があるが、これは多分杉|亨二《こうじ》先生の案出であろうとのことである。津田真道先生がオランダのシモン・ヒッセリングの著書を訳して明治七年十月に太政官の政表課から出版せられたものに「表紀提綱一名政表学論」というのがある。「西周伝」に拠れば、津田先生は学名としては「綜紀学」という語を用いられたようである。世良太一君の話に拠ると、「政表」という語は、この後明治十年頃までも用いられたということである。
かくの如く「スタチスチックス」に対する訳字が従来区々であったので、むしろ原語そのままを用いた方が好かろうということで、明治九年頃、杉亨二博士・世良太一氏らの創められた学会には、「スタチスチックス」社という名称を附し、「スタチスチックス」雑誌というのを発刊せられたが、当時「スタチスチックス」という原語に宛てるために※[#「※」は「寸+多」、197−6]※[#「※」は「知の下に+寸」、197−6]※[#「※」は「知の下に久」、197−6]《スタチスチク》という漢字をも案出創造せられたということである。また始め神田氏の用いられた「会計学」という名称も、その字義からいえば至極穏当のようではあるが、「会計」は他の意義に用いられているから、「統計学」の方が適当であろう。しからばこの「統計学」という名称の創始者はそもそも何人であろうか。
明治四年七月二十七日大蔵省の中に始めて置かれた役所に統計司というのがある。これは翌八月十日に至って統計寮と改められたが、官署の名に「統計」の名を附したのはこれが初めてである。この「統計」の二字は、恐らくは「英華字典」にスタチスチックに対して「統紀」という訳字を用いておったのに拠って案出したものであろう。この後ち明治七年六月になって、箕作麟祥博士が仏人モロー・ド・ジョンネの著書を翻訳して文部省から出版せられたものには「統計学一名国勢略論」という標題を用いられた。学名として「統計学」という各称を用いたのは、けだしこの書をもって初めとなすべきである。そして前にも述べた如く、この後にも「国勢学」「知国学」「政表学」または「表紀」「※[#「※」は「寸+多」、198−5]※[#「※」は「チ+寸」、198−5]※[#「※」は「チ+久」、198−5]」などの名称が存在したにもかかわらず、後には「統計学」という名称が一般に行われて、終に学名と定まるに至ったのである。
[#改ページ]
五八 自由
安政四年に、米人|裨治文《ブリッヂメン》が上海において著した「聯邦史略」という本に、始めて freedom または liberty の訳語として自主、自立の二字が用いられている。即ちこの書中に載せてある「独立宣言」の訳文中に、左の一節がある。
[#ここから2字下げ、「一定」の「一」をのぞいて文中の「レ一二」は返り点]
蓋以人生受レ造、同得二一定之理一。己不レ得レ棄、人不レ得レ奪、乃自然而然。以保二生命及自主自立一者也。
[#ここで字下げ終わり]
この書は、我文久年間に続刻せられて、長崎に伝来したものであるが、これを見た者は素《もと》より少数人であった。加藤弘之先生の直話に拠れば「自由」という訳字は、幕府の外国方英語通辞の頭をしていた森山多吉郎という人が案出したのが最初であるという事であるが、文久二年初版慶応三年正月再版訳了の「英和対訳辞書」(堀達三郎著)には、既に自由という訳字を用いている。しかるに、福沢諭吉先生が慶応二年に出版せられた「西洋事情」にも「自由」という訳字を用いられ、それより広く行わるるようになったが、古来一定の意義を有する通用語をかつて日本になかった思想に当てようとしたのであるから、先生もその説明によほど苦心されたことは次に引用する文章でも明らかに分ることである。
同書第一巻、政治の部の註に、
[#ここから2字下げ]
本文自主・任意・自由ノ字ハ、我儘放盪ニテ、国法ヲモ恐レズトノ義ニ非ラズ、総テ其国ニ居リ、人ト交テ、気兼ネ遠慮ナク、自分丈ケ存分ノコトヲナスベシトノ趣意ナリ、英語ニ之ヲ「フリードム」又ハ「リベルチ」ト云フ、未ダ的当《てきとう》ノ訳字アラズ。
