に進み、右端でまた旋回して左へ進む書き方をいうのであって(ダレストは左より右へ進むのであると言うておる。)(Dareste, La Loi de Gortyne)、あたかも牛が田の畦《あぜ》を鋤《す》くときの歩みのように書くことをいい、よほど古い書き方であるということである。
この彫刻の高さは一メートル七十二サンチで、ちょうど通常人が立って読むに都合のよい位であり、横幅は全体で九メートルばかりである。法文は壁石の合せ目にかかわらず彫刻してあって、全部を十二の縦欄に分ち、各欄毎に五十三乃至五十五行を刻し、各行毎に二十字乃至二十五字があって、文字には赤色の色彩を入れて明白に読めるようにしてある。
右の円館(Tholos)は他の大建築物の一部であったもののようであるが、その北側にも石壁に法律を彫り附けてあるものがある。しかしこれは後で建てたものらしい。当時は法律を銅板に彫り附けて公布する例があったが、この円館は裁判所であったから、その壁に法律を彫り附けてこれを公示してあったものである。
四 石壁法の年代
この石壁法は何人《なんぴと》の作ったものであるか、また如何なる時代に出来たものであるかについては、法文または建物の模様においてこれを確かに証明すべきものがないから、学者の説も未だ一定してはおらぬ。例えば、キルヒホフ(Kirchhoff)はクレートの貨幣の比較からこれを考証して、紀元前五世紀の半ばより古いものではないといい、多数の学者は紀元前四〇〇年位のものであろうといい、またダレストは、法文の書体より紀元前六世紀の頃に制定せられたものであるといい、ブュヒレル(Franz Bucheler[「u」はウムラウト(¨)付き])、ティーテルマン(Ernst Zitelmann)両氏は、プラトーンの「法律論」の後ち「十二表法」の前に出来たもので、エフォロス(Ephoros)の「クレート誌」より二、三代前に出来たものであると言うておる。
この法律の年代の考証論は非常に興味の多いものであるが、また非常に細密の点に渉《わた》るものであるから、これを夜話の題とするには不適当である。が、今ここに素人《しろうと》にも解りやすい一、二点を例示すれば、アリストーテレスと同時代のエフォロスの「クレート誌」には、石壁法で始めて定められた法則の事を書いているから、アリストーテレス時代より前に出来たものであるとのこと。またドシアダス(Dosiadas)の書いている娼妓の事は、石壁法に記してあるものより余程進歩したものであるから、同氏が書を著わした年即ち紀元前二八〇年より以前に制定せられたものであるとのこと。その他、形式主義の未だ起っておらぬこと、その規定の体裁が因果法であって命令法でないことなど、この石壁法は頗る原始法の属性に富んでいるが、しかしまた一方よりこれを観るときは、私法規定の成文法となっていること、規定の抽象的なること、道徳法律の混合しておらぬことなど、既に原始的法律の性質を脱しているもののように見える点も少なくはない。しかし、この法律の古いことを説く学者の言うところに依れば、クレート島は昔から法律をもって名高い所であって、ミノスが神から法律を受けたという伝説があり、ソロン、リクルグスの如き大立法家もクレート島に渡って法律を調べたといい、またリクルグスは同島から詩人を聘《め》して法律を作らしめたという伝説もある位であるから、古代より法律思想は余程進んでおったものである。故にこれらの特徴は、決してこの法律の古いことを妨げるものではないと言うておる。
五 石壁の内容
ゴルチーンの石壁法は、前にも言うた通り十二欄に分ってあるから、往々これを「ゴルチーン十二表法」と号する学者もある。この石壁法は一個の法典の如きものであるけれども、国法の全部または一種類の法律の全部を含んでいるものではない。この法律の内容は私法的規定であって、ことに親族法、相続法および奴隷法に関するものが多い。故に純刑法その他公法的規定が全く掲げられておらぬばかりでなく、私法さえもその一部に限られている。これは多分この法律が裁判所の壁法であるから、その裁判所の管轄に属している事件、即ちこの場合においては人事法だけを規定したものであろうということである。
かくの如く、石壁法は私法の一部だけを掲げたものであって、その他の部分は旧法をそのままに存したものであり、またこの石壁法中にも、旧法をそのままに成文法にしたものと、旧法を改めたものとがあることは、法文中にも現われている。
なおゴルチーン石壁法について悉《くわ》しく知ろうと思う者は、次の書に就いて読むがよかろう。
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Bucheler[「u」はウムラウト(¨)付き] und Zitelmann, Das Recht von Gortyn.
