り]
嗚呼《ああ》これ実に大聖ソクラテスの最後の一言であって、こは実に「その義務を果せ」という実践訓を示したものである。
[#ここから2字下げ]
プラトーンの「ファイドーン」編の末尾に記していわく、「彼は実に古今を通じて至善、至賢、至正の人なり」と。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

 八 副島種臣伯と大逆罪


 明治二年、新律編修局を刑法官(今の司法省)内に設け、水本保太郎(成美)、長野文炳、鶴田弥太郎(皓)、村田虎之助(保)に新律取調を命ぜられた。かくて委員諸氏は大宝律令、唐《とう》律、明《みん》律、清《しん》律などを参酌して立案し、同年八、九月の頃に至ってその草案は出来上ったが、当時の参議|副島種臣《そえじまたねおみ》氏はこれを閲読して、草案「賊盗律」中に謀反《むほん》、大逆の条《くだり》あるを発見して、忽ち慨然大喝し、「本邦の如き、国体万国に卓越し、皇統連綿として古来かつて社稷《しゃしょく》を覬覦《きゆ》したる者なき国においては、かくの如き不祥の条規は全然不必要である。速に削除せよ」と命じた。依って委員はこれに関する条規を悉《ことごと》く草案より除き去り、同年十二月[#岩波文庫の注は「翌三年十二月の誤り」とする]に「新律綱領」と題して頒布せられた。昔ギリシアのアテネにおいて、何人もその父母を殺すが如き大罪を犯すことはあるまじき事であるというので、親殺の罪を設けなかったのも、けだし同じ趣旨に出たものであろう(Manby v. Scot, Smith's Leading Cases.)。またヘロドーツスの歴史によれば、古代のペルシアにおいては、真正の親を殺す者のあるはずがないとし、偶《たまた》ま親を殺す者があっても、その者は私生児であるとしたということである。
 明治六年五月に頒布せられた「改定律例」にも、やはり謀反、大逆の罪に関する箇条《かじょう》は載せられなかった。その後《の》ち、仏国人ボアソナード氏が大木司法卿の命を受けて立案した刑法草案は、明治十年十月に脱稿したが、同年十二月、元老院内に刑法草案審査局を置いて、伊藤博文氏を総裁とし、審査委員を任命して、その草案を審議せしめることとなった。
 しかるに、その草案中、第二編第一章に、天皇の身体に対する罪、第二章に、内乱に関する罪の箇条があったので、その存否は委員中の重大問題となったが、竟《つい》にその処置に付き委員より政府に上申して決裁を乞うに至った。しかるに、翌十一年二月二十七日、伊藤総裁は審査局に出頭し、内閣より上奏を経て、皇室に対する罪および内乱に関する罪は、これを存置することに決定したる旨を口達せられた。依って明治十三年発布の刑法以来、皇室に対する罪および国事犯に関する条規を刑典中に見るに至った。
[#改ページ]

