oて、明治二十三年三月二十七日に御裁可があり、翌二十四年一月一日より施行せられることとなったのである。

  三 法律学派

 また当時我邦における法学教育の有様はどうであったかと言うと、明治五年に始めて司法省の明法寮《めいほうりょう》に法学生徒を募集してフランス法を教授したのが初めであるが、これに次いで帝国大学の前身たる東京開成学校では、明治七年からイギリス法の教授を始めることとなった。これがそもそも我邦の法学者が二派に分れる端緒である。その後ち司法省の学校は、明治十七年に文部省の管轄となって一時東京法学校と称したが、翌年に東京大学の法学部に合併されてフランス法学部となった。明治十九年に帝国大学令が発布せられ、翌年法科大学にドイツ法科も設けられた。故に前に挙げた法典の発布された時分には、司法省の学校を卒業したフランス法学者と、大学を卒業したイギリス法学者とが多数あったが、民間にもまた一方にはイギリス法律を主とする東京法学院(今の中央大学の前身)、東京専門学校(今の早稲田大学の前身)等があり、また一方にはフランス法を教授する明治法律学校(今の明治大学の前身)、和仏法律学校(今の法政大学の前身)等があって、互に対峙《たいじ》して各多数の卒業生を出しておった。
 当時の法学教育はかくの如き有様であって、帝国大学の法科大学には英、仏、独の三科があり、私立学校には英法に東京法学院、東京専門学校あり、仏法に明治法律学校、和仏法律学校あり、ドイツ法律家はまだ極めて少数であったから、あたかも延期問題の生じた時分には、我邦の法律家は英仏の二大派に分れておったのである。

  四 延期戦の起因

 かくの如き有様のところへフランス人の編纂した民法とドイツ人の編纂した商法とが発布せられ、しかも商法の如きは千有余条の大法典でありながら、公布後僅に八箇月にして、法律に慣れざる我商業者に対してこれを実施しようとしたのであるから、これについて一騒動の起るのは固《もと》より当然の事であった。
 政府が憲法の実施、帝国議会の開会を目の前に控えながら、これを待たずして倉皇《そうこう》二大法典を発布したのは、聊《いささ》か憲法実施の始より帝国議会を軽視したる如き嫌いがないでもないが、その実は法典編纂が治外法権撤去の条件となっておったので、もしこれを帝国議会の議に附したなら、非常に隙取《ひまど》る恐れがあったからである。
 しかるに第一帝国議会は、民法商法の発布せられた年の十一月に開会せられ、商法の実施期は、その後ち僅に一箇月の近くに迫っていたから、この法典を実施すべきや、将《はたま》た延期すべきやは第一帝国議会の劈頭《へきとう》第一の大問題となった。これより先き、大学の卒業生よりなる法学士会は、政府が法典の編纂を急ぎ、民法商法は帝国議会の開会前に発布せらるべしとの事を聞いて、明治二十二年春期の総会において、全会一致をもって、法典編纂に関する意見書を発表し、且つ同会の意見を内閣諸大臣および枢密院議長に開陳することを議決した。その意見書には法典の速成急施の非を痛論してあったが、これが導火線となって、当時の法律家間には、法典の発布、実施の可否が盛んに論争せられた。英仏両派の論陣はその旗幟《きし》甚だ鮮明で、イギリス法学者は殆んど皆な延期論を主張し、これに対してフランス法学者は殆んど皆な断行論であった。ただ独り富井・木下の両博士がフランス派でありながら、超然延期論を唱えられておったのが異彩を放っておった位である。我輩が「法典論」を著わしたのも当時の事で、法学士会の意見書の全文も同書に載せて置いた。

