の頃に至って、始めて用語も大体定まり、不完全ながら諸科目ともに邦語をもって講義をすることが出来るようになったのであった。
かくの如く法学をナショナライズするには、用語を定めるのが第一の急務であるが、諸先輩の定められた学語だけでは不足でもあり、また改むべきものも尠《すく》なくなかったので、明治十六年の頃から、我輩は宮崎道三郎、菊池武夫、栗塚省吾、木下広次、土方寧の諸君と申合わせて、法律学語の選定会を催したのであった。その頃九段下の玉川堂が筆屋と貸席とを兼ねておったが、その一室を借りて、ここで上記の諸君と毎週一回以上集会して訳語を選定したのであった。また一方にあっては、明治十六年から大学法学部に別課なるものを設けて、総《す》べて邦語を用いて教授することを試みた。
かような経験があるから、我輩は法政学語の由来については、一通りならぬ興味を持っている。故に今、我輩の記憶を辿って、重《おも》なる用語の由来について、次に話してみようと思う。勿論、中には記憶違いもあろうし、また遺漏も少なくあるまいが、これに依って法律継受の経路の一端を窺うことは出来るであろうと思うのである。
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四九 法理学
明治三年閏十月の大学南校規則には「法科理論」となっている。あまり悪い名称ではない。我邦の最初の留学生で泰西法律学の開祖の一人なる西周助(周《あまね》)先生は、文久年間にオランダで学ばれた学科の中Natuurregtを「性法学」と訳しておられる。司法省の法学校では「性法」といい、またフランス法派の人はこの学科を「自然法」とも言うて居った。明治七年に始めて東京開成学校に法学科を設けられた時には、この学科を置かれなんだが、翌年に「法論」という名称でこれを置かれた。それから明治十四年に我輩がこの学科を受持つようになって考えてみると、仏家に「法談」という言葉もあって、「法論」というと、何だか御談義のようにも聞えて、どうも少し抹香臭いように感じ、且つ学名としては「論」の字が気に入らなんだから、これを「法理学」と改めた。尤もRechtsphilosophieを邦訳して「法律哲学」としようかとも思ったが、哲学というと、世間には往々いわゆる形而上学《メタフィジックス》に限られているように思っている者もあるから、如何なる学派の人がこの学科を受持っても差支ない名称を選んで、法理学としたのである。
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五〇 憲法
憲法という語は昔から広く用いられており、往々諸書にも見えているが、就中聖徳太子の「十七条憲法」は最も名高いものである。しかし近年に至るまでは、現今のように国家の根本法という意義には用いられておらなかった。徳川時代に「憲法部類」という有名な書がある。これは写本で行われて二種あるが、いずれも享保以下の諸法令を分類輯録したもので、その一は明和の頃までに至り、第一巻「殿中向」「御城内」「下馬」より第十巻「諸御書付」「諸奉公人」に至り、総べての法規を載せ、他の一は安永九年に至るまでの法令を載せ、養子、家督、縁組などの事より金銀銭、空米切手などの目《もく》に至っている。また同じく有名な書で「憲法類集」というのがあるが、これは天明七年から文政十二年に至る法令を分類編輯したもので、第一巻「武家諸法度」「殿中向」「疱瘡麻疹」「風邪」などから始まって、第十五巻「借金出入」「かたり并盗賊」「異国船」などに終っている。これらの分類目を観ても、当時のいわゆる「憲法」は広い意味に使ってあって、総べての法規を含んでいたということが知られるのである。
明治時代になっても、明法寮《めいほうりょう》で編纂した「憲法類編」という書物があるが、これは現今の「法令全書」のようなものである。また明治十年から司法省で「憲法志料」が出版になったが、これは故木村|正辞《まさこと》博士の編纂で、推古天皇から後陽成天皇の慶長年中に至るまでの法文を集めたもので、「総類」「文武」「神官僧侶」「農工商」に分類してあって、これまた一般に法令という意味に使ってある。
憲法という重々しい漢語を用うると、あるいは重要なる法律を指すように聞こえぬでもないが、決して現今のように国家の根本法のみを指すものではなかった。故に西洋の法律学が本邦に渡って来たときに、学者は彼のコンスチチューシオン、フェルファッスングなどの語に当てる新語を鋳造する必要があった。支那にもこれに相当する訳語がなかったものと見えて、安政四年に上海で出版になった米人|裨治文《ブリッジメン》氏著の「聯邦志略」にも、合衆国のコンスチチューシオンを「世守成規」と訳してある。我邦においては、慶応二年に出版になった福沢氏の「西洋事情」には、合衆国のコンスチチューシオンを合衆国「律例」と訳してある。慶応四年に加藤|弘之《ひろゆき》先生の著わされた「立憲政体略」には「国憲」と訳され、明治五年に出版された「国法汎論」にも「国憲」の語を用いられ、「憲法」なる語はかえってGesetz即ち成文法に当ててある。
また慶応四年出版の津田|真道《まみち》先生の「泰西国法論」には「根本律法」または「国制」「朝綱」という語が用いてある。
しからば、憲法なる語を始めて現今の意義に用いたのは誰であるか。それは実に箕作麟祥博士であって、明治六年出版の「フランス六法」の中にコンスチチューシオンを「憲法」と訳されたのである。しかしながら、当時は学者は概《おおむ》ね皆な憲法とは通常の法律を指すものであって、箕作博士の訳語は当っておらぬと言うておった。故に後に帝国憲法起草者の一人となった故井上|毅《こわし》君でさえ明治八年にプロイセン憲法を訳された時には「建国法」なる語を用いられた。明治八年の「東京開成学校一覧」には箕作博士の訳語に依って「憲法」としてあるが、同九年には「国憲」と改まっている。明治十三年の東京大学の学科にもやはり「国憲」となっている。前に言った明治十年司法省出版の「憲法志料」にも憲法を広く法令の意味に使っている。これに拠って見ても、当時箕作博士の用例は、未だ一般に採用せられておらなかったことが分る。
しかるに明治天皇が憲法制定の事を勅定し給い、伊藤博文公が憲法取調の勅命を受けられてより、いよいよ「憲法」なる語がコンスチチューシオン、フェルファッスングなどに相当する語となり、帝国大学においても、明治十九年以来憲法なる語を用いるようになったのである。
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五一 民法
民法という語は津田真道先生(当時真一郎)が慶応四年戊辰の年に創制せられたのである。民法なる語は箕作麟祥博士がフランスのコード・シヴィールの訳語として用いられてから一般に行われるようになったから、我輩は始めこれは箕作博士の鋳造された訳語であると信じておったが、これを同博士に質すと、博士はこれは自分の新案ではなく、津田先生の「泰西国法論」に載せてあるのを採用したのであると答えられた。そこでなお津田先生に質して見ると、同先生は、この語は自分がオランダ語のブュルゲルリーク・レグト(Burgerlyk regt)の訳語として新たに作ったものであると答えられた。法律の訳語は始め諸先輩が案出せられてから、幾度も変った後ちに一定したものが多いが、独り「民法」だけは始めから一度も変ったことがなく、また他の名称が案出されたこともなかったのである。
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五二 国際法
国際法の名称は西洋でも多くの沿革があって、始めは万民法(jus gentium)と混ぜられ、または自然法(jus naturale)の一部として論ぜられ、グローチゥスの「平戦法規論」が出た後ちまでもこの種類の法規に対する独立の名称はなかったのであるが、一六五○年にオクスフォールド大学教授のザウチ(Zouch)博士が jus inter gentes(国民間法)なる名称を附してから特別の名称が出来、仏国においても一七五七年にダゲッソー(D'Aguesseau)が Droit entre les nations または Droit entre les gens(国民間法)なる名称を用い、一七八九年にベンサムが International law なる新語を鋳造し、その後ち一般にこの語またはその訳語が行われるようになったのである。ドイツでは Internationales Recht なる訳語を用うることもあるが、通常は Voelkerrecht なる語を用いている。この語は何人が造ったのであるかは確かに知らぬが、あるいは一八二一年のクリューベルの「ヨーロッパ国際法」(Klueber, Europaisches[「a」はウムラウト(¨)付き] Voelkerrecht)などが最も古い例の一つではないかと思う。
我邦では始めは「万国公法」という名称が一般に行われた。これは米人|丁※[#「※」は「題の頁の代わりに韋」、第4水準2−92−15、182−2]良《ウィリヤム・マーチン》(William Martin)がホウィートンの著書を支那語に翻訳してこれを「万国公法」と題し、同治三年(我元治元年)に出版したのに始まったのである。この書は翌慶応元年に東京大学の祖校なる開成所で翻刻出版せられたが、これまで鎖国独棲しておった我国民は、始めて各国の交通にも条規のあることを知ったのであるから、識者は争うてこの書を読むが如き有様であった。故にこの書は最も広く行われ、この書を註釈しまたは和訳した「和訳万国公法」「万国公法訳義」などの書も広く行われ、また開成所でも丁※[#「※」は「題の頁の代わりに韋」、第4水準2−92−15、182−8]良の「万国公法」を翻刻したのであった。この翌年即ち慶応二年に、同校教授西周助(周)先生がヒツセリングの講義を訳して出版されたが、これも「万国公法」と題せられた。
かくの如く、初め支那において丁※[#「※」は「題の頁の代わりに韋」、第4水準2−92−15、182−11]良が始めてホウィートンのインターナショナル・ローを「万国公法」と訳したのが本《もと》で、この名称は広く我邦にも行われるようになったのであるが、その後ち彼国においてはかえって単に「公法」と称するようになったのである。丁[#「※」は「題の頁の代わりに韋」、第4水準2−92−15、182−13]良が光緒三年(明治十年)にウールジー(Woolsey)のインターナショナル・ローを訳述した時には、さきに用いた「万国公法」なる名称を棄てて「公法便覧」と題し、書中にも「万国公法」なる語を用いずして総べて「公法」と称している。これは多分後に述べる如く我東京開成学校で「万国」の字を避けたと同一の理由で、ウールジーの書中にインターナショナル・ローは耶蘇教国間の通法であって万国共通の法ではないと書いてあるからであろう。訳文にも[#以下の「」内の、「レ一二」は返り点]「若レ謂二之万国公法一、尚未レ見二万国允従一」といい、また「現有之公法、則多出レ於二泰西奉レ教之国、相待而互認之例一」などあり、支那にもまだインターナショナル・ローは行われておらぬから、万国の語を用いなかったのではないかと思われる。その後ち光緒六年(明治十三年)に、同氏がブルンチュリーの Das moderne Voelkerrecht als Rechtsbuch を漢訳したときもこれを「公法会通」と題した。
明治二年出版の「外国交際公法」という書があるが、これは福地源一郎氏がマルテンスの「外交案内」(R. Martens, Diplomatic Guide)を訳したものであるから、この書の題を国際法の名称と見ることは出来ぬ。また明治三年二月に発布された「大学規則」および同年閏十月に定められたる「大学南校規則」にも「万国公法」とあるが、明治七年に東京帝国大学の祖校なる東京開成学校において法学の専門教育を始められた時の規則には「列国交際法」となっておる。当時我邦に舶来しておった国際法の書は殆どホウィートンとウールジーの二書に限っておったが、ウールジーの書は簡明な教科書であ
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