歩状とは右端より始めて横線に左へ走り、左端で旋回して右
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