  五 商法延期戦

 かくの如く法典発布の前より既に論争が始まっておったのであるが、法典は竟《つい》に発布せられ、且つその施行期日も切迫して来たことであるから、英法派は、第一帝国議会において、極力その実施を阻止せんとし、商法の施行期限を明治二十六年一月一日、即ち民法の施行期日まで延期するという法律案を衆議院に提出することとなった。これ実に法典実施延期論の開戦であって、英法派は法学院を根拠として戦備を整え、仏法派は明治法律学校を根拠として陣容を整え、双方とも両院議員の勧誘に全力をつくし、或は意見書を送付し、或は訪問勧説を行い、或は商工会その他の実業団体より請願書を出さしめなどした。そして、一方政府側においてもまた極力断行派の運動を助け、また新聞紙も、社説、雑報などにおいて各々その左袒《さたん》する説に応援し、なおまた双方の法律家は各所に演説会を開いて声援をなすなど、敵味方の作戦おさおさ怠りなかったが、いよいよ十二月十五日の議案に上る前夜に至っては、双方激昂の余り、中には議員に対して脅迫がましき書状を送った者さえもあったとの事である。衆議院では、延期法案の議事は十二月十五、十六の両日にわたったが、延期派の英法学者では元田肇《もとだはじめ》君、岡山|兼吉《けんきち》君、大谷|木備一郎《きびいちろう》君等の法学院派、その他関|直彦《なおひこ》君、末松|謙澄《けんちょう》君等が発議者の重《おも》なる者であった。断行派の仏法学者では井上|正一《しょういち》君、宮城|浩蔵《こうぞう》君、末松三郎君等が最も有力なる論者であった。かくて両軍衆議院の戦場で鎬《しのぎ》を削った結果は、延期説賛成者百八十九に対する断行説賛成者六十七で、とうとう延期派の大勝に帰した。
 衆議院で可決した商法施行延期法案は貴族院に回付されて、十二月二十日に同院の議に附せられ、当時我輩も加藤弘之博士等とともに延期論者中に加わったが、同院においても激論二日間にわたった末、延期説賛成者百四に対する断行説賛成者六十二で、これもまた延期派の大勝に帰してしまった。かくて、同年法律第百八号をもって商法の施行期限を明治二十六年一月一日即ち民法施行と同期日まで延ばすこととなったのである。

