チて、比較的に多く読まれ、しかもその始めにおいてインターナショナル・ローは耶蘇教以外に行われぬと書いてあるから「万国」の字を避け、これに代うるに「列国」をもってしたのであるとの事であった。それより東京開成学校が東京大学となった後ちも、やはり「列国交際法」となっておったが、明治十四年に学科改正を行うた時から「国際法」の語を用いるようにしたのである。
 しからば「国際法」なる名称の創定者は何人《なんぴと》であるかというと、それは実に箕作麟祥博士である。博士は明治六年にウールジーのインターナショナル・ローを訳述せられたが、これを「国際法」と題された。その例言中に、「万国公法」なる名称は、丁[#「※」は「題の頁の代わりに韋」、第4水準2−92−15、184−11]良氏、西氏らの書行われて、「其名広ク世ニ伝布シテ恰《あたか》モ此書普通ノ称タルガ如シ、然レドモ仔細ニ原名ヲ考フル時ハ国際法ノ字|允当《いんとう》ナルニ近キガ故ニ、今改メテ国際法ト名ヅク」といい、なお先輩の命題を空《むなし》うせざらんがために「万国公法」の字を存してこの書の一名とする旨を附記せられたのである。博士の謙遜もさる事ながら、「国際」の語は最もインターナショナルの原語に適当しているから、その創案後殆ど十年の後ち、大学においても学科の公称としてこれを採用することとし、竟《つい》に一般に行わるるに至ったのである。この点においては箕作博士は我邦のベンサムである。
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 五三 国際私法


 国際私法の名称は、その初め支那の同治三年即ち我が元治元年に丁※[#「※」は「題の頁の代わりに韋」、第4水準2−92−15、186−2]良《ウィリヤム・マーチン》の漢訳した「万国公法」の中に「公法私条」という名称を用いたのが始めで、その後ち慶応二年に西周助(周)先生がフヒ[#「ヒ」は小書き]スセリングの講義を訳述して「万国公法」と題して出版したものの中には「万国私権通法」という名称を用いてある。また慶応四年に開成学校から出版された津田真一郎(真道)先生訳述の「泰西国法論」中には「列国庶民私法」とある。明治七年の東京開成学校規則には「列国交際私法」となっているが、津田先生の訳の方が比較的好いようである。その後ち、たしか若山儀一という人が「万国私法」と言う本を出したことがあると記憶する。明治十四年までは大学では「列国交際私法」と言うておったが、この名称は国と国とが交際をするときの私法規則のように聞えるから、同年にこれを「国際私法」と改めたのである。
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 五四 法例の由来


