めて多かったが、この条目は殆んど全部仮名を用いてある。「大日本古文書」に収めてあるものは、漢字が割合に多いが、これは原本を謄写した際に改めたものらしい。あるいは当時の官民中漢字に通ぜざる者が多かったから、通読了解に便ずる立法者の用意に出でたものであるかも知れぬ。
稙宗がこの法令を制定するに当って、その体裁を貞永式目に倣うたことは、貞永式目に、
[#ここから2字下げ、「レ一二」は返り点]
於二先々成敗一者、不レ論二理非一、不レ及二|改沙汰《あらためざた》一、至二自今以後一可レ守二此状一也。
[#ここで字下げ終わり]
とあるに倣うて、その巻首に、
[#ここから2字下げ]
せん/\のせいはいにおゐてハ、りひをたゝすにをよハす、いまよりのちハ、この状をあひまもり、他事にましハるへからす、
[#ここで字下げ終わり]
と記し、神社の事を冒頭に置き、また巻尾の起請文も貞永式目のと殆んど同一の文を用い、終りに数行の増補をなしたるのみなるに依りてこれを知ることが出来る。しかしその規定の内容に至っては、概《おおむ》ね創設に係り、貞永式目を踏襲した如く見えるものは少ないようである。ことに私法に関する規定は比較的に多く、売買、貸借、質入、土地境界、婚姻、損害賠償等の規定は頗る周密で、数十条に上っている。これらもまたこの律書の特色ということが出来ると思う。
[#改ページ]
四六 山本大膳の五人組帳
五人組の法令は通常五人組帳の前書としてこれを載せ、定期にこれを人民に読み聞かせ、その奥書に、
[#ここから2字下げ、「一箇条」の「一」をのぞき「レ一二」は返り点]
一箇条宛致二合点一、急度《きっと》相守可レ申候、若此旨相背候はば、如何様《いかよう》の曲事《くせごと》にも可レ被二仰付一云々。
[#ここで字下げ終わり]
というような誓詞を記し、名主、百姓代、組頭等これに捺印《なついん》したものである。
五人組帳の起原は明らかでないが、寛文年間には五人組帳なるものがあったことは確かである。この五人組の規則は、五人組の名前を記してある帳簿の前に載せてあるから、通常これを「五人組帳前書」と称した。この前書の条数は、年ごとに増加し、ことに元禄以後追々と多くなったようである。我輩の蔵する元禄年間の五人組帳前書は僅に二十三箇条に過ぎぬが、享保年間の五人組帳前書は六十四箇条ある。この後ち天保七年に至って、幕府の代官の山本大膳という人が、享保の五人組帳前書を増補修正して百四十五箇条よりなる五人組規則を定めたが、これが即ち有名なる山本大膳五人組帳なるものである。
この山本大膳は江戸駿河台鈴木町に住んでおって、累代御代官を勤め、その人となり敦厚《とんこう》にして、忠孝を勧め、勤倹を励まし、治水に功績あるなど、当時頗る令名のあった人である。我輩の蔵する山本大膳五人組帳は、佐倉の藩士宮崎重富氏が天保十年に手写して愛蔵しておったもので、同氏が巻尾に識している語を見ても、当時山本大膳の五人組帳が世に重んぜられていた一斑を知ることが出来る。今その文を左に記そう。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ、「一日」「一小冊」「一通」の「一」をのぞいて「レ一二」は返り点]
天保|己亥《きがい》、春予以二所レ摂金穀之事一、奔二[#返り点の「二」の右横に縦棒あり]命於江都一、寓二龍口上邸中一、一日奉レ謁二
君公一、啓二我所レ職封内民事一、乃
君公出二一小冊一、自手授レ之|曰《いわく》、此県令山本大膳|上梓《じょうし》所レ蔵五人組牒者、而農政之粋且精、未レ有二過レ之者一也、汝齎二[#返り点の「二」の右横に縦棒あり]帰佐倉一、示二諸同僚及属官一、可二以重珍一也、予拝伏捧持而退、既而帰二佐倉一、如二
君命一遂以二冊子一置二之官庁一、別手二[#返り点の「二」の右横に縦棒あり]写一通一置二坐右一、実我
公重二民事一之盛意、而可レ謂二臣僚不レ啻、封内民人大幸福一也、因記《よって》二其事於冊尾一云。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