Baunack, Die Inschrift von Gortyn.
Lewy, Altes Stadtrecht von Gortyn.
Bernhoft[「o」はウムラウト(¨)付き], Die Inschrift von Gortyn.
Simon, Die Inschrift von Gortyn.
Dareste, La Loi de Gortyn.
[#ここで字下げ終わり]
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四四 エジェリヤの涙泉
ローマの市外、程遠からぬ近郊に、その名もゆかしき「神聖の森」(Bosco Sacro)という一つの森が今なお保存せられてある。千年の老樹は鬱蒼《うっそう》として昼なお暗きまでに繁茂しているが、その一部分の懸崖をなしている処に、瓦磚《がせん》を積み上げて作られた一つの瓦壁がある。この瓦壁の中央のやや凹《くぼ》みたる処に横臥したる一女神の像を安置してあるが、鮮苔《せんたい》いたずらに壁上に青くして千載の昔を忍ばしむるが如く、神像の手と首は既に欠け失われて、うたた世運の変遷を歎ずるが如くに見えている。女神像の下より珊々《さんさん》の音を立てて流れ落つる三条の清水、これが即ち世に名高いエジェリヤの涙泉で、神像は言うまでもなく、エジェリヤの像である。
宗教的立法に依って後の大ローマ帝国の基礎を固めたかのヌーマ王が、女神エジェリヤの恋愛を受けてしばしばカメーネの森(水神の森)で密会したという神秘的恋物語の旧跡は即ちこのBosco Sacroであって、ここでヌーマは女神の教に依って、その礼法を制定したのだと今に至るまで言い伝えられている。
ローマの建国は、たといロムルスの兵威と戦勝とに依ること多かったとしても、これに次ぐにヌーマの立法をもってするに非《あら》ずんば、到底他日の世界帝国の基を開くことが出来なかったに相違あるまい。兵に依って創業し、法に依って守成するものは、その国必ず永く栄える。ヌーマのローマにおけるが如きも、また恐らくはその一例となすべきであろう。
ヌーマはもと被征服者たるサビーニ人であった。しかるに初代ロムルス王の歿した後ち、市民の黙止《もくし》難き推戴に依って遂に王位に即いたが、勇悍《ゆうかん》にして粗野なる人民を統御するには、信仰と法制との力に依らねばならぬとは、彼が夙《はや》くより気附いたところであって、彼はその守成策として、主として宗教的典礼を制定して、民をしてこれに依らしめることに努めたものと思われる。一体、神威を仮りて法の力を強くし、これに依って粗野不逞の人民を規則の下に統率制馭しようとすることは、古代の英雄の慣用手段であって、彼のハムムラビやモーゼやミノスやリクルグスなどの如き大立法者もまたこの手段を執っているのである。
伝うるところに拠れば、ヌーマ王はピタゴルスの哲学を修めたともいうが、またピタゴルスという人の教えを受けて宗教的礼法を定めたものだともいう。とにかく、表向きにはヌーマはローマの郊外なる「水神の森」において女神エジェリヤに会い、その垂教に依って礼法を定めたのであると、自ら称していたということである。
かかる託言から生れ出たのは、実に次の如きヌーマ、エジェリヤの恋物語である。ヌーマ王は女神エジェリヤの切なる寵愛を受けて、しばしばかのカメーネの林中にて人目を忍ぶ会合を行い、ここにて礼法の制定について種々女神の教えを受けておったのであったが、人生限りあり、歓楽遂に久しからずして、ヌーマ王は竟《つい》に崩御した。女神エジェリヤは始めて人界の哀別離苦を知り、天にあこがれ地にかこちて、幾夜この森中に泣き明した。果ては泣きの涙にその身も溶けて林中の一湧泉となり、悲痛の涙は滾々《こんこん》として千載に尽くることなく、今もなお一つの清泉となって女神像下に流れ出《い》づるもの、即ちこのエジェリヤの涙泉であると伝えている。
