)はシラキュースの立法者であるが、当時民会ではしばしば闘争殺傷などの事があったので、彼は兵器を携えて民会に臨むことを厳禁し、これに違《たが》う者は死刑に処すべしとの法を立てた。或時ディオクレスは敵軍が国境に押寄せて来たという知らせを聞いて、剣を執って起ち、防禦軍を指揮せんがために戦場に赴《おもむ》こうとしたが、偶々《たまたま》途中で民会において内乱を起さんことを議しているという報知を得たので、直ちに引返し、民会に赴いてこれを鎮撫しようとした。
 ディオクレス民会に到り、まさに会衆に向って発言しようとした時、叛民の一人は突然起立して、「見よディオクレスは剣を帯びて民会に臨んだ。彼は己れの作った法律を破った」と叫んだ。ディオクレスはこれを聴いて事急なるがために想わず法禁を破ったことを覚り、一言の内乱鎮撫に及ぶことなく、「誠に然り。ディオクレスは自ら作った法を行うに躊躇する者に非ず」と叫んで、直ちに剣を胸に貫いてその場に斃《たお》れた。
 この至誠殉法の一語は、民会に諭《さと》す百万言よりも彼らの叛意を翻すに殊効《しゅこう》があったろうと思う。
 ツリヤ人の立法者カロンダス(Charondas)についても、殆んどこれと同一の伝説があるが、この二つの話の間に関係があるや否やについては未だ聞いたことがない。
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 六 ソクラテス、最後の教訓


 大聖ソクラテスの与えた最後の教訓は、実に国法の威厳に関するものであった。
 今を去ること凡《およ》そ二千三百有余年の昔、彼が単衣跣足《たんいせんそく》の姿で、当時世界の文化の中心と称せられておったギリシアのアテネの市中、群衆|雑鬧《ざっとう》の各処に現れて、その独特会話法に依って自負心の強い市民を教訓指導し、就中《なかんずく》よく青年輩の指導教訓に力を致したことは、甚だ顕著なる事実である。もとよりソクラテス自らは決して一世の指導者をもって敢えて自任していた訳ではない。ただ人々と共に真善の何ものなるかを知ろうと欲したのであった。しかしながら、彼の真意を了解しない大多数の俗衆は、かえってソクラテスのために、各自の自負心を傷つけられたものと考え、これがために彼に対して怨《うらみ》を抱《いだ》くこととなったが、終に或機会をもって、彼は新宗教を輸入唱導して国教を顛覆し、且つまた詭弁を弄して青年の思想を惑乱する者である、という事を訴えることとなった。
 かくてメレートスやアヌトスなどの詐言《さげん》のために、とやかくといろいろ瞞着《まんちゃく》された結果、種々の裁判の末に、我大聖ソクラテスは遂に死刑を宣告せられることとなった。
 さて、いよいよ死刑が執行されるという日の前日になって、ソクラテスの門弟の一人なるクリトーンはソクラテスに面会して、この不正なる刑罰を免れるために脱獄を勧めようと思って、早朝その獄舎に訪ねて来た。来て見たところが、ソクラテスは、さも心地《ここち》よさそうに安眠しておったのである。クリトーンは、師がその死期の刻々に近づきつつあるにもかかわらず、かく平然自若たるを見て如何にも感嘆の情を禁《とど》めることが出来なかったが、やがてソクラテスの眠より覚めるのを俟《ま》って、脱獄を勧めた。
 クリトーンは、裁判の不正なること、刑罰の不当なることを説いて、師がかく生命を保ち得られる際に、自ら好んで身を死地に投じてこれを放棄せられるのは、むしろ悪事を敢えてなさんとせられるものであって、今甘んじてこの刑に就くのは、これ即ち敵人の奸計に党《くみ》するものであるといわねばならぬと述べ、またこの際、妻や子供らを見捨てるのは、師が平素から、子供を教養することの出来ない者は子を設けてはならぬと言われておった垂訓にも悖《もと》るものであり、またこの容易にして且つ危険のない脱獄を試みないのは、畢竟《ひっきょう》、善にして勇なる所業をなさないものであるから、平生徳義の貴ぶべきことを唱導せられた師としては、甚だ不似合なことで、自分は、師のためにも、はたまたその友たるクリトーン自身のためにも、慚愧《ざんき》の念に堪えざる次第であると説き、なおその辞をつづけて、
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サア、どうぞこの処を能《よ》く能《よ》く御考え下さいまし。否もう御熟考の時は已《すで》に過ぎ去っております。――私どもは決心せねばなりませぬ。――今の場合、私どものなすべきことはただ一つだけ、――しかも、それを今夜中に決行せねばなりませぬ。――もしこの機会を外したなら、それは、とても取り返しが附きませぬ。――サア、先生、ソクラテス先生、どうぞ私の勧告をお聴き入れ下さいまし。
