ヌ本案に付き採決の結果は、延期を可とする者百二十三、断行を可とする者六十一で、延期派の大勝利に帰した。
 貴族院から回送された延期案は、六月三日に衆議院に現れ、次いで同案は同月十日の本会議に附せられることになったが、司法大臣田中不二麻呂子の原案否決を希望する演説に次いで、渡辺又三郎君、加藤政之助君、宮城浩蔵君等は原案反対の意見を陳べ、これに対して安部井磐根君、三崎亀之助君の原案賛成の演説があったが、討論の中途で、急に山田東次君、宮城浩蔵君等の十名から「民法中一部延期ニ関スル法律案」と題して「明治二十三年法律第九十八号民法中人事編並ニ財産取得編中第十三章及第十四章ノ実施ハ来ル明治二十七年十二月三十一日マテ之ヲ延期ス」という修正案が提出された。この修正案は断行派の拠った最後の塹壕《ざんごう》であって、延期派の砲撃は人事編並に財産取得編中の相続法に対して最も猛烈であったから、この二部だけは見棄てて、他の部分を死守せんとの戦略であったが、大勢如何ともすること能わず、修正説は多数の反対者に依って敗れ、結局原案採決の結果、延期説賛成者百五十二に対する断行説賛成者百七で、延期法案は可決確定することとなった。

  七 戦後における両学派

 商法民法の実施断行および延期修正の論戦は、大体右に述べたような成行であるが、明治二十三年における商法延期戦は、言わば天下分け目の関ヶ原役であって、これに次いで当然起るべくして起った二十五年の民法商法延期戦は、あたかも大阪陣の如きものであったのである。天下の大勢は関ヶ原の一戦に依って既に定ったものの、なお大阪の再挙はどうしても免れることが出来ない勢いであったのである。そしてこの大阪陣を経て始めて大勢一に帰したのである。
 また右に述べたるところに依れば、延期戦は単に英仏両派の競争より生じたる学派争いの如く観えるかも知れぬが、この争議の原因は、素《も》と両学派の執るところの根本学説の差違に存するのであって、その実自然法派と歴史派との争論に外ならぬのである。由来フランス法派は、自然法学説を信じ、法の原則は時と所とを超越するものなりとし、いずれの国、いずれの時においても、同一の根本原理に拠りて法典を編纂し得べきものとし、歴史派は、国民性、時代などに重きを置くをもって、自然法学説を基礎としたるボアソナード案の法典に反対するようになったのは当然の事である。故にこの争議は、同世紀の初においてドイツに生じたる、ザヴィニー、ティボーの法典争議とその性質において毫も異なる所はないのである。延期断行の論争は頗る激烈であって、今よりこれを観れば、随分大人気ない事もあったけれども、その争議の根本は所信学説の相違より来た堂々たる君子の争であったのであるから、この争議の一たび決するや、両派は毫も互に挟《さしはさ》む所なく、手を携えて法典の編纂に従事し、同心協力して我同胞に良法典を与えんことを努めたるが如き、もってその心事の光風|霽月《せいげつ》に比すべきものあるを見るべきである。
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 九八 ザヴィニー、ティボーの法典争議


 第十九世紀の末に我邦に起った法典実施延期戦は、あたかも同世紀の初めにドイツで起ったザヴィニー、ティボーの法典争議とその性質を同じうしているということは、前にも述べたところである。
 第十九世紀の初めにおいて、ドイツ諸国はナポレオンの馬蹄に蹂躙《じゅうりん》せられて、殆んどその独立を失おうとするに至ったが、この時局に慨して、当時ドイツの学者政治家の間には、ドイツの復興策として盛んに民族統一(Volkseinheit)の必要を唱導する者が多かったのである。その説くところに曰く、我らゼルマン民族は、欧洲大陸の中部に国を建て、しかもしばしば他国の侵略を蒙って、動《やや》もすればその独立の基礎を揺がされようとするのは、そもそも何故であるか。これ畢竟諸邦割拠して、民族の共同一致を欠くためではないか。故に、将来我らの独立を確実に維持すべき唯一の良策は、大いに民族的思想を発揮して、ゼルマン民族統一を図るより外はないというのであった。
 一八一四年、ナポレオンがライプチヒの戦に敗れてその本国に潰走した時、当時ハイデルベルヒの大学教授であったティボー(Thibaut)は、ドイツ兵の同市を経て続々仏国に向って進軍する有様を看て、これ正に我ドイツ諸国の独立を回復すべき機運の到来したものであると歓喜し、すなわち筆を呵して堂々ドイツ復興策を論じ、僅々二週日にして一書を公にするに至った。このティボーの著書こそ実にドイツにおける普通民法の必要(Ueber die Nothwendigkeit eines allgemeinen buergerlichen Rechts fuer Deutschland.)と題する小冊子であって、これが即ち有名なる法典争議の発端となったものである。ティボーのこの著書における論旨の要点は、ゼルマン民族の一致合同を図り、内に国民の進歩を計り、外に侵略を防ごうとするには、須《すべか》らく先ずドイツ諸国に通ずる民法法典を制定し、全民族をして同一法律の下に棲息せしめ、同一の権利を享有せしめなければならない。実に民族の統一は法律の統一(Rechtseinheit)に依って得らるべきものであるというにあった。このティボーの説は、当時の学者政治家に大なる感動を与え、一時は法律統一をもってドイツ復興策中最も適切なるものと考えられるに至った。
 しかるに当時ベルリン大学の教授であったザヴィニーは、これに対して「立法および法学における現時の要務」(Beruf unserer Zeit fuer Gesetzgebung und Rechtswissenschaft. 1814.)と題する一書を著わして、ティボーの法典編纂論を反駁した。その要領に曰く、法は発達するものであって、決して製作すべきものではない。一国に法律あるはあたかも国民に国語あるが如く、一国民は大字典の編纂に依ってその国民普通の言語を作ること能わざるが如く、如何なる国民といえども、単に普通法典を作成することに依ってその国民普通の権利を創製することの出来るものではない。法律は国民の精神(Volksgeist)の現われたもので、特に国民の権利の確信(Rechtsueberzeugung)より生ずるものである。法は国民の支体であって、衣服ではない。故にティボーの言うが如く、数年にしてこれを仕立て、これを着用せしめる訳には行かぬものである。故に我民族の法律的統一をなさんと欲せば、須《すべか》らく先ずゼルマン民族の権利確信を統一しなければならない。単に普通法典の編纂に依ってその目的を達しようとするが如きは、あたかも木に縁《よ》って魚を求むるが如きものであって、むしろ退いて網を結び、大いに法律学を起して国民精神を明確にし、徐《おもむ》ろに民族の権利思想の統一を待つには如かないのであると論じた。
 これを要するに、ティボーは自然法学説を信じて、法は万世不変、万国普通なものであるから、法典は何時にても作り得べきものとしたのであるが、ザヴィニーはこれに反して、法は国民的、発達的なものであるとしたのであった。そしてこの法典争議は、素《もと》よりその起因は政治上の議論であったけれども、その根拠とする所は学理論にあったので、このザヴィニーの説からドイツの歴史法学派が起るに至ったのである。
 ティボーの法典編纂論はザヴィニーの反対論のために当時は実行せられなんだけれども、その所論に促されて、爾後ドイツの民族統一運動も追々と行われ、この争議の後《の》ち半世紀を経て、ドイツ帝国は建設せられ、またその間に法律学も著しき進歩をなし、民法を始め各種の普通法典の編纂も行われ、竟《つい》に彼らが理想とせる「一民、一国、一法」(‘Ein Volk, ein Reich, ein Recht.’)の実を挙ぐるに至った。
 ザヴィニー、ティボーの法典争議は、その学理上の論拠、論争の成敗の跡、及びその結局が法典の編纂に帰着したところなど、悉く我法典延期戦に酷似している。我延期戦の後ち両派が握手して法典編纂に努めた如く、ザヴィニー、ティボーの両大家も定めて半世紀の後ち地下において握手したことであろう。
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 九九 民法編纂


 明治二十三年公布の法例、民法および商法は、前に話した通り、激烈なる論争の末、学理に照し実際に考えてその欠点の多きと、我国俗民情に適せざるものあるとの理由に基づいて、竟にその実施を延期し、これを改修することとなり、明治二十五年十一月法律第八号をもって明治二十九年十二月三十一日までその施行を延期することとなった。これにおいて、翌年三月、内閣に法典調査会を置かれることとなったが、伊藤総理大臣は総裁となられる予定であったから、先ずその始めに副総裁たるべき西園寺公望《さいおんじきんもち》侯、および委員に擬せられたる箕作麟祥博士を始め、数名の法律家を永田町の官邸に招いて大体の方針を諮問せられた。その時我輩が伊藤伯の命に依って上申した法典調査に関する方針意見書の大体は、(一)民法の修正は、根本的改修なるべきこと、(二)法典の体裁はパンデクテン式を採用し、サキソン民法の編別に拠るべきこと、(三)編纂の方法は分担起草、合議定案とすること、(四)委員は主査委員中に起草委員、整理委員を置き、起草委員は一人一編を担任し、総則編および法例はこれを兼担することを得ること、(五)各起草委員に補助委員を附すること、(六)委員には各学派は勿論弁護士、実業家などを加うべきこと、(七)議案は事務に関する議案、大体方針に関する議案および法規正文の議案の三種に分つべきことなどであった。
 我らが分担起草案を提出したのは、民法の延期は僅々三箇年の短期間であって、その間に民法の全部を根本的に改修する必要があるのであるから、勢い割普請《わりぶしん》の方法に依らざるを得ざるが故に、ドイツ帝国民法などの例に倣い、一編ごとに一人の起草委員を置いて、これをして総会で定めた方針と、各起草委員の協定した方法とに依って原案を作らしめ、そして特に鋭利明晰なる頭脳を有し、しかも注意細密なる委員を選んで整理委員となし、これをして各起草委員の立案せる原案を調和整理するの任に当らしむべきものとしたのであった。しかるに、富井博士はこの点に付いて始めより民法の起草および議定を三年間におわるの不可能なることを知り、共担起草の方法に依り、三人の起草委員をして協議立案せしめ、法典の主義、体裁、文章用語の一貫を期すべきものとし、法典の編纂を急ぐは不可なり、もし必要なるときは民法の再延期をなすも可なりとの意見を有し、分担起草案に対する修正案を提出せられたが、伊藤総裁もその意見を採用し、富井、梅の両君および我輩の三人に起草委員を命じ、仁井田益太郎、仁保亀松、松波仁一郎の三博士を民法起草の補助委員に、山田三良博士を法例起草の補助委員に任ぜられた。
 かくて、民法草案は明治二十六年五月十二日より二十八年の末に至るまで、会議を重ぬること百五十八回にして、総則、物権および債権の三編を議了し、二十九年一月に第九回帝国議会に提出せられ、議会では一箇条の追加と些少の修正とを加えてこれを可決し、同年四月法律第八十九号として右の三編を公布された。
 しかし法典延期の期限は明治二十九年の末日で尽きるのであるから、同年の帝国議会でなお一箇年半の再延期法案を議定し、十二月二十九日に法律第九十四号としてこれを公布された。
 民法の残部即ち親族編、相続編は、明治二十八年九月十四日より六十九回の会議を重ねて議了し、三十年十二月第十一回の帝国議会に提出された。故に民法全部は前後を通じて二百二十七回の会議で議了せられたことになる。これより先き、法典調査会においては、商法の編纂に着手し、同法起草委員たらしめるため、当時欧洲に滞在中なりし岡野敬次郎博士を召還し、梅博士、田部芳《たなべかおる》博士と共に起草の任に当らしめ、その原案は百三十二回の会議を経て議了せられたから
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