回顧すれば既に十有余年の前、明治三十二年の秋風吹き初むる頃、我輩がローマに客となっておった折の事であるが、一日我輩は岡田朝太郎博士ら数名とともにこのエジェリヤの遺跡というを訪ねた事があった。清冽《せいれつ》掬《きく》するに堪えたる涙泉の前に立って、我輩は巻煙草を燻《くゆ》らしながら得意にエジェリヤの昔譚《むかしものがたり》を同行の諸氏に語りつつ、時の移るを忘るるほどであったが、いざ帰ろうという時になって、先ほど煙草の口を切ったはずのナイフの見えぬのに気が付いた。ここか、かしこかと、残る隈なく一同で尋ねて見たけれども、遂に見当らぬので、結局涙泉の中に落したのであろうということに定った。この時岡田博士、即座に、
エジェリヤがワイフ気取りの聖森《ひじりもり》
ナイフ落してシクジリの森
[#改ページ]
四五 伊達氏の法典「塵芥集」
「塵芥集」とは奥州の伊達家十三代稙宗が天文五年に制定した法典の名である。稙宗《たねむね》は勇武絶倫の将であって、しばしば隣国と戦って大いに捷《か》ち、将軍足利義稙より偏諱《へんき》を賜うて稙宗と名乗り、奥州の探題となって東北を威服した人である。稙宗老年に及んで治平の策を講じ、天文二年に質物の法を定め、同五年に家老評定人らと議して式目一百六十九条を定めた。今伊達家に存するこの式目の原本には「塵芥集」という題号が附けてあって、「仙台文庫叢書」第二輯にも収められている。同叢書の出版者作並清亮氏の序に拠れば、この題号は式目制定当時につけられたように見えるが、さるにても、何故かかる重要なる文書にかかる軽微なる名を附けたものであろうか。色々と考えてみたが、何分了解することが出来ぬ。「大日本古文書」家わけ第三、伊達家文書巻之一に収めたものは、表紙に「稙宗様御家老 御成敗式目」とあり、条目の始めに「塵芥集」と題してあるが、この原本は後に写したものらしいから、「御成敗式目」とは「貞永《じょうえい》式目」に倣《なろ》うた後ちの称呼らしい。
或はこの書の一本の奥書に、
[#ここから2字下げ、「此一部」の「一」をのぞき、「レ一二」は返り点]
此一部|者《は》、伊達十三代稙宗朝臣|所レ令レ録《ろくせしむるところ》、在判|并《ならびに》家臣之連判、誠《まことに》可二重宝一之書、頃村田善兵衛藤原親重令二進上一之処、破壊之間、令[#返り点の「下」あり]二畑中助三藤原経吉一新写[#返り点の「上」あり]、加二奥書一也。
于時延宝七年季冬朔日 伊達十九代左少将藤原朝臣綱村(花押)
[#ここで字下げ終わり]
とあるに依り、一旦塵芥に埋れたる反古の如きものであったから、後に至ってかく名附けたものであろうと言う人もあるが、それにしても、祖先の定めたる治国の宝典に、子孫または家臣がかくの如き題号をつけるとは、合点の行かぬことである。
この法典には二つの特色がある。その一は、「塵芥集」は全部一百六十九条よりなり、「貞永《じょうえい》式目」に比してその条数三倍以上であるから、武家の法典中最も浩瀚《こうかん》にして且つ最も周密なるものであること。その二は、この条目を仮名で書いてあることである。当時の法令は鎌倉風の異体の漢文多く、仮名を交えたものでも、漢字を用いることが極
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