ウ人の境が多いから、もしそのような場所で、運送契約を破って、女子供の足弱を置去りにすることがあったならば、これ実に生命身体に重大な危険を及ぼすものであって、民事責任をもってしては、制裁が十分でないのは勿論である。印度刑法がこれに臨むに刑事責任をもってしているのは、事情に適した立法といわねばならぬ。かくの如く、性質上は民事責任を生ずべき行為でも、場合によっては、刑事責任を生ぜしめなくては、法律の目的を貫き得ないことがある。立法家の須《すべか》らく留意すべき点ではないか。杓子《しゃくし》定規、琴柱《ことじ》に膠《にかわ》するの類は、手腕ある法律家の事ではない。
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九五 末期養子と由井正雪事件
徳川幕府時代には「末期養子」というものがあった。これは男子の無い者が急病等で危篤に陥ったとき、または重傷を蒙って死に瀕し、人事不省となったときなどに、親類朋友などが相|議《はか》って本人の名をもって養子をすることがあり、また時としては死後|喪《も》を秘し、本人の生存を装うて養子をすることもある。これらの場合を通常「末期養子」といい、また時としては「遽《にわか》養子」もしくは「急養子」ともいうた。
人生常なく、喩《たと》えば朝露の如しで、まだ年が若く、嗣子の無い者で俄《にわか》に死亡する者も随分少なくはない。故にもし末期養子《まつごようし》に依って家督を継ぐことを許さぬ法律があるときは、急病、負傷、変災などのために戸主が突然に死亡して、一家断絶する場合が多くあるのは勿論である。しかるに徳川幕府の初めには、諸侯の配置を整理して幕府の基礎を固くするがために、大名取潰しの政策を行い、末期養子の禁を厳にして、諸侯が嗣子無くして死んだときは、直ちにその封土《ほうど》を没収した。その結果、幕府開始より慶安年間に至るまで約五十年の間に、無嗣死亡のために断絶した一万石以上の諸侯の数が合計六十一家、その禄高五百十七万石余に及んだ。
大名取潰しの結果は浪人の増加である。これら浪人となった者は、本来|概《おおむ》ね生れながら、世禄に衣食しておった者であるから、弓箭槍刀《きゅうせんそうとう》を取って戦うことは知っているけれども、耜鋤算盤《ししょそろばん》を取って自活することは出来難い者である。故に彼らはいわゆる浪人の身となった結果、往々生活に窮し、動《やや》もすれば暴行を働いて良民を苦しめ、あるいは乱を思い不軌《ふき》を謀る者さえ生じたのは、けだし自然の勢ともいうべきであろう。関ヶ原の役に、西軍の将の封《ほう》を失う者八十余人、その結果浮浪の徒が天下に満ち、後の大阪陣には、これら亡命変を待つの徒が四方から馳せ集ったために、一時大阪の軍気の大いに振ったことは人の能《よ》く知るところである。また島原の乱にも、小西の遺臣を始め九州の浪人が多くこれに加わったので、竟《つい》に幕府をして大兵を動かさしめるようになった。正雪《しょうせつ》の陰謀事件の際にも、これに加担して天下の大乱を起そうと企てた浪人の数は、実に二千余人の多きに及んだということである。
浪人は社会の危険分子である。大阪両度の陣、島原の乱、共に浪士の乱ともいうべきものであったから、幕府は浪人の取締を厳重にする必要を認め、特に島原の乱の起った寛永十四年から五人組制度を整備し、比隣検察の法を励行したことは、我輩の「五人組制度」中に論じて置いたところである。既にして、慶安四年に由井正雪の陰謀が露現した後ち、幕府は従来の大名取潰しの政策が意想外の結果を招き、これがためにかえって危険分子を天下に増殖するものであるということに気づき、警察法をもってその末を治めるよりは、むしろその源を塞いで大名取潰しの政策を棄て、浪人発生の原因を杜絶する方がよいということを悟るに至った。
しかるに、前にも述べた如く、幕府が大名取潰しの原因として利用したものの中で、末期養子の禁はその最も著しいものであって、慶安以前に種々の原因に依って除封または減封せられた諸侯の総数百六十九家の中、六十七家は嗣子の無いために断絶せられ、または特恩をもって減禄に止められたものであるから、これがために夥《おびただ》しい浪人を出したことも明らかである。