[#ここで字下げ終わり]
といい、またこの後ち明治三年に出版の「西洋事情」第二編の例言中に、
[#ここから2字下げ]
彼ノ常言モ、我耳ニ新シキコトアリテ、洋書ヲ翻訳スルニ臨ミ、或ハ妥当ノ訳字ナクシテ、訳者ノ困却スルコト、常ニ少カラズ。
[#ここで字下げ終わり]
といい、特に「リベルチ」の訳語「自由」は、「原意ヲ尽スニ足ラズ」とて、その意義を邦人に説明せんと試みられた。
[#ここから2字下げ]
第一「リベルチ」トハ、自由ト云フ義ニテ、漢人ノ訳ニ、自主、自尊、自得、自若、自主宰、任意、寛容、従容等ノ字ヲ用ヒタレドモ、未ダ原語ノ意義ヲ尽スニ足ラズ。
自由トハ、一身ノ好ムマヽニ事ヲ為シテ、窮窟《キウクツ》ナル思ナキヲ云フ。古人ノ語ニ、一身ヲ自由ニシテ自ラ守ルハ、万人ニ具《ソナ》ハリタル天性ニシテ、人情ニ近ケレバ、家財富貴ヲ保ツヨリモ重キコトナリト。
又上タル者ヨリ下ヘ許シ、コノ事ヲ為シテ差構《サシカマヒ》ナシト云フコトナリ。譬《たと》ヘバ、読書手習ヲ終リ、遊ビテモヨシト、親ヨリ子供ヘ許シ、公用終リ、役所ヨリ退キテモヨシト、上役ヨリ支配向ヘ許ス等、是ナリ。
又、御免《ゴメン》ノ場所、御免ノ勧化、殺生御免ナドイフ御免ノ字ニ当ル。
又好悪ノ出来ルト云フコトナリ、危キ事ヲモ犯シテ為サネバナラヌ、心ニ思ハヌ事ヲモ枉《ま》ゲテ行ハネバナラヌナドト、心苦シキコトノナキ趣意ナリ。
故ニ、政事ノ自由ト云ヘバ、其国ノ住人ヘ、天道自然ノ通義[#ここに「下ニ詳ナリ」という注意書きが入る]ヲ行ハシメテ、邪魔ヲセヌコトナリ。開版ノ自由ト云ヘバ、何等ノ書ニテモ、刊行勝手次第ニテ、書中ノ事柄ヲ咎《とが》メザルコトナリ。宗旨ノ自由トハ、何宗ニテモ、人々ノ信仰スル所ノ宗旨ニ帰依セシムルコトナリ。千七百七十年代、亜米利加騒乱ノ時ニ、亜人ハ自由ノ為メニ戦フト云ヒ、我ニ自由ヲ与フル歟《か》、否《しから》ザレバ死ヲ与ヘヨト唱ヘシモ、英国ノ暴政ニ苦シムノ余、民ヲ塗炭《とたん》ニ救ヒ、一国ヲ不覊独立ノ自由ニセント死ヲ以テ誓ヒシコトナリ。当時有名ノフランキリン[#「フランキリン」に傍線]ガ云ヘルニハ、我身ハ居ニ常処ナシ、自由ノ存スル所即チ我居ナリトノ語アリ。サレバ、此自由ノ字義ハ、初編巻之一、第七葉ノ割註ニモ云ヘル如ク、決シテ我儘放盪ノ趣意ニ非ズ。他ヲ害シテ私ヲ利スルノ義ニモ非ラズ、唯心身ノ働ヲ逞シテ、人々互ニ相妨ゲズ、以テ一身ノ幸福ヲ致スヲ云フナリ。自由ト我儘トハ、動モスレバ其義ヲ誤リ易シ。学者宜シクコレヲ審《つまびらか》ニスベシ。
[#ここで字下げ終わり]
これに依りて観れば、支那においては、これより以前既に「自主」「自専」「自立」などの訳字があり、また我邦においても、加藤先生は慶応四年出版の「立憲政体略」には「自在」と訳し、「行事自在の権利」「思、言、書自在の権利」「信法自在の権利」などの語を用いられ、同年出版の津田真道先生の「泰西国法論」にも「自在」と訳し「行事自在の権」「思、言、書自在の権」などの語を用いられているが、福沢先生は不満足ながらこれより先き既に案出せられた自由なる訳語をその著「西洋事情」中に採用せられ、同書が広く世に行われたために、竟《つい》にこの語が一般に行われるようになり、随ってこの新思想が、我国に伝播するの媒となったのである。して見ると、我国においては、自由なる語、自由なる思想の開祖は、実に福沢先生であると言うてもよかろうと思われる。
その後ち明治五年に中村敬宇先生は、ミルのリバーチーを訳述して「自由之理」と題せられたが、この書もまた広く世に行われたものである。
これらの書の行われた結果として、欧米において前世紀の後半に至るまで盛んに行われた自由主義、即ち自由の実現をもって人生就中政治の極致とする思想は、我国に輸入せられて、自由党なるものが興り、その首領たりし板垣伯は、岐阜において刺客の刃に傷つきたる時にも、かの「我に自由を与えよ、しからざれば我に死を与えよ」と言いしパトリック・ヘンリーの激語の反響の如くに、「板垣は死すとも自由は死せず」と叫ばるるに至ったのである。