 九 大津事件


 法の粗密に関する利害は一概には断言し難いものであるが、刑法の如き、特に正文に拠《よ》るに非ざれば処断することを許さぬ法律は、たとい殆んど起り得べからざる事柄でも、事の極めて重大なるものは、その規定を設けて置かねばならぬということは、大津事件および幸徳事件の発生に依《よ》って明らかである。皇室に対する罪は、前に話した如く、副島伯の議論に依って一度削除されてしまったが、その後ち、伊藤公の議に依って規定を設けられたために、幸徳らの大逆事件も、拠って処断すべき法文があったのである。しかるに、同じく伊藤公の議によって刑法中にその規定を設けられなかった事について、最大困難に逢着したことが起った。それは即ち有名な大津事件である。
 明治二十四年五月十一日、滋賀県の巡査津田三蔵なる者が、当時我邦に御来遊中なる露国皇太子殿下(今帝陛下)を大津町において要撃し、その佩剣《はいけん》をもって頭部に創《きず》を負わせ奉った。この報が一たび伝わるや、挙国|震駭《しんがい》し、殊に政府においては、今にも露国は問罪の師を起すであろうとまで心配し、その善後策について苦心を重ねたのであった。しかるに当時の刑法においては、謀殺未遂は死刑に一等または二等を減ずることになっていたので、津田三蔵は、重くとも無期徒刑以上に処することは出来なんだのであった。しかも、政府は心配の余り、三蔵を極刑に処するに非ざればロシヤに対して謝するの道なきものと考え、廟議《びょうぎ》をもって、我皇室に対する罪をもってロシヤの皇室に対する罪にも適用すべきものなりと定めて、三蔵の非行に擬するに刑法百十六条の「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」とある法文をもってし、遂に検事総長に命じてこれを起訴せしめた。
 当時は、憲法が実施せられて僅に一年の時である。憲法には司法権の独立が保障してあり、また明文をもって臣民の権利を保障して、「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非ズシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」と規定してある。また刑法第二条には「法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ズ」との明文があるのである。これにも係《かかわ》らず、検事総長は、当局の命令によって、我皇室に対する罪をもって三蔵の犯行に擬せんとした。しかのみならず、時の司法大臣および内務大臣は、自ら大津に出張し、裁判官に面会して親しく説諭を加えんとした。しかれども、幸いにして当時の大審院長児島惟謙氏が、身命と地位を賭して行政官の威圧を防禦し、裁判官の多数もまたその職務に忠実にして、神聖なる法文の曲解を聴《ゆる》すことなく、常人律をもってこれを論じ、三蔵の行為を謀殺未遂として無期徒刑に処し、我憲法史上に汚点を残すことを免かれたのであった。
 当時我ら法科大学の同僚も意見を具して当局に上申し、皇室に対する罪をもって三蔵の犯罪に擬するの非を論じた。しかるに当局および老政治家らの意見は、三蔵を死に処して露国に謝するに非ざれば、国難忽ちに来らん、国家ありての後の法律なり、煦々《くく》たる法文に拘泥して国家の重きを忘るるは学究の迂論《うろん》なり、宜しく法律を活用して帝国を危急の時に救うべしというにあった。副島種臣伯の如きは、さすがは学者であったから、余らの論を聴き、天皇三后皇太子云々を外国の皇族に当つるの不当なることを知り、また前に草案中の外国に関する箇条は悉《ことごと》く削除したることも知りおられたるをもって、慨嘆して「法律もし三蔵を殺すこと能わずんば種臣彼を殺さん」と喚《よば》わられたとのことである。我輩は当時これを聞いて、「伯の熱誠は同情に値するものである。三蔵を殺すの罪は、憲法を殺し、刑法を殺すの罪よりは軽い」と言うたことがある。
 そもそも、大津事件においてかくの如き大困難を生じたのは、これ全く立法者の不用意に起因するものと言わねばならぬ。はじめ、明治十年に旧刑法の草案成り、元老院内に刑法草案審査局が設けられた時、第一に問題となった事は、実に草案総則第四条以下外国に関係する規定と、第二編第一章天皇の身体に対する罪との存否であった。委員会はこれを予決問題としてその意見を政府に具申したところ、十一年二月二十七日に至り、総裁伊藤博文氏は、外国人に関する条規は総《す》べてこれを削除すること、また皇室に対する罪はこれを設くることを上奏を経て決定したる旨を宣告した。当時に在っては、あたかも「新律綱領」制定の当時副島伯が皇室に対する罪を不必要と考えた如くに、外国の主権者または君家に対する犯行が起るべしとは、夢にも想い到ることはなかったことであろう。しかるに、幸徳事件はこの時に皇室に対する罪が定められてあったために拠《よ》るべき条文があり、大津事件はこの時に外国に関する条文が総べて削られてあったので、拠るべき特別の条規がなく、そのために外国の皇室に危害を加えたる場合といえども、常人に対する律をもってこれに擬して、無期徒刑に処するの外はなかったのである。即ち明治十三年発布の刑法には皇室に対する罪が設けられてあったために、幸徳事件にはこれに適用すべき特別法文があり、外国に関する事が悉《ことごと》く削られてあったために、大津事件にはこれに適用すべき特別法文がなかったのである。
[#改ページ]