  六 民法延期戦

 既成法典の施行延期戦は、商法については延期軍の勝利に帰したが、同法は民法施行期日と同日まで延期されたのであるから、断行派が二年の後を俟《ま》ち、捲土重来して会稽の恥を雪《すす》ごうと期したのは尤も至極の事である。また延期派においては、既にその第一戦において勝利を占めたことであるから、この勢に乗じて民法の施行をも延期し、ことごとく既成法典を廃して、新たに民法および商法を編纂せんことを企てた。故にその後は何となく英仏両派の間に殺気立って、「山雨来らんと欲して風楼に満つ」の概があった。果せるかな。明治二十五年の春に至って、江木衷《えぎちゅう》、奥田|義人《よしと》、土方寧《ひじかたやすし》、岡村輝彦、穂積|八束《やつか》の諸博士を始め、松野貞一郎君、伊藤|悌次《ていじ》君、中橋徳五郎君等法学院派の法律家十一名の名をもって「法典実施延期意見」なるものが発表せられた。右の意見書は、翌年一月一日より施行さるべき民法の実施期日を延べ、徐《おもむ》ろにこれを修正すべしとの趣意であったけれども、その延期の理由として挙げたる七箇条は、民法を根本的に攻撃した随分激烈な文字であったことは、その題目を一見してもこれを知ることが出来る。曰く、
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一 新法典ハ倫常ヲ壊乱ス。
一 新法典ハ憲法上ノ命令権ヲ減縮ス。
一 新法典ハ予算ノ原理ニ違フ。
一 新法典ハ国家思想ヲ欠ク。
一 新法典ハ社会ノ経済ヲ攪乱ス。
一 新法典ハ税法ノ根原ヲ変動ス。
一 新法典ハ威力ヲ以テ学理ヲ強行ス。
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 この宣戦書に対して、明治法律学校派の岸本|辰雄《たつお》、熊野|敏三《としぞう》、磯部四郎、本野一郎の諸博士を始め、宮城浩蔵君、杉村|虎一《とらかず》君、城数馬《じょうかずま》君等が発表した「法典実施断行意見」と題するものの論旨および文字は、一層激烈であった。この意見書も延期意見書の如く題目を立てて左の如く言うておる。
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一 法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ秩序ヲ紊乱《びんらん》スルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ倫理ノ破頽ヲ来スモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ主権ヲ害シ独立国ノ実ヲ失ハシムルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ憲法ノ実施ヲ害スルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ立法権ヲ抛棄シ之ヲ裁判官ニ委スルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ各人ノ権利ヲシテ全ク保護ヲ受クル能ハザラシムルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ争訟紛乱ヲシテ叢起セシムルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ各人ヲシテ安心立命ノ途ヲ失ハシムルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ経済ヲ攪乱スルモノナリ。
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 この題目を一|瞥《べつ》して見てもその内容を想像することが出来る。延期論者を呼んで「痴人ナリ」「狂人ナリ」また「国家ヲ賊害スルモノ」といい、その結末に至って、「特《ひと》リ怪ム、是《この》時ニ当リテ敢テ法典ノ実施ニ反抗セントスル者アルヲ、此輩畢竟不法不理ナル慣習ノ下ニ於テ其奸邪曲策ヲ弄セントスル者ノミ、咄《とつ》何等ノ猾徒《かっと》ゾ」と言うておるが如きは、頗る振っている。
 さて、右の二つの意見書が両軍対戦における最初の一斉射撃であって、それより双方負けず劣らず多数の意見書、弁駁書等を発して、これを議員、法律家、その他各方面に配附した。梅謙次郎博士、高木豊三博士等の組織せる明法会の会員や、当時はまだ法科大学フランス部の学生であった若槻《わかつき》礼次郎君、荒井賢太郎君、入江|良之《りょうし》君、岡村|司《つかさ》君、織田|萬《よろず》君、安達|峯一郎《みねいちろう》君等、あるいはまた東京府下代言人有志者百余名等からも断行意見書が発表され、延期派では当時まだ若手であった花井|卓蔵《たくぞう》君なども盛んに筆を執って延期論を起草された。当時我輩も、法理上から民法の重《おも》なる欠点を簡単に論じたものを延期派の事務所に送って、意見書中の一節とせられんことを請うたが、事務所から「至極尤もではあるが、この際利目が薄いから御気の毒ながら」と言うて戻して来た。なるほど前に挙げた意見書でも分るような激烈な論争駁撃の場合に、法典の法理上の欠点を指摘するなどは、白刃既に交わるの時において孫呉を講ずるようなもので、我ながら迂濶《うかつ》千万であったと思う。要は議員を動かして来るべき議会の論戦において多数を得ることであった。その目的のために大なる利目《ききめ》のあったのは、延期派の穂積八束氏が「法学新報」第五号に掲げた「民法出デテ忠孝亡ブ」と題した論文であったが、聞けばこの題目は江木衷博士の意匠に出たものであるとのことである。双方から出た仰山《ぎょうさん》な脅し文句は沢山あったが、右の如く覚えやすくて口調のよい警句は、群衆心理を支配するに偉大なる効力があるものである。
 かくて、いよいよ明治二十五年になると、「民法商法施行延期法案」は五月十六日をもって先ず貴族院に提出された。その原案は、
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明治二十三年三月法律第二十八号民法財産編、財産取得編、債権担保編、証拠編、同年三月法律第三十二号商法、同年八月法律第五十九号商法施行条例、同年十月法律第九十七号法例及第九十八号民法財産取得編、人事編ハ其修正ヲ行フカ為メ明治二十九年十二月三十一日マテ其施行ヲ延期ス。
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というので、これに関する討議は、同月二十六、二十七、二十八日の三日間にわたって行われ、賛否両方の論争頗る激烈であったが、就中二十七日午後の討議においては、議論沸騰して議場喧噪を極め、遂に議長|蜂須賀茂韶《はちすかもちあき》侯は号鈴を鳴らして議場の整理を行うという有様であった。原案に反対した人々の中には箕作麟祥博士、鳥尾小弥太子らがあり、原案を賛成した人々の中には加藤弘之博士、富井政章博士、村田保君等の諸君があった。第二読会において延期派の小沢武雄君の発議により、前記の原案に「但シ修正ヲ終リタルモノハ本文期限内ト雖モ之ヲ施行スルコトヲ得」という但書を追加せられ、結
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