[#改ページ]
五九 共和政治
大槻文彦《おおつきふみひこ》君の談によれば、共和政治という語は、大槻|磐渓《ばんけい》先生が初めて作られた訳語であるということである。
箕作阮甫《みつくりげんぽ》先生の養嗣子省吾氏は、弱冠の頃、已《すで》に蘭語学に精通しておったが、就中《なかんずく》地理学を好んで、諸国を歴遊し、山河を跋渉《ばっしょう》して楽しみとしておった。
その後ち和蘭の地理書を根拠として地理学上の著述をなし、「坤輿図識《こんよずしき》」と題してこれを出版した。氏がこの書を起稿しておった際オランダ語のレプュブリーク(Republiek)という字に出会い、その字義を辞書で求めたところ、君主のない政体をレプュブリークと称するとあった。しかし、国に君主がない政治ということは、当時の我国人に取っては殆んど了解の出来ない事であったので、これに対して如何なる訳語を用うべきであるかと思案の余り、氏は当時の老儒大槻磐渓先生を訪ねてその適当なる訳語を問うた。
磐渓先生は対《こた》えて言われるには、国として君主のないのは変体ではあるが、支那にもその例がない事もないのである。かの周の時代に、※[#「※」は「勵−力」、第3水準1−14−84、205−2]王が無道の政を行って、国民の怨を買い、遂に出奔した時、周・召の二宰相がともに協力して、十四年の間国王なしの政治をした事が「十八史略」にも、
[#ここから2字下げ、「二相」の「二」をのぞいて「レ一二」は返り点]
於レ是国人相与畔。王出二奔※[#「※」は「上に彑、下に比を置き、比の間に矢が入る」、第3水準1−84−28、205−5]一。二相周召共理二国事一。曰二共和一者十四年(而王崩于※[#「※」は「上に彑、下に比を置き、比の間に矢が入る」、第3水準1−84−28、205−5]。)
[#ここで字下げ終わり]
と見えているから、国王のない政体は、共和政治というが宜しいであろうといわれた。
省吾氏はその教に従うて、レピュブリークに共和政治という訳語を用いられ、これが今に至るまで襲用される事になったのである。
[#改ページ]
六○ 「人より牛馬に物の返弁を求むるの理なし」
明治五年にマリヤ・ルーヅ事件なるものが起った。その事実の大要は次の如きものである。同年七月にペルー人ペロレーなる者が、清国|澳門《マカオ》において同国人二百三十人を買入れて奴隷とし、これを自己の所有船マリヤ・ルーヅ号に載せて本国に連れ帰る途中、横浜に寄港した。しかるに同港において、一名の支那人が海に飛び込んで脱れようとし、折柄碇泊中のイギリスの軍艦に救われ、英国公使はその処分を我政府に要求して来た。そこで我政府はマリヤ・ルーヅ号を抑留し、取調べの上ことごとく支那人を解放してこれを本国に送還した。船主ペロレーは形勢の非なるを見て脱走してその本国に帰り、自国政府に要請し、同政府より我政府に対《むか》って抗議を提出し、且つその損害賠償をも請求して来ることとなった。しかし論弁容易に終決せず、竟《つい》に露国皇帝の仲裁を乞うことととなったが、結局我政府の勝利となって、事件は漸《ようや》くその局を結ぶこととなった。
しかるに、この仲裁裁判においてペルー政府は「人身売買は日本政府の公認するところである、日本政府は国民に対して芸娼妓などの人身売買を公許して置きながら、他国民に対してこれを禁ずるは、その理由なきものである」と抗争したのであった。これについて、当時の司法卿江藤新平氏の伝記なる「江藤南白」の著者は、実に左の如く記している。
[#ここから2字下げ]
我国は此事件に由りて「ペロレー」の非行を矯《た》め得たるも、同時に日本政府は今尚ほ斯《かか》る非行を公行する未開国たる事実を正式に世界に暴露したるの
前へ
次へ
全30ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
穂積 陳重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング