ソゅう》にも比すべき暴君であったが、彼は盛んに峻法を設けて人民を苦しめた。一つの法令を発するごとに、これを一片の板に書き付け、数十尺の竿頭《かんとう》高く掲げて、これをもって公布と号した。人民は竿頭を仰ぎ見て、また何か我々を苦しめる法律が出来たなと想像するのみで、その内容の何たるを知ることが出来ず、丁度頭の上で烈しい雷鳴が鳴るように思うて、怖れ戦《おのの》くの外はなかったと言い伝えている。
立法者にして殊更に文章の荘重典雅を衒《てら》わんがために、好んで難文を草し奇語を用うる者はディオニシウスの徒である。民法編纂の当時、起草委員より編纂の方針に関する案を法典調査会に提出して議決を経たる綱領中に、「文章用語は意義の正確を欠かざる以上なるべく平易にして通俗なるべきこと」とあるは、特にこの点に注意したるためであった。
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一三 踊貴履賤
斉の景公、或時太夫|晏子《あんし》に向って言われるには、「卿の住宅は大分町中であるによって、物価の高低などにも定めて通じていることであろう」。晏子|対《こた》えて「仰《おおせ》の通りで御座ります。近来は踊《よう》の価が貴《たか》く、履《り》の価が賤《やす》くなりましたように存じまする」と申上げた。これは、履とは普通人の履物のこと、踊とは※[#「※」は「月+りっとう」、第4水準2−3−23、55−5]刑《げっけい》を受けた者の用いる履物のことで、今で言ったら義足とでもいうべきところである。当時景公酷刑を用いること繁きに過ぎたので、晏子は物価の話によそえてこれを諷したのであった。景公もそれと悟って、その後は刑を省いたという。
唐律疏議表に、この事を称賛して「仁人之言其利薄哉」と言っておる。
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一四 商鞅、移木の信
秦が六国を滅して天下を一統したのは、韓非子《かんぴし》・商鞅《しょうおう》・李斯《りし》らの英傑が刑名法術の政策を用いたからであって、その二世にして天下を失うに至ったのは、書を焚き儒を坑《あな》にしたに基づくことは、人の知るところであるが、有名なる「商鞅、移木の信」の逸話は、この法刑万能主義を表現するものとして頗《すこぶ》る興味あるものである。
商鞅が秦の孝公に仕えて相となったとき、その新政の第一着手として、先ず長さ三丈の木を市の南門に立てて、もしこの木を北門に移す者あらば十金を与うべしという令を出した。しかし、人民はその何の意たるを了解せず、怪しみ疑うて敢えてこれを移そうとする者がなかった。依って更に令を下して、能《よ》く移す者には五十金を与うべしと告示した。この時一人の物好きな者があって、ともかくも遣《や》ってみようという考で、この木を北門に移した。商鞅は直ちに告示の通り五十金をこの実行者に与えて、もって令の偽りでないことを明らかにした。ここにおいて、世人皆驚いて、商君の法は信賞必罰、従うべし違うべからずという感を深くし、十年の内に、令すれば必ず行われ、禁ずれば必ず止むに至り、新法は着々実施せられて、秦国富強の端を開いたということである。
けだし商鞅は、この移木令の一挙をもって、民心をその法刑主義に帰依《きえ》せしめたものであって、その機智感ずべきものがないではないが、かくの如き児戯をもって法令を弄《もてあそ》ぶは、吾人の取らざるところであって、これに依って真に信を天下に得らるべきものとは思われぬのである。そもそも法の威力の真の根拠は、その社会的価値であって、「信賞必罰」というが如きは、単にその威力を確実ならしめる所以に過ぎぬ。木を北門に移すべしという如き、民がその何の故たるを知らぬ命令、即ち何らの社会的価値なき法律を設けて、信賞必罰をもってその実行を期するという態度は、誠に刑名法術者流の根本的誤謬であって、彼ら自身「法を造るの弊」を歎ずるの失敗に陥ったのみならず、この法律万能主義のために、かえって永く東洋における法律思想の発達を阻害する因をなしたのは、歎ずべく、また鑑《かんが》みるべき事である。
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一五 側面立法(Oblique legislation)
土佐の藩儒|野中兼山《のなかけんざん》は宋儒を尊崇して同藩に宋学を起した人であるが、専《もっぱ》ら実行を主とした学者であって、立言の儒者ではなかった。したがってその著作は多く伝わっていないが、その治績の後世に遺《のこ》ったものは少なくない。即ち仏堂を毀《こぼ》ち、学校を興《おこ》し、瘠土《せきど》を開拓して膏腴《こうゆ》の地となし、暗礁を除いて航路を開き、農兵を置き、薬草を植え、蜜蜂を飼い、蛤蜊《こうり》を養殖するなど、鋭意新政を行って四民を裨益したことは頗《すこぶ》る多かった。
しかしながら、彼は資性剛毅の人であったこととて、新政を行うにも甚だ峻厳を極めて、いやしくも命に違う者は毫末《ごうまつ》も容赦するところなく、厳刑重罰をもって正面よりこれを抑圧したのであった。即ち「撃レ非如レ鷹」[#「」内の「レ」は返り点]と言われたほどであったから、ために竟《つい》に禍を買って、その終を全うすることの出来なかったのは痛惜すべきことである。
しかし、彼にもまた巧妙穏和なる間接立法の例がないではない。当時土佐の民俗には一般に火葬が行われておったが、兼山はその儒教主義からしてしばしばこれを禁止したのである。けれども、多年の積習は到底一朝にして改めることが出来なかった。ここにおいて彼はその方針を一変して、強いて火葬を禁ぜぬこととし、かえって罪人の死屍は必ずこれを火葬とすべき旨を令した。これよりして、火葬の事実は次第に少なくなり、遂にこの風習はその跡を絶つに至ったということである。兼山の採ったこの方法は即ち敵本主義の側面立法であって、民心を刺激すること寡《すく》なくしてしかも易俗移風の効多きものである。もし兼山にして、常に今少しくその度量を寛大にし、人情の機微を察することかくの如くあったならば、その功績はけだしますます多大となって、貶黜《へんちゅつ》の奇禍を招くが如き事情には立至らなかったことであろう。
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一六 竹内柳右衛門の新法、賭博を撲滅す
伊予の西条領に賭博が大いに流行して、厳重なる禁令も何の効力を見なかったことがあった。時に竹内柳右衛門という郡《こおり》奉行があって、大いにその撲滅に苦心し、種々工夫の末、新令を発して、全く賭博の禁を解き、ただ負けた者から訴え出た時には、相手方を呼出して対審の上、賭博をなした証迹明白な場合には、被告より原告に対して贏《か》ち得た金銭を残らず返戻させるという掟にした。こういう事になって見ると、賭博をして勝ったところで一向|得《とく》が行かず、かえって汚名を世上に晒《さら》す結果となるので、さしも盛んであった袁彦道《えんげんどう》の流行も、次第に衰えて、民皆その業を励むに至った。
この竹内柳右衛門の新法は、中々奇抜な工夫で、その人の才幹の程も推測られることではあるが、深く考えてみれば、この新法の如きは根本的に誤れる悪立法といわねばならぬ。法律は固《もと》より道徳法その物とは異なるけれども、立法者は片時も道徳を度外視してはならない。竹内の新法は、同意の上にて悪事を倶《とも》にしながら、己れが不利な時には、直ちに相手方を訴えて損失を免れようとする如き不徳を人民に教うるものであって、善良の風俗に反すること賭博その物よりも甚だしいのである。これけだし結果にのみ重きを措《お》き過ぎて、手段の如何《いかん》を顧みなかった過失であって、古《いにし》えの立法家のしばしば陥ったところである。立法は須《すべか》らく堂々たるべし。竹内の新法の如き小刀細工は、将来の立法者の心して避くべきところであろう。
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一七 喫煙禁止法
煙草の伝来した年代については、諸書に記しているところ互に異同があって、これを明確に知ることは出来ないようであるが、「当代記」の慶長十三年十月の条に、
[#ここから2字下げ、「レ」は返り点]