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情には脆《もろ》く、心は激し易いクリトーンが、かくも熱誠を籠めて、その恩師に対《むか》って脱獄を勧めたのであった。ソクラテスは、その間、心静に、師を思う情の切なるこの門弟子《もんていし》の熱心なる勧誘の言葉に耳を傾けておったが、やがて徐《おもむろ》に口を開いて答えていうには、
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親愛なるクリトーンよ、汝の熱心は、もしそれが正しいものならば、その価値は実に量《はか》るべからざるものである。が、しかし、それがもし不正なものであるならば、汝の熱心の大なるに随って、その危険もまた甚だ大なるものではあるまいか。それ故、余は先ず、汝の余に勧告する脱獄という事が、果して正しい事であるか、あるいはまた不正の事であるかを考える必要がある。余はこれまで、何時《いつ》も熟考の上に、自分でこれが最善だと思った道理以外のものには、何物にも従わなかったものであるが、それを今このような運命が俄《にわか》に我が身に振りかかって来たからと言って、自分のこれまで主張してきた道理を、今更投げ棄ててしまうことは決して出来るものではない。否、かえって余に取っては、これらの道理は恒《つね》に同一不易のものであるから、余の従前自ら主張し、尊重しておったことは、今もなお余の同じく主張し尊重するものであるのだ。
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と述べ、なお言葉をついで、
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ただ生活するのみが貴いのではない。善良なる生活を営むのが貴いのである。他人が己れに危害を加えたからとて、我れもまた他人に危害を加えるなら、それは、悪をもって悪に報いるもので、決して正義とは言えない。して見れば、今汝がいうように、たといアテネの市民らが、余を不当に罰しようとも、我れは決してこれを報いるに害悪をもってすることは出来ないのである。
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と言い、また、
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もし余がこの牢屋を脱走せんとする際、法律および国家が来って、余にソクラテスよ、汝は何をなさんとして居るか。汝が今脱獄を試みようとするのは、即ち汝がその力の及ぶ限り法律および全国家を破壊しようとするものではないか。凡そその国家の法律の裁判に何らの威力もなく、また私人がこれを侮蔑し、蹂躙するような国家が、しかもなおよく国家として存立し、滅亡を免れることが出来るものであると汝は考えるかと問うたならば、クリトーンよ、我らはこれに対して何と答うべきであるか。
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と言い、なおこれに次いで、国家および法律を擬人して問を設け、国法の重んずべきこと、また一私人の判断をもってこれに違背するは、即ち国家の基礎を覆さんとするものであるということを論じ、更にクリトーンに向って、
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我らはこれに答えて、「しかれども国家は已《すで》に不正なる裁判をなして余を害したり」と答うべきか。
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と言い、クリトーンが、
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勿論です。
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と言ったのに対して、
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しからば、もし法律が、ソクラテスよ、これ果して我らと汝と契約したところのものであるか。汝との契約は、如何なる裁判といえども国家が一度これを宣告した以上は、必ずこれに服従すべしとの事ではなかったかと答えたならば如何に。
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と言い、更にまた、たとい悪《あ》しき法律にても、誤れる裁判にても、これを改めざる以上は、これに違反するは、徳義上不正である所以《ゆえん》の理を説破し、なお進んで、
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凡そアテネの法律は、いやしくもアテネ人にして、これに対して不満を抱く者あらば、その妻子|眷族《けんぞく》を伴うて、どこへなりともその意に任せて立去ることを許しているではないか。今、汝はアテネ市の政治法律を熟知しながら、なおこの地に留っているのは、即ち国法に服従を約したものではないか。かかる黙契をなしながら、一たびその国法の適用が、自己の不利益となったからといって、直ちにこれを破ろうとするのは、そもそも不正の企ではあるまいか。汝は深くこのアテネ市を愛するがために、これまでこの土地を距《はな》れたこととては、ただ一度イストモスの名高き競技を見るためにアテネ市を去ったのと、戦争のために他国へ出征したこととの外には、国境の外へは一足も踏み出したことはなく、かの跛者や盲人の如き不具者よりもなお他国へ赴いたことが少なかったのではないか。かくの如きは、これ即ちアテネ市の法律との契約に満足しておったことを、明らかに立証するものではあるまいか。且つまたこの黙契たるや、決して他より圧制せられたり、欺かれたり、または急遽の間に結んだものではないのであって、もし汝がこの国法を嫌い、あるいはこの契約を不正と思うたならば、このアテネ市を去るためには、既に七十年の長年月があったではないか。それにもかかわらず、今更国法を破ろうとするのは、これ即ち当初の黙契に背戻《はいれい》するものではないか。
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と言うて、縷々《るる》自己の所信を述べ、故にかかる契約を無視すれば、正義を如何にせん、天下後世の識者の嗤笑《ししょう》を如何にせん。もしクリトーンの勧言に従って脱獄するようなことがあれば、これ即ち悪例を後進者に遺すものであって、かえって彼は青年の思想を惑乱する者であるという誹毀者らの偽訴の真事であることを自ら進んで表白し、証明するようなものではないかといい、更に、
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正義を忘れて子を思うことなかれ。正義を後にして生命を先にすることなかれ。正義を軽んじて何事をも重んずることなかれ。
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と説き、滔々《とうとう》数千言を費して、丁寧親切にクリトーンに対《むか》って、正義の重んずべきこと、法律の破るべからざることを語り、よりてもって脱獄の非を教え諭したので、さすがのクリトーンも終《つい》に辞《ことば》なくして、この大聖の清説に服してしまったのである。
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 七 大聖の義務心


 古今の大哲人ソクラテスが、毒杯を仰いで、従容《しょうよう》死に就かんとした時、多数の友人門弟らは、絶えずその側に侍して、師の臨終を悲しみながらも、またその人格の偉大なるに驚嘆していた。
 ソクラテスは鴆毒《ちんどく》を嚥《の》み了《おわ》った後《の》ち、暫時の間は、彼方此方《あちらこちら》と室内を歩みながら、平常の如くに、門弟子らと種々の物語をして、あたかも死の影の瞬々に蔽い懸って来つつあるのを知らないようであったが、毒が次第にその効を現わして、脚部が次第に重くなって冷え始め、感覚を失うようになって来た時、彼は先《さ》きに親切なる一獄卒から、すべて鴆毒の働き方は、先ず足の爪先より次第に身体の上部へ向って進むものであるということを聞いておったので、自分で自分の身体に度々触れて見ては、その無感覚の進行の有様を感じておった。そうして、それが心臓に及ぶと死ぬるのであると言うておったが、やがてそれが股まで進んで来た時、急に今まで面に被っていた布を披《ひら》いて、クリトーンを顧みて次の如く語った。
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クリトーンよ、余はアスクレーピオスから鶏を借りている。この負債を弁済することを忘れてはならぬ。(プラトーンの「ファイドーン」編第六十六章)
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