四七 大木司法卿の造語造字案
法は国民意識の表現であるという位であるから、一国の法を他国に継受することは、決して容易の事ではなく、多くの心労と、多くの歳月とをもって漸《ようや》くその民情に適し、その時要《じよう》に応ずるだけを継受することが出来るものである。しかるに、我明治維新当時の大政治家連中は、過去には回天の事業を仕遂げた経験があり、現在にはかつて夢想だもせざりし泰西の文化を観《み》、将来には条約改正の必要があったので、一挙して能く彼の文物制度を我邦に移植することが出来るものと信じていたようである。かの江藤司法卿がフランス民法を翻訳して我民法としようとした如きは、就中《なかんずく》最も大胆なものであるが、その後ち大木司法卿もまた泰西の法律を我国に輸入するには、訳語を作るの困難があるのみならず、その作った訳語は、素《も》と彼にあって我にない事物を指すのであるから、どうせ我国民に取っては新語である。故に彼の語の発音をそのままに我に取る方が彼我相通じてよいから、いっそ新字を製して直ちにこれに原音を発せしめて、原語と同視せしめる方がよいと考えられた。そこで省内に委員を置き、当時支那音に通じたる鄭永寧氏等をして法律語の新字を作らしめることとなったが、委員の案は明治十二年になり、その結果は同十六年に「法律語彙」と題して出版せられることとなった。同書は実に一千百七十余頁の大冊で、法律語をabcの順に並べ、これに訳語または新語、新字を附し、本義、釈解、参照をも添えてあって、実に本邦法律史上無類の奇書である。この書に載せてある新法律語およびその新字を作った標準については、「音釈字例」と題して鄭永寧氏が巻頭に記されたものの中に左の如く説明してある。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
一、茲《ここ》ニ堂諭ヲ奉シ、支那字ヲ用テ、法国律語ノ音ヲ釈ス、其|旨趣《しいしゅ》ハ、凡《およそ》原語ノ訳シ難キ者、及ビ之ヲ訳スルモ、竟《つい》ニ其義ヲ尽シ得ザル者ハ、皆仮リニ意訳ヲ下シ、別ニ漢字ヲ以テ、原字ノ音ヲ照綴《しょうてい》シ、更ニ之ヲ約併シテ、二字或ハ一字ニ帰納シ、其漢音ニ吻合《ふんごう》スルヲ以テ、洋音ヲ発シ、看者ノ之ヲ視ル、猶《なお》原語ヲ視ル如クナラシム、其漸次ニ約併セルハ、簡捷ヲ尚《とうと》ブ所以ナリ。
一、一字卜為セシ者、皆新様ニ似タレドモ、敢テ古人製字ノ法ヲ倣フニ非ズ、其旁画、動《やや》モスレバ疑似ニ渉ルヲ以テ、※[#「※」は「□冠」、168−1]※[#「※」は「□偏」、168−1]等ノ片爿ヲ加ヘ、故《ことさ》ラニ字形ヲ乱シ、以テ真字ト分別アルヲ示ス、且此字ニ音無ク義無シ、即原語ノ音ヲ縮メテ、此字ノ音卜為ス者ナリ。
一、新字ノ頭ニ、※[#「※」は「□冠」、168−4]アル者ハ、亜《ア》頭ノ語ナリ、他ノエ、イ、※[#「※」は「□偏」、168−4]、ユ、モ埃《エ》伊《イ》阿《オ》兪《ユ》頭ノ語ニシテ、<Aル者ハ、匐《べ》以下ノ単字頭ト知ルベシ。
[#ここで字下げ終わり]
今、一例を挙げて見ると、「a」頭の語から作った新字には、皆「※[#※は□冠、168−6]」冠が附けてある。例えば、
[#ここから2字下げ]
Acte 亜克土《アクト》 行為、証書、 ※[#「※」は「□冠に軋」、168−8]《アツ》
Action 亜克孫《アクシ[#「シ」の右上に小さな四角あり]オン》、 株権、訴権、 ※[#「※」は「□冠に温」、168−9]《オン》
Adoption 亜陀不孫《アドプシ[#「シ」の右上に小さな四角あり]オン》、遏噴《アプオン》、 養子、 ※[#「※」は「□冠に恩」、168−10]《アオン》
[#ここで字下げ終わり]
また「e」頭の語から作った新字には「※[#「※」は「工偏の横二画を短くしたようなもの」、168−11]」の篇が附けてある。
[#ここから2字下げ]