そこで、由井正雪《ゆいしょうせつ》陰謀事件が慶安四年十一月二十九日|丸橋忠弥《まるばしちゅうや》らの処刑で結了すると、幕府は直ちに浪人の処分の事を議した。十二月十日に白書院で開いた閣老の会議では、酒井|讃岐守忠勝《さぬきのかみただかつ》が浪人江戸払のことを発議し、阿部豊後守忠秋の反対論でその詮議は熄《や》んだが、その翌日に養子法改正に関する法令を発し、五十歳以下の者の末期養子は[#以下「レ一二」は返り点]「依二其筋目一」または「依二其品一」これを許し、跡式を立てしめることとした。故に慶安の養子法改正以後には、諸大名の嗣子無くして死んだためにその家の断絶した例は追々少なくなり、末期養子の禁は爾後《じご》次第に弛《ゆる》んで、天和年間に至ると、五十歳以上十七歳以下の者の末期養子でも、「吟味之上可レ定レ之」と令するに至った。とにかく、慶安以後の法令には「依二其筋目一」とか「依二其品一」とか「吟味之上」とかいう語があって、絶対の禁を弛《ゆる》べたのみならず、その実これを許さなかった例は極めて稀であったのである。随って浪人の数も著しく減少するようになり、正雪事件以後には、浪人の乱ともいうべきものは全くその跡を絶つに至った。
「君臣言行録」の記すところに拠れば、この慶安の養子法改正は、敏慧周密をもって正雪、忠弥等の党与の逮捕を指揮した、かの「智慧伊豆」松平伊豆守信綱の献策であるということである。
なおこの事に関する我輩の考証は、先頃帝国学士院に提出し、「帝国学士院第一部論文集」第一号として出版されているが、それらは余り細かい事に渉っているから、今はその大筋だけを話して置くのである。
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九六 梅博士は真の弁慶
民法起草委員の一人であった梅謙次郎博士は、非常に鋭敏な頭脳を持っておって、精力絶倫且つ非常に討論に長じた人であった。同君は法文を起草するにも非常に迅速であったが、起草委員会において、三人がその原案を議するときには、極めて虚心で、他の批評を容れることいわゆる「流るるが如く」で、即座に筆を執って原稿を書き直したものであった。しかるに原案が一たび起草委員会で定まり、委員総会に提出せられると、同君はその雄健なる弁舌をもってこれに対する攻撃を反駁し、修正に対しても、一々これを弁解して、あくまでもその原案を維持することに努めた。時としては、余り剛情であると思い、同じ原案者なる我々から譲歩を勧めたこともあった。同君の弁論の達者なことは、法典調査会の始めの主査委員会二十回および総会百回に、同君の発言総数が、三千八百五十二回に上っている一事でも分る。
或時、委員の一人にて、これも鋭利なる論弁家であった東京控訴院長長谷川|喬《たかし》君が、総会の席上で原案の理由なきことを滔々《とうとう》と論じていると、梅君はその席から「大いに理由がある」と叫んだ。すると長谷川君は梅君の方を振向いて、「君に言わせると何でも理由がある」と反撃した。これは素より心易い間の戯《たわむれ》ではあるけれども、これに依って、如何に梅君の弁論が達者であって、且つ原案の維持に努められたかの一斑を知ることが出来よう。
富井博士の起草委員ぶりはまるで梅君と反対であった。沈思《ちんし》熟考の上起草された原案は、起草委員会において他の二人が如何に反対しても容易に屈することなく、極力原案の維持に努めて、中には或る重要な規定について、数日間討論を行うた末、議|竟《つい》に合わず、よって富井君一個の案として総会に提出して、その案が総会で採用されたことなどもあった。かくの如く、富井君は起草委員会においては極力原案の維持に努められたけれども、起草委員の原案が一たび総会に提出されると、同君はその心を空《むなし》うして委員全体の批評を待ち、反対論を容るるには毫も吝《やぶさか》ならずというが如き態度であった。
