リに至っては、固《もと》より良心もなく、また自由意思もない。随って禽獣草木には責任が存する道理がないのであるというのが、その議論の要点である。しかしながら、近世心理学の進歩はこの説の根拠を覆えし得たのみならず、歴史上の事実に徴してもこの説の大なる誤謬であることを証拠立てることが出来ようかと思われる。
 原始社会の法律を見るに、禽獣草木に対して訴を起し、またはこれを刑罰に処した例がなかなか多い。有名なる英のアルフレッド大王は、人が樹から墜《お》ちて死んだ時には、その樹を斬罪に処するという法律を設け、ユダヤ人は、人を衝《つ》き殺した牛を石殺の刑に行った。ソロンの法に、人を噬《か》んだ犬を晒者《さらしもの》にする刑罰があるかと思えば、ローマの十二表法には、四足獣が傷害をなしたときは、その所有者は賠償をなすかまたは行害獣を被害者に引渡して、その存分に任《まか》すべしという規定があり(Noxa deditio[#岩波文庫の注は「noxa deditioという表現はなくnoxae deditioないしnoxae datio」とする])、またガーイウス、ウルピアーヌスらの言うところに拠れば、この行害物引渡の主義は、幼児または奴隷が他人に損害を与えたとき、または他人が無生物から損害を受けたときにも行われ、その損害の責任はその物または幼児らに在って、もしその所有者が為害物体を保有せんとならば、その請戻しの代価として償金を払うべきものであったとの事である。
 啻《ただ》に原始時代においてのみならず、中世の欧洲においても、動物に対する訴訟手続などが、諸国の法律書中に掲げられてあること、決して稀ではない。フランスの古法に、動物が人を殺した場合に、もしその飼主がその動物に危険な性質のあることを知っていたならば、飼主と動物とを併せて死刑に処し、もし飼主がこれを知らないか、または飼主がなかった場合には、その動物のみを死刑に行うという規定があったほどであって、動物訴訟に関する実例が中々多い。今その二三を挙げてみよう。
 西暦一三一四年、バロア州(Valois)において、人を衝《つ》き殺した牛を被告として公訴を起したことがあるが、証人の取調、検事の論告、弁護士の弁論、すべて通常の裁判と異なることなく、審理の末、被告は竟《つい》に絞台の露と消えた。その後ちブルガンデー州(Burgundy)でも、小児を殺した豚を法廷に牽《ひ》き出して審問、弁論の上、これを絞罪に処したことがある。なお一四五〇年にも豚を絞罪に処した事があったとのことである。
 仏国の歴史家ニコラス・ショリエー(Nicholas Chorier)は、こういう面白い話を述べている。一五八四年ヴァランス(Valence)において、霖雨《りんう》のために非常に毛虫が涌《わ》いたことがあった。ところが、この毛虫が成長するに随ってゾロゾロ這《は》い出し、盛んに家宅侵入、安眠妨害を遣《や》るので、人民の迷惑一通りでない。遂には村民のため捨て置かれぬとあって、牧師の手から毛虫追放の訴訟を提起するという騒ぎとなり、弁論の末、被告毛虫に対して退去の宣告が下った。ところが、被告はなかなか裁判所の命令に服従しない。これには裁判官もはたと当惑し、如何にしてこの裁判の強制執行をしたものかと、額を鳩《あつ》めて小田原評議に日を遷《うつ》す中に、毛虫は残らず蝶と化して飛び去ってしまった。
 シャスサンネ(Chassanee[#「ee」のうち、始めのeはアクサン(´)付き])という人があった。オーツン州で鼠の裁判に弁護をしたので世人に知られ、遂に有名な状師となった。同氏は、鼠に対する公訴において種々の理由の下に三度まで延期を請求したが、第三回目の召喚に対しては、こういう面白い申立をした。
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当地には猫を飼養する者が多いから、被告出廷の途次、生命の危険がある。裁判所は、被告に適当の保護を与えんがために、猫の飼主に命じて開廷日には猫を戸外に出さないという保証状を出させてもらいたい。
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裁判所は大いに閉口した。召喚に際して適当の保護を与えるのは、固《もと》より当然のことであるから、その請求はこれを斥ける訳には行かない。さりとて、その請求の実行は非常な手数である。そこで、裁判は結局無期延期ということになった。
 このように、動植物または無生物に対して訴訟を起し、あるいはこれを刑罰に処するというのは、甚だ児戯に類したことのようであるけれども、害を加えた物に対して快《こころよ》くない感情を惹起《ひきおこ》すのは人の情であって、殊に未開人民は復讐の情が熾《さかん》であるから、木石を笞《むちう》って僅に余憤を洩す類のことは尠《すく》なくない。して見れば、未開の社会に無生物動植物を罰する法があったとて、強《あなが》ち怪しむには足るまい。
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子のあたま、ぶった柱へ尻をやり
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という川柳があるが、この法の精神を説明し得たものといってもよかろう。
 刑罰を正義の実現であるとする絶対主義は、非常に高尚な理論で、目をもって目に報《むく》い、歯をもって歯に報《むく》ゆる復讐主義は、甚だ野蛮の思想であるかの如く説く学者も多いが、元来絶対主義論者が信賞必罰は正義の要求であるとするのも、復讐主義において害を加えたる木石禽獣または人類に反害を加えて満足するのも、畢竟《ひっきょう》同じ心的作用即ち人類の種族保存性から来ているのである。この二主義が同一系統に属するものであるという事は、絶対主義の主唱者とも言うべきカントが、刑法は無上命令(Categorischer Imperativ)なりと言い、たとい国を解散すべき時期に達したとしても、在監中の罪人はことごとく罰せねばならぬと論じ、同時にまた刑罰は反座法(Jus talionis)に拠るべしと言ったのでも知る事が出来よう。
 また一方において、相対主義論者は、刑罰は社会の目的のために存しているという。なるほどそれには違いないが、その目的の中には、直接被害者たる個人、およびその家人、親戚並に間接被害者たる公衆の心的満足というものをも含んでいることを忘れているのは、確かに彼らの欠点である。形こそ変れ、程度こそ異なれ、木を斬罪《ざんざい》にし、牛を絞刑《こうけい》にし、「子のあたまぶった柱」を打ち反《かえ》す類の原素は、文明の刑法にも存してしかるべきものである。いわゆる「正義の要求」とは、この心的満足をいいあらわしたものではあるまいか。学者は、往々この情性を野蛮と罵《ののし》って、一概にこれを排斥するけれども、これ畢竟刑法発達史を知らず、且つまたこの報復性は、種族保存に必要な情性であって、これあるがために、権利義務の観念も発達したものであることを知らないからである。
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 二六 死の骰子《さいころ》


 ドイツの帝室博物館に皇帝よりの御出品として「死の骰子」(Der Todes Wurfel[「u」はウムラウト(¨)付き])という物が陳列してある。第十七世紀の半ば頃、この骰子《さいころ》をもって一の疑獄が解決せられたという歴史附の有名な陳列品である。
 事実は次の如くである。或一人の美少女が何者にか殺害せられたことがあった。下手人の嫌疑は、日頃この少女の愛を争いつつあった二人の兵士の上に懸《かか》った。その一人はラルフ(Ralgh)といい、他の一人はアルフレッド(Alfred)というた。しかし二人とも身にいささかも覚えなき旨を固く言い張って、拷問までもして見たが、どうしても白状を得ることが出来ない。そこで現帝室の御先祖たるフリードリヒ・ウィルヘルム公(Friedrich Wilhelm)は、この二人に骰子を振らせて、その敗者を犯人と認めるといういわゆる神意裁判を行おうと決心せられた。
 荘厳なる儀式をもって、公は親《みずか》らこの神意裁判を主宰せられた。ラルフはまず骰子を投じた。輾転《てんてん》また輾転、二個の骰子は共に六を示した。合せて十二点。得らるべき最高点である。彼は少なくとも敗者となる気遣《きづか》いはない。神は既に彼の無罪を証拠立てたのである。相手の有罪の証迹は次いで顕《あら》われることであろう。
 アルフレッドは今や絶体絶命、彼は地に跪《ひざまず》いて切なる祈を神に捧げた。「我が罪無きを知り給う全能の神よ。願わくは加護を垂れさせ給え」と、満腔の精神を隻手《せきしゅ》に集めて、彼は骰子を地に抛《なげう》った。見よ、戞然《かつぜん》声あって骰子の一個は真二つに裂けて飛んだ。一片は六を上にしている。一片は一を上にしている。そして他の一個の骰子は六を示しているではないか。彼は実に天佑《てんゆう》によって勝ち得べからざる勝を贏《か》ったのである。満堂いずれも奇異の思いをなして一語を発する者もない。
 さすがのラルフも神意の空恐ろしさに胆を冷して、忽ち自分が下手人であることを白状した。「これ実に神の判決なり」と、公はかく叫んで、直ちに死刑の宣告を下されたということである。
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 二七 最も長き訴訟


 訴訟は時として随分長曳くもので、シェークスペーヤの“Law's delay”という言葉が名高くなっている位であるが、我輩の知っている限りでは、古来最長の訴訟は、有名なる英国のバークレー(Berkley)事件であろう。同事件は一四一六年に始り一六〇九年に終り、前後百九十年余も継続したのである。
 ヘンリー五世の時のロード・バークレーは四代目でトマスという人であったが、エリザベスという一人の娘の外には子がなかった。しかるにエリザベスはワーウイック伯(Earl of Warwick)に嫁したので、バークレー領は近親の男子が相続した。しかるに、後に至ってエリザベスの子孫が、この相続権を争ったのがそもそもこの訴訟の始りで、後には法廷の弁論のみではあき足らずして、干戈《かんか》に訴えるという大騒動となり、一四六九年には、双方各々五百人ばかりの勢を率《ひき》いてニブレー・グリーン(Nibley Green)の野に戦った。一方の大将はエリザベスの孫に当るタルボット(Talbot)であったが、この戦に敗死し、従兵死する者百五十、傷つく者三百に及んだ。しかるに、タルボットの親戚は、なおその訴訟を続け、盛んに権利を主張しておったが、ジェームス一世の時に至って始めて判決が下り、原告の敗訴と決定して、領地は第十一代のバークレー侯に帰したのである。
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 二八 矛盾の申立


 幕府の能吏渡辺大隅守綱貞が町奉行であった時に、或医者が訴訟を起した。その申立は、「全治の上は金五両の謝礼との約束にて、ある癩病人を治療し、既にその効を奏したにもかかわらず、相手方は謝儀を出すことを拒むに依り、宜しく御裁断を仰ぐ」というのであった。
 大隅守は被告に向い、医者の申立の通り、その方の病は平癒と見受けるぞ、即座に約定金《やくじょうきん》を差出すが宜かろうと説諭した。ところが被告は頭を白洲の砂に埋め、誠に恐入ったる義ながら、永の病気に身代《しんだい》必至と不如意《ふにょい》に相成り、如何様にも即座の支払は致し難き旨を様々に陳謝した。
 大隅守は更に押返して、「その方、大切なる病の治療を頼みながら、全治の今日となって薬料支払を渋るとは不届千万、一身を売ってなりとも金子を調達せよ」と言うに、「仰せは畏って御座りますれど、何分にも悪病の事とて、雇われようにも雇い手これなく、誠に致方なき次第」と如何にも困り入った様子である。
 大隅守もいささか憐れを催して、更に医者に向い、「今聞く如き次第なるぞ。その方この者の請人《うけにん》に立ちて、いず方へなりとも住み込ませ、その賃銀を謝礼に取りては如何に」と穏かに申渡したが、医者はなかなか承服しない。「このような穢らわしき病人を雇う者が、いずくに御座りましょうや。唯々|約定金《やくじょうきん》差入の御申渡を」と、強弁の言葉未だ終らぬに、大隅守はきっと威儀を正し、「さてさてその方は矛盾の譫言《た
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