 法例とは、法律適用の通則を蒐集したものを称するのである。我邦では、この語は、明治十三年以来用いられているが、明治三十年の頃、我輩は法典調査会において、法学博士山田|三良《さぶろう》君の補助を得て、現行の法例を起草した際、この法例という題号の由来を調べてみたところ、凡《およ》そ次のようなものであった。
 支那において、刑法法典編纂の端緒は、けだし魏の文侯が、その臣|李※[#「※」は「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49、187−8]《りかい》に命じて、諸国の刑典を集めて、法経六編を制定させたことにあるように思われる。
 李※[#「※」は「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49、187−8]は、その法典全部に通ずる例則を総括して、第六編即ち法典の末尾に置き、これを具法と名付けた(史記)。秦の商鞅が法という語を改めて律と称した後は、全法典の通則を具律と称えるようになり、漢の代に、宰相|蕭何《しょうか》が律九章を定めた時も、また秦の名称に従って具律という名を襲用した(唐律疏義)。魏の劉劭《りゅうしょう》が魏律十八編を制定した時には、漢の具律という名称を改めて、刑名律とし、これを全法典の冒頭に置いた(魏志)。
 晋の賈充《かじゅう》らが、漢・魏の律を増損して作った晋律二十編には、魏の刑名律を分けて、刑名律・法例律の二編としたが、法例という題号の濫觴《らんしょう》は、恐らくはこれであろう。
 この法例の字義は、「例者五刑之体例」といい、また[#以下の「」内の「レ一二」は返り点]「例訓為レ比」といい、また「比二諸篇之法例一」といい、また「律音義」には「統レ凡之為レ例、法例之名既多、要須レ例以表レ之」とある。これらの解釈によれば、法例という語は、法律適用の例則という意味に用いられたのである。
 その後ち宋・斉・梁および後魏の諸律は、刑名律・法例律の称号を因襲したのであったが、北斉に至って刑名・法例の二律を併せて一編としてこれを名例律と称えた。後周は、一度刑名律なる名称を復したけれども、隋唐以来清朝に至るまで、皆北斉の例に倣って、刑法の通則を名例律の中に置いたから、法例という題号は久しく絶えたのであった。
 物徂徠《ぶつそらい》は、その著「明律国字解」において、刑名律を刑名・法例の二編に分ったのは梁律であると言うておるが、その出所を示しておらぬから断言は出来ないが、けだし誤謬であろう。なお徂徠は、刑名・法例の二編を併せて一編となしたのは隋律であると言っておるが、隋は北斉の用例を復したに過ぎないので、初めて通則の全部を名例律と称したのではない。
 我邦においても、古律は隋唐の律を模範として、名例律という称を用い、また維新の際に編成した「新律綱領」もその編首に名例律を置いたのであった。
 明治十三年に刑法を改正した際、第一編第一章に刑法適用の通則を掲げてこれを法例と題した。これはけだし晋律の用例に倣うたものであって、北斉以来久しく法典上に絶えていた用例を、我国において復活させたものである。
 明治二十三年、民法その他の法典が公布された際に、法律第九十七号をもって、一般法律に通ずる例則を発布して、これを法例と称した。ここにおいて法例という語の用例が一変することとなって、従来は刑法の通則に限って用いられておった語を汎《ひろ》く法律通用に関する総則に用いるようになった。
 このように、初め刑法にのみ用いた語を、一般の法律に通用するようになるのは、法律沿革史上に往々その例を見るところであって、諸国の法律は、最初に刑法、訴訟法などのようなものがその体裁を整備するものであるから、これらの法律の用語を他の法律に転用するようになることは、決して稀なことではない。
 支那においても、古代に法と称し律と称《とな》えたものは、殆んど刑法ばかりであるし、成典の存するものも、また刑法の範囲内で最も発達したのである。それ故、支那法系の法律では、刑法の術語を、後になって他の種類の法令に転用した例が甚だ多く、法例という語の如きもまたその一つである。そして前に掲げた法例という語の字義語意を稽《かんが》えて見ても、我邦においてこの法例なる語を広く用いるのは、決して不当でないと思う。
 このように、法例という語は、法律の適用に関する通則の題号としては、頗る穏当であるから、我輩は命を蒙って法例改正案を起草した時にも、これを襲用したのである。
 その後ち、商法改正案においても、総則なる語を改め、法例としてこれを題号に採用したのである。ここにおいて、我邦の法典においては、法例という語に二様の用例を生ずることとなった。即ち、一は一般に各種の法律に通ずる法例で、他は刑法および商法の首章に掲げた法例の如く、その法典中の条規の適用に関する例則を称するのである。この二種の法例は、普通法と特別法との関係を有するものであるから、前者はこれを一般法例と称し、後者はこれを特別法例と称することが出来よう。
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 五五 準拠法