かくの如く二君の態度の互に相反するもののあったのも、各々一理あることである。いやしくも起草委員会において慎重に取調べて案を定め、最も適当なりと信じて提出した以上は、あくまでこれを維持して所信を貫こうと努めるのは当然の事で、これに依って総会の議事も精密になり、自然利害得失の考究も細かになる訳であるから、一歩も譲らず原案を死守するというのも至極尤である。また起草委員会はその原案を作るところであるから、各自が充分にその所信を主張してこれを固執するは当然のことであるけれども、一たびその原案を委員全体の審査に付した以上は、一個の主張は衆議の参考に資するに過ぎぬものにて、法案は畢竟委員全体の意見に依って定まるものであるから、個人責任で定まる起草の際にはあくまで自説を固執するけれども、共同責任なる総会議事においては、なるべく衆議に従わんとするも、また素《もと》より道理至極である。
我輩はある時委員の某博士に、「梅君は委員総会では非常に強いが、起草委員会では誠にやさしい。「内弁慶」ということがあるが、梅君は「外弁慶」である」と言うたら、同博士は「それが本当の弁慶である」と答えられた。
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九七 法典実施延期戦
一 法典争議
明治二十三年および明治二十五年の両度において、我邦の法律家の間に法典の実施断行と延期とについて激烈なる論戦があった。この論争は、我邦の立法史上および法学史上頗る意味の深い事柄であるから、ここにその梗概を話して置こうと思う。
この論争というは、商法民法両法典の実施断行の可否に関する争議であった。即ち明治二十三年三月二十七日に公布せられて、その翌二十四年一月一日より施行せらるべきはずの商法と、および明治二十三年三月二十七日および同年十月六日の両度に公布せられて、明治二十六年一月一日より施行せらるべきはずの民法とには、重大な欠点があるから、その実施を延期してこれを改修しなければならぬとの説と、これに対して、両法典は論者の言う如き欠点の存するものでないのみならず、予定期日においてその実施を断行するは当時の急務であるという説との論争であった。
右の争議に関しては、後ちに述べる如く、当時イギリス法律を学んだ者は概《おおむ》ねみな延期派に属し、フランス法律を学んだ者は概ねみな断行派に属しておったから、この延期戦の真相を説明するためには、予め商法民法編纂の経過と、当時我邦における法学教育の状況とについて一言する必要がある。
二 民法商法の編纂
明治維新の後《の》ち、政府は諸般の改革を行うと同時に、鋭意諸法典の制定に着手した。これは素《もと》より維新以後における政事上の改革および国情民俗の急激なる変遷に伴うためと、古来区々一定せざる諸藩の旧法および各地方の慣習を統一するの必要などに促されたためではあるが、就中《なかんずく》その成功を急いだのは、在来の条約を改正して一日も早く治外法権を撤去したいというのは、当時一般の熱望するところであったが、この条約改正を行うには、法典を制定するという事が、その条件の一つとなっていたからである。
民法の編纂は、明治三年太政官に制度取調局を置き、先ず箕作麟祥博士に命じてフランス民法を翻訳せしめたのがその端緒であって、明治八年民法編纂委員を命じて民法を編纂せしめ、十一年四月にはその草案を脱稿したが、これは殆んどフランス民法の敷写《しきうつし》のようなものであったということである。この後ち明治十二年に至り、政府は更に仏人ボアソナード教授に命じて民法草案を起稿せしめたが、明治二十三年に公布せられた民法の大部分は、実に同氏の起草になったものである。
商法の編纂は、明治十四年太政官中に商法編纂委員を置き、同時にドイツ人ヘルマン・ロェースレル博士に商法草案の起草を命じた。該草案は二年を経て脱稿し、その後ち取調委員の組織などに種々の変遷があったが、結局元老院の議決を
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