此二三ヶ年以前より、たばこと云もの、南蛮船に来朝して、日本の上下専レ之、諸病為レ此平愈と云々。
[#ここで字下げ終わり]
と見えているから、この頃には喫煙の風は既に広く上下に行われて、当時のはやり物となっていたようである。かの林羅山《はやしらざん》の如きも、既に煙癖があったと見えて、その文集の中に佗波古《たばこ》、希施婁《きせる》に関する文章が載っており、またその「莨※[#「※」は「くさかんむりに宕」、第3水準1−91−3、62−8]文《ろうとうぶん》」の中に、
[#ここから2字下げ、「レ」は返り点]
拙者《せっしゃ》性癖有レ時吸レ之、若而人《じゃくじじん》欲レ停レ之未レ能、聊《いささか》因循至レ今、唯|暫《しばらく》代レ酒当レ茶|而已歟《のみか》。
[#ここで字下げ終わり]
と記している。
しかるに、幕府は間もなく喫煙をもって無益の費《つい》えとなし、失火の原因となり、煙草の植附けは田畑を荒すなど種々の弊害あるものとして、これを禁止するに至った。「慶長年録」慶長十四年の条に、
[#ここから2字下げ、「レ」は返り点]
七月、タバコ法度《はっと》之事、弥《いよいよ》被レ禁ト云々、火事其外ツイエアル故也。
[#ここで字下げ終わり]
と見えているが、これが恐らくは喫烟禁止令の初めであろう。
この後《の》ち慶長十七年八月に至って、幕府は、一季居、耶蘇教、負傷者、屠牛《とぎゅう》に関する禁令とともに、煙草に関する禁令をも天下に頒った。
[#ここから2字下げ、「レ一二」は返り点]
一、たばこ吸事|被二禁断一訖《きんだんせられおわんぬ》、然上は、商賣之者迄も、於レ有二見付輩一|者《は》、双方之家財を可レ被レ下、若《もし》又於二路次一就二見付一者、たばこ並売主を其在所に押置可二言上一、則付たる馬荷物以下、改出すものに可レ被レ下事。
附、於二何地一も、たばこ不レ可レ作事。
右之趣御領内江[#「江」はポイント小さく右寄せ]|急度《きっと》可レ被二相触一候、此旨被二仰出一者也、仍如レ件《よってくだんのごとし》。
慶長十七年八月六日
[#ここで字下げ終わり]
この後ちも幕府はしばしば喫煙および煙草耕作の禁令を出したことは、拙著「五人組制度」の中にも記して置いた通りである。しかし、この類《たぐい》の禁令はとかくに行われにくいものと見えて、その頃の落首に、
[#ここから2字下げ]
きかぬもの、たばこ法度に銭法度、
玉のみこゑにけんたくのいしや。
[#ここで字下げ終わり]
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一八 禁煙令違犯者の処分
慶長年中に、幕府が喫煙禁止令を出したとき、諸国の大名もまたそれぞれその領内に対して禁煙令を出したようであるが、就中《なかんずく》薩摩の島津氏の如きは、その違犯者に対して随分厳罰を科したのであった。一体、薩摩は当時のいわゆる南蛮人が夙《はや》くから渡来した地方であるから、煙草の如きも比較的早くよりこの地方に伝播《でんぱ》して、喫煙の風は余程広く行われ、その弊害も少なくはなかったものと見えて、かの文之和尚の「南浦文集」の中にも、風俗の頽敗と喫煙の風とに関した次の如き詩を載せている。
[#ここから2字下げ、「一二」は返り点]
風俗常憂頽敗※[#「※」は「しんにょうに端のつくり」、第4水準2−89−92、65−8] 人人左衽拍二其肩一
逸居飽食坐終日 飲二此無名野草煙一
[#ここで字下げ終わり]
それで、島津氏も厳令を下して喫煙を禁止しようとしたのである。「崎陽古今物語」という書に次の如き記事が見えている。
[#ここから2字下げ、「レ一二」は返り点]
竜伯様(島津義久)惟新様(島津義弘)至二御代に一、日本国中、天下よりたばこ御禁制に被二仰渡一、御|国許《くにもと》之儀は、弥《いよいよ》稠敷《きびしく》被二仰渡一候由候処に、令《せしめ》二違背一密々呑申者共有レ之、後には相知、皆死罪に為レ被二仰渡一由候云々。
[#ここで字下げ終わり]
この如く違犯者を死刑に処するまでに厳重に禁制し
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