スのであったけれども、その効果は遂に見えなかったのである。同書、前掲の文の続きに、
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執着深き者共は、やにをほそき竹きせるに詰《つめ》、紙帳を釣り、其内にて密々呑為申者共も、方々為有レ之由候。
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と有るのを見ても、因襲既に久しきがため、この風の牢乎《ろうこ》として抜き難かったことを知ることが出来よう。かくて、後年に至って薩摩煙草はかえって天下の名産たるに至ったのである。
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 一九 松平信綱の象刑《しょうけい》


 支那《シナ》においては、古代絵画に依って刑法を公示し、これに依って文字を知らない朦昧《もうまい》の人民に法禁を知らしめる方法が行われた。「舜典」に「象《かたどるに》以二典刑一」[#「」内の一二は返り点]といい、呉氏がこれを解釈して、「刑を用うるところの象を図して示し、智愚をして皆知らしむ」といい、また「晋《しん》刑法志」に「五帝象を画いて民禁を知る」とあるなどは、皆刑罰の絵を宮門の双闕《そうけつ》その他の場所に掲げて人民を警《いまし》めたことを指すもので、これに依っても古聖王が法を朦昧の人民に布き、これを法治生活に導くのに如何に苦心したかを想像することが出来る。
 我国において、絵画に依って法禁を公示したのは、彼の智慧伊豆と称せられた松平伊豆守信綱である。将軍家綱の時、明暦三年、江戸に未曾有の大火があって、死者の数が十万八千余人の多きに達したので、火災後、火の元取締の法は一般に非常に厳重になった。「信綱記」に依れば、伊豆守の家中においても、番所にて「たばこ」を呑むことを堅く禁じたが、或日土蔵番の者が窃《ひそか》に鮑殻《ほうかく》に火を入れて来て「たばこ」を呑み、番所の畳を少し焦した事がある。伊豆守は目付の者の訴に依ってこれを知り、大いに怒って直ちにその者を斬罪《ざんざい》に申付けたが、その後ち思案して、吉利支丹《キリシタン》の目明し右衛門作という油絵を上手に画く者に命じて、火を盗み「たばこ」を呑んで畳を焼いたところと、その者の刑に処せられているところとを板に描かせて、これを邸内の人通りの多い所に立て置き、これを諸人の見せしめとした。ところがその刑罰の有様が如何にも真に逼《せま》って、観《み》る者をして悚然《しょうぜん》たらしめたので、その後ち禁を犯す者が跡を絶つに至ったということである。
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右衛門作、氏は山田、肥前の人で、島原の乱に反徒に党《くみ》して城中に在ったが、悔悟して内応を謀り、事|覚《あら》われて獄中に囚《とら》われていたが、乱|平《たいら》ぎたる後ち、伊豆守はこれを赦して江戸に連れ帰り、吉利支丹の目明しとしてこれを用いた。右衛門作はよく油絵を学び巧に人物|花卉《かき》を描いたが、彼が刑罰の図を作ることを命ぜられたのもそのためであった。後ち耶蘇教を人に勧めたために、獄に投ぜられて牢死したということである。
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 二〇 家康の鑑戒主義行刑法


 水戸烈公の著「明訓一班抄」に拠《よ》れば、徳川家康は博奕《ばくえき》をもってすべての罪悪の根元であるとし、夙《はや》く浜松・駿府在城の頃よりこれを厳禁した。
 江戸城に移った後も、関東にて僧侶男女の別なく公然賭博をなす者の多いのは、畢竟《ひっきょう》仕置《しおき》が柔弱であったためであると言うて、板倉四郎左衛門(後に伊賀守勝重)らに命じ、当時盗罪の罰は禁獄なりしにかかわらず、賭博をなす者は容赦なく捕えて、片端よりこれを死刑に処せしめた。
 或時浅草辺で五人の賭博者を捕えて、五人共に同じ場所に梟首《きょうしゅ》してあったのを、家康が鷹野に出た途上でこれを見て、帰城の後刑吏を召して、「首を獄門に掛けさらすは、畢竟諸人の見せしめのためなれば、五人一座の博奕なりとも、なるべく人立多き五箇所へ分ちてさらし置くべし」と命じた。それ故、これより後は十人一座で捕えられたときには十箇所に分って梟首するようにした。
 この如く、細心なる注意をもって、いわば経済的に威嚇《いかく》鑑戒《かんかい》の行刑法を行うたので、その結果、二三年の間に、博奕は殆んど跡を絶つに至ったということである。
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 二一 法律の事後公布


 徳川時代の刑典は極めて秘密にせられたものであるが、刑の執行はこれを公衆の前において行って、人民の鑑戒としたものである。且つ刑場には、罪状および刑罰の宣告を記した捨札《すてふだ》を立て、罪人を引廻《ひきまわ》す時にも、罪状と刑罰とを記した幟《のぼり》を馬の前に立てて市中を引廻したものであるから、法規はこれを秘密にし、裁判の宣告はこれを公にした結果、人民はこれに依って、如何なる犯罪には如何なる刑罰が科せられるかを知ることが出来たのであった。
 京都においては、罪人を洛中洛外に引廻す際に、科《とが》の次第を幟に書き記した上に、その科《とが》をば高声に喚《よば》わり、また通り筋の家々にては、暖簾《のれん》をはずして、平伏してこれを見るのが例であった。しかるに赤井越前守が京都町奉行に任ぜられた時、これを廃したことがあったが、「翁草《おきなぐさ》」の著者はこれを批難して、
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暖簾も其儘にして常の通りに相心得、敬するに不レ及と令せられし事、大いに当たらざるか。刑は公法なり、科の次第を幟に記し、其|科《とが》を喚《よばわ》る事、世に是を告て後来《こうらい》の戒とせんが為なれば、諸人慎んで之を承《うけたまわら》ん条、勿論なり。
[#ここで字下げ終わり]
というている。法に対する尊敬は誠にかくあるべきものである。
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 二二 法服の制定


 法官および弁護士が着用する法服は、故文学博士黒川真頼君の考案になったものである。元来欧米の法曹界では、多くは古雅なる法服を用いて法廷の威厳を添えているので、裁判所構成法制定当時の司法卿山田顕義伯は、我国でもという考えを起し、黒川博士にその考案を委託した。それで博士は、聖徳太子以来の服制を調査し、これに泰西の制をも加味して、型の如き法帽法服を考案せられたのであるという。
 この法服の制定せられた頃の東京美術学校の教授服もまた同じく黒川博士の考案に依って作られたもので、且つその体裁は極めて法服に似寄っておった。その頃、同博士は美術学校の教授をしておられたのであるが、教授服と法服との類似のために、はからずも次の如き笑話が博士自身の上に起ったことが「逸話文庫」に載せてある佐藤利文氏の談話に見えている。
 或日の事、一葉の令状が突然東京地方裁判所から黒川博士の許《もと》に舞い込んで来た。何事ならんと打驚いて見ると、来る何日某事件の証人として当廷に出頭すべしということであった。素《もと》より関係なき事故、迷惑至極とは思いながら、代人を立てる訳にも行かぬから、その日の定刻少々前に自ら裁判所に出頭せられたが、この時博士は美術学校の教授服を着用して出頭せられたのであった。すると、廷丁は丁寧に案内して、「まだ開廷には少々間がありますから、どうぞここにてお待ち下され」と言って敬礼して往った。博士は高い立派な椅子を与えられ、これに憑《よ》りかかってやや暫《しばら》く待っておられると、やがて開廷の時刻となり、判事らは各自の定めの席へと出て来たのである。と見ると、博士は赭顔鶴髪《しゃがんかくはつ》、例の制服を着けて平然判事席の椅子に憑《よ》っておられるので、且つ驚き且つ怪しみ、何故ここにおられるぞと尋ねると、博士は云々の次第と答えて、更に驚いた様子も見えない。判事らは余りの意外に思わず失笑したが、さて言うよう、「ここは自分らの着席する処で、証人はあそこに着席せられたし」とて、穏かにその席を示したので、博士もそれと分って、余りに廷丁の疎忽《そこつ》を可笑《おか》しく思われたということである。これは同博士の着けておられた教授服が、如何にも当時新定の法官服に類似していたために、廷丁は博士を一見して、全く一老法官が、何かの要事あって早朝に出頭したものと早合点をし、その来由をも質《ただ》さずして直ちに判官席に案内したからの事であった。博士は帰宅の後、「今日は黒川判事となった」と言われたという事である。昔、秦の商鞅《しょうおう》は自分の制定した法律のために関下《かんか》に舎《やど》せられず、「嗟乎《ああ》法を為《つく》るの弊|一《いつ》に此《ここ》に至るか」と言うて嘆息したということであるが、明治の黒川真頼博士は自ら考案した制服のために誤って司直壇上に崇《あが》められた。定めて「法服を為るの弊一に此に至るか」と言うて笑われたことであろう。
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 二三 法学博士

 博士号は我国の中古には官名であって、大博士・音博士・陰陽博士・文章博士・明法博士などがあった。「職原鈔」によれば、明法博士は二人で、阪上・中原二家をもってこれに任じた様である。現今の法学博士は学位であって、明治二十年の学位令によって設けられたのである。
 博士は、古えは「ハカセ」と訓じたものであるが、現今では「ハクシ」と訓ずることに定っている。学位令発布当時、森文部大臣は、半ば真面目に半ば戯れに、こういうことを言われた。「「ハカセ」の古訓を用うるも宜いけれど、世人がもし「ハ」を濁りて「バカセ」と戯れては、学位の尊厳を涜すからなー。」
 支那では律学博士というた。「魏書」に、
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衛覬奏、刑法、国家所レ重、而私議所レ軽、獄者人命所レ懸、而選用者所レ卑、諸置二律学博士一、相教授、遂施行。
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と見えて、律学博士なるものは、この衛覬《えいき》の建議によって始めて置かれたものであるという。
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 二四 妻をもって母となす


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神は一人に二つの心を与えず。故に神は爾らの妻を爾《なんじ》らの実の母となすことなし。
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 これは「コーラン」の一節である。何の事か、一寸意味を解し兼ねる文句であるが、セールの研究は、この難解の一句を解き得て、面白きアラビアの古俗を吾人に示している(Sales, The Koran, ch. xxxiii[#「xxxiii」は33を表すローマ数字の小文字]. The Confederates. p. 321.)。
 結ぶということがあれば、解くということもあるのは、数の免れざるところであって、結婚がある以上、離婚なる不祥事もしばしば生ずるのは、古今|易《かわ》りなき現象である。しかるに、妻を去るも、その妻の帰るべき家が無いことがある。また男の中には、夫婦の縁は絶ちたいが、その妻が家を出て他家に再※[#「※」は「酉+焦」、第4水準2−90−41、78−9]《さいしょう》するのは面白くないという、未練至極な考えを持っている者もあって、折々新聞の三面に材料を供することであるが、古代のアラビア人にも、この類《たぐい》の男が多かったと見え、実に奇抜な離婚方法を発明した。即ち妻に向って「あなたは今日より私の御母さんで御座います」という宣言をするのである。夫妻の関係はこの宣言とともに全く絶えて、昨日の妻は今日の母となり、爾後は一切の関係皆実母としてこれに奉事せねばならぬのであるが、実際は御隠居様として敬して遠ざけて置くのである。
 かくの如き慣習は、余りに自分勝手な、婦人を馬鹿にし過ぎたもので、その弊害に堪えぬからして、さすがはモハメット、右の一句をもって断然この奇習を廃したのである。
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 二五 動植物の責任


 近世の法学者は、自由意思の説によって責任の基礎を説明しようと試みる者が多い。人は良心を持っている。故に自ら善悪邪正を弁別することが出来る。人の意思は自由である。故に善をなし悪を行うは皆その自由意思に基づくものである。かく弁別力を具えながら、なお自由意思をもって非行を敢えてするものがある。人に責任なるものが存するのはこの故に外ならない。しかるに禽獣草
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