 準拠法は、我輩が明治二十九年法典調査会において法例を起草した際、マイリ(Meili)などのドイツ国際私法論者が用いた Massgebendes Recht という語に当嵌《あては》めた訳語であって、初めてこれを法例理由書の中に用い、その後広く行われるようになったのである。
 そもそも、この準拠なる成語は、「延喜式」の序にも見えて[#以下、「レ一二」は返り点]「準二拠開元永徽式例一」とあり、また明応四年八月の「大内家壁書」の中に用いられているものであるが、これより先、我輩が民法養子部の起草を担任した際に、「大内家壁書」中の「養子被レ改二御法一之事」の条中に、この語を名辞として用いてあったのを見て、一寸面白い成語であると思うておったから、法典調査会で法例各条の説明をした時にこれを用いたのであった。最も「大内家壁書」に用いた準拠という字は、先例に準じてこれに拠るという意味であり、国際私法でいう準拠法というのは、これを標準とし、これに依って、渉外事件を裁判すべき法であるという意義に用いたのであって、少しくその用例を変じたのである。「大内家壁書」の文は次のようなものである。
[#ここから2字下げ]
  養子被レ改二御法一事、
諸人養子事、養父存生之時、不レ達二|上聞《じょうぶん》一仁|者《は》、於二御当家一、為《たり》二先例之御定法一、至二養父歿後一者、縦兼約《たといけんやく》之次第自然|雖レ令《せしむるといえども》二披露一、不レ被レ立二其養子一也、病死跡同前也、然間《しかるあいだ》雖レ為二討死勲功之跡一、以二此準拠一|令《せしめ》二断絶一|畢《おわんぬ》、(中略)
  明応四年|乙卯《いつぼう》八月 日[#11字下げて、地より3字上げて]沙  弥 奉 正 任
[#28字下げて、地より3字上げて]左衛門尉 同 武 明
[#ここで字下げ終わり]
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 五六 経済学


 経済学は、慶応三年四月に神田|孝平《たかひら》氏の訳述せられた「経済小学」という本があるが、これは英人イリスの「ポリチカル・エコノミー」を蘭書より重訳したものである。この後ち明治三年二月に定められた大学規則、および同年閏十月の大学南校規則には「利用厚生学」という名称が用いられている。
 明治の初年にはウェーランドの「ポリチカル・エコノミー」(Wayland's Political Economy)が一般に行われ、その冒頭に、“Political Economy is the Science of Wealth.”という定義が掲げてあるので、一時「富学」という語を用いた人もあったが、これではいささか金儲けの学問と聞える弊《へい》があるとて、広くは行われず、異論はありながらも、やはり「経済学」と言うておったのである。
 その後ちこの名称が久しく行われておったが、「経済」という語は、経国済民から出ておって、太宰春台の「経済録」などが適当の用法であることは勿論であるから、明治十四年の東京大学の規則には「理財学」と改められた。これはけだし「周易」の伝に[#以下の「」内の「レ一二」は返り点]「何以聚レ人、曰財、理レ財正レ辞、禁二民為一レ非、曰義」あるに拠ったものであろう。
 しかしながら、字義の穿鑿《せんさく》はとにかく、世間では経済学という語は、神田氏以来久しく行われて、既に慣用語となっているし、原語の「ポリチカル・エコノミー」とても、本来充分にその意義を表している訳ではないから、やはり「経済学」という名称に復するのが好いという論が、金井・和田垣両教授などから出て、そこで明治二十六年九月の帝国大学法科大学の学科改正の時から、再び経済学という名称に復したのである。
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 五七 統計学


 スタチスチックスの訳名が「統計学」と定まるまでには多少の沿革がある。始め慶応三年四月に出版せられた神田孝平氏訳「経済小学」の序には、スタチスチックスを訳して「会計学」としてあるが、明治三年二月発布の「大学規則」には「国勢学」とある。これは、欧洲において中世より第十八世紀の始めに至るまでは、この語原の示す如く、国家の状態を研究する学問となっていたとのことであるから、その後の沿革を知らずに、二百年前の用例をそのままに「国勢学」と邦訳したのであろう。同年十月の大学南校規則にも「国務学」となっている。世良太一君の直話に拠れば、国勢学を一時「知国学」ともいうたこと
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