Expropriation 埃※[#「※」は「尅」の寸を土に変えたもの、168−12]不※[#※は「口+羅」、第3水準1−15−31、168−12]不略孫《エクスプロプリアシ[#「シ」の右上に小さな四角あり]オン》、渥礬《ウーパン》、 引揚 ※[#「※」は「工偏の横二画を短くしたようなもの+(「しんにょう」+「袁」)」、168−12]《エアン》
Epave 埃叭附《エパヴ》、 紛失物、 ※[#「※」は、「「工偏の横二画を短くしたようなもの+奥の下に土を置いたもの」、168−13]《アウ》
Exception 埃※[#「※」は「尅の寸を土に変えたもの」、169−1]色不孫《エクゼプシ[#「シ」の右上に小さな四角あり]オン》、易損《エクスオン》、 例外、 ※[#「※」は工偏の横二画を短くしたようなもの+竹冠の下に「均」を置いたもの」、169−1]《イウン》
[#ここで字下げ終わり]
また「i」頭の字は皆「イ」篇が附けてある。例えば、
[#ここから2字下げ]
Indivisibilite[#「e」はアクサン(´)付き] 因地微逝皮重太《インデイヴイジビリテ》 、維誓《ウエイヅエイ》、 不可分、 ※[#「※」は「人偏+貰の右横に力を置いたもの」、169−3]《イー》
[#ここで字下げ終わり]
などのようである。「u」頭の字は「ユ」冠が附けてある。例えば、
[#ここから2字下げ]
Unilateral[#「e」はアクサン(´)付き] 愈尼剌太喇立《ユニラテ※[#「※」は半濁音符付きのラ]ル》、揶他《ヤーター》、 偏単了、 ※[#「※」は、「ユの下に鴉を置いたもの」、169−5]《ユアー》
[#ここで字下げ終わり]
などのようである。その他は悉《ことごと》く「※[#「※」は「□偏」、169−6]」篇が附けてある。例えば、
[#ここから2字下げ]
Bail 友揖《バイ》、 賃貸、 ※[#「※」は「□+敗」、169−7]《バイ》
Donation 陀納孫《ドナシ[#「シ」の右上に小さな四角あり]オン》、 贈与、 ※[#「※」は「□+草冠の下に屯(上に突き出ない字体)」169−8]を置いたもの]《ドアン》
[#ここで字下げ終わり]
などのようである。当時このような事が実行せられようと思うて、数年間多大の労力と費用とを費して、大きな餅を画いたのは、余程面白い現象といわねばならぬ。
[#改ページ]
四八 法律の学語
現時用いている法律学の用語は、多くはその源を西洋の学語に発しておって、固有の邦語または漢語に基づいたものは極めて少ないから、洋学の渡来以後、これを翻訳して我邦の学語を鋳造するには、西学輸入の率先者たる諸先輩の骨折はなかなか大したものであった。
無精者を罵って「竪のものを横にさえしない」というが、堅のものを横にしたり、横のものを竪にしたりするほど面倒な仕事はないとは、和田垣博士が「吐雲録」中に載せられた名言である。蘭学者がその始め蘭書を翻訳したときの困難は勿論非常なものであったが、明治の初年における法政学者が、始めて法政の学語を作った苦心も、また実に一通りではなかった。就中《なかんずく》泰西法学の輸入および法政学語の翻訳鋳造については、吾人は津田真道、西周、加藤弘之、箕作麟祥の四先生に負うところが最も多い。津田先生の「泰西国法論」、西先生の「万国公法」、加藤先生の「立憲政体略」「真政大意」「国体新論」および「国法汎論」、箕作先生の「仏蘭西六法」の翻訳などに依って、明治十年前後には邦語で泰西の法律を説明することは辛《かろ》うじて出来るようになったが、明治二十年頃までは、邦語で法律の学理を講述することはまだ随分難儀の事であった。
我輩が明治十四年に東京大学の講師となった時分は、教科は大概外国語を用いておって、或は学生に外国書の教科書を授けてこれに拠って教授したり、或は英語で講義するという有様であった。それ故、邦語で法律学の全部の講述が出来るようになる日が一日も早く来なければならぬということを感じて、先ず法学通論より始めて、年々一二科目ずつ邦語の講義を増し、明治二十年
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