 一〇 副島種臣伯と量刑の範囲


 副島伯は漢儒であって、時々極端なる説を唱えられたから、世間には往々《おうおう》伯を頑固なる守旧家の如くに思っている人もあるようなれども、我輩の伝聞し、または自ら伯に接して知るところに依れば、伯は識見極めて高く、一面においては守旧思想を持しておられたにもかかわらず、他の一面においては進歩思想を持して、旧新共にこれを極端に現された人のように思う。前に掲げた大津事件の際に、「法律もし三蔵を殺す能わずんば、種臣これを殺さん」と喚《よば》わられた如きは、一方より観れば、極端なる旧思想の如く思われるけれども、また他方よりこれを観れば、伯はよく律の精神を解しておられた人であるから、暗に普通殺人律論の正当なるを認められたものとも解釈せられる。
 明治三年、「新律綱領」の編纂があった時、当時の委員は皆漢学者であったので、主として明《みん》律、清《しん》律などを基礎として立案したのであるが、伯は夙《つと》に泰西の法律に着目し、箕作麟祥《みつくりりんしょう》氏に命じてフランスの刑法法典を翻訳せしめ、これを編輯局に持参して、支那律に倣《なら》って一の罪に対して一定不動の刑を定むるの不当なる所以を論弁し、量刑に軽重長短の範囲を設くべき旨を主張せられたという事である。伯のこの議論は、当時極端なる急進説と認められたので、明治六年発布の「改定律例」にも採用せられなかったが、爾来《じらい》十年を経たる後、明治十三年発布の刑法に至って、漸《ようや》く採用せられたのである。
[#改ページ]

 一一 ドラコーの血法


 ドラコーはアテネの上古に酷法の名高き「血法」を制定した人である。この法律は、実に紀元前六二一年、彼が執政官の職に在ったときに制定せられたものである。ただしバニャトー(Bagnato)らの説によれば、右の酷法は、決してドラコーの創意に出たものではなく、その内容は、アテネ古来の慣習法としてドラコー以前に存在し、彼はただこれを成文法としてなしたるに過ぎないということである。
 この説の当否はとにかく、ドラコーの法は実に驚くべき酷法であって、「血法」とは名づけ得て妙と言わざるを得ない。そしてその最も惨酷極まる点は、実に死刑の濫用にあるのである。叛逆殺人などの重罪を罰するに死刑をもってするさえ、現今では兎角《とかく》の論もあるのに、ドラコーの法では、野に林檎《りんご》の一二|顆《か》を盗み、畑に野菜の二三株を抜いた者までも、死刑に処する。否、これなどは血法中ではまだ寛大な箇条というべきであって、怠惰なる者を罰するに死刑をもってするに至っては、実に思い切った酷法と謂わなければならぬ。なおその上に、刑罰を科せられるものは、人類のみに止まらずして、無生物にまでも及び、石に打たれ木に圧されて死んだ者があった時には、その木石に刑を加えるのであった。けだしこれは、民をして殺人の重罪たる事を知らしめる主意であったのであろう。
 ドラコーの法は、実に酷烈かくの如きものであって、一時満天下を戦慄せしめたが、苛酷がその度を過ぎていたために、かえって永くは行われなかったということである。
 或人ドラコーに向って、「何故に犯罪は殆ど皆死をもって罰するのであるか」と尋ねた。ドラコーは答えて、「軽罪があたかも死刑に相当するのである。重罪に対しては余は適当の刑罰なきに苦しむのである」と言ったとか。たといバニャトーの説の如く、この酷法の内容は以前より存していたにもせよ、立法者の刑罰主義もまた与《あずか》って力あったことは疑うべくもない。
 プルタークの英雄伝によれば、「血法」なる名称はデマデス(Demades)の評語に起源している。曰く、ドラコーは墨をもってその法を記したるものにあらず、血をもってせしなりと。
[#改ページ]

 一二 ディオニシウス、懸柱の法


 昔シラキュース王ディオニシウス(Dionysius)は、桀紂《けっ
前へ 次へ
全30ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
